ひめちゃんとタバサねーちゃんの両親は、七海ママと小次郎パパです。
ママのふるさとは、伊勢崎市柴町、かつては日光例幣使街道&日光裏街道の柴宿でした。
そして、小次郎パパのふるさとは、前橋市鼻毛石町、かつての勢多郡宮城村鼻毛石です。
日光裏街道の馬場宿の近くです。
不思議なことに、ひめちゃんの両親のふるさとは日光裏街道でつながっていたのです
そしてそして、両親が暮らしひめちゃんたちも暮らしている上野国山上の北隣には、日光裏街道の板橋宿があったのです
日光裏街道の記事が23編あります。
きっかけの記事を確認してから、次に南から振り返ってみたいと思います
しばらくお付き合いくださいませ
大胡町の町中に、目立つ道しるべがあります。
先日、ちょっと駐車して確認しました
「南 五料 伊勢崎」
「東 文化六己巳年六月 世話人 奥泉文平 江原忠兵衛」
え、五料って、あの日光例幣使街道の五料宿ですか
確かに距離はあるけど、南にありそうです。
「西 前橋 米野」
ちょっと見にくいですけど、「北 日光 大間々」です
どうして日光の表示があるのだろう
大胡町の文化財を検索すると、この道しるべがあります。
日光例幣使街道の脇道は、日光裏街道あるいは日光脇往還と呼ばれていました。その1つ、五料(現玉村町)から駒形、茂木を経て、大胡宿に入り、大前田、馬場、室沢、板橋(現桐生市新里町)を過ぎて神梅(みどり市)で足尾銅山街道に合流する街道は、平坦な本街道に比べて、道幅も狭く険しいながら、近道として利用されました。この道造に道しるべがあり、当寺の往来をうかがわせます。
日光裏街道の道しるべですか
新里の板橋も、日光裏街道が通っていたんですね
もう一箇所、「河原浜の道しるべ」が、あがってます
「右桐生・大間々、左日光」と堂々たる文字が刻まれた幅34cm、奥行き18cm、高さ64cmの方柱の道しるべです。造立年月日、造立人などは記されていません。元は河原浜(旧向町)丁字路にありましたが、現在は向町会館に移設されています。
これは確認しなければなりません
昨日、用足しがてら、道しるべの確認と日光裏街道を辿って帰宅しました。
信号待ちの車の中からの撮影です。
ちょっとぼけていますけど、ご容赦
向町の信号です。
最近はめったに通りませんけれど、昔はよく通りました。
右折します。
まもなく、右手に向町会館があります。
バス停は、向町公民館です。
狭いけれど、ちょっと駐車です。
ありました
確かに堂々たる文字で「左日光 右桐生大間々」と刻まれています。
もともとは、あの信号の角にあったのですね。
左日光は、だいたい県道333号線のようです
こちらから帰ってみましょう
途中、ちょっと双体道祖神があるという応昌寺に寄ります。
詳細は後日
応昌寺から県道333号線に戻ります。
左折です。
左折すると、赤城山が見えます
昨日ははっきりしないお天気でした。
前橋市指定史跡五輪塔を右折します。
駐車スペースが見つからないので、探索は後日に持ち越しです。
ちょっと丸みを帯びたやさしい五輪塔にみえました
道なりに東に進みます。
赤信号で、車の中から1枚
馬場町です。
日光裏街道の宿場として、馬場がありました
ひたすら東に走ると、突き当たりです。
県道333号線は、左折します。
左折すると、室沢(むろさわ)の全徳寺です。
室沢も、日光裏街道の宿でした
ここにも、双体道祖神が有ります
現在は、堂宇の中に祀られています。
そして、ここは山上の常広寺の末寺で、現在は常広寺が兼務しています。
たくさんの人々の往来があった室沢宿の全徳寺は、もしかしたら常広寺の繁栄に大きな役割をしたかも知れません
右折し旧新里村に向かいます。
赤城神社があります。
先月(10月)の18日、通りかかったときには、祭礼のようで幟があがっていました
やはり元気に見えます。
昨日はいつものように静かでした。
さて、県道333号線は、足尾銅山街道と合流はまだ先です。
続きはまた後日ということで。
ひめちゃんたちの待つおうちに帰ります
でも、新里の北部の板橋が日光裏街道の宿だったなんて
宿場として、誇る文化があったはずですね
(2020.11.26 記)