黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編34(白柴タバサちゃんの日光裏街道の休憩所・高泉村探訪記)

2023-12-08 19:25:44 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに、シャンプーやさんに行ってきました

ひめちゃんも、最近は、シャンプーやさんのお迎えの車に乗っていけるようになりました

以前は、ひめちゃんだけは、おかあさんが送迎していたのです。

 

日光裏街道の高泉村探訪の頃(2021年1月)、ひめちゃんは獅子丸と東の牧場まで足を伸ばしてました。

そこには、ヤギさん家族がいたのです。

ヤギさん家族のアーカイブです

その後、「食べ物をあげないで」という掲示が出ました

ヤギさん家族は、どんどん減っていなくなってしまいました

 

 

 

 

「日光への脇往還」(街道を歩くシリーズ15 群馬県教育委員会)の地図、桐生市新里町高泉(たかいずみ)付近です。

本日は、日光裏街道・高泉村の文化財等の84番・85番・86番の確認です

86が日光裏街道の休み場とあります。

ここには、以前に行った記憶があります。

でも、石造物があったというだけでした。

日光裏街道の休み場という目で見れば、また違った風景になるでしょう

 

 

2021年の1月、タバサねーちゃんも一緒に探訪です

県道333号線(日光裏街道)板橋の信号をを過ぎて、ちょっと寂しい山道を過ぎると、集落が開けます。

まもなく、ありました

 

 

目立つお地蔵様です

イノシシの捕獲用の檻も見えます。

かつては、日光裏街道の休憩所だったはずですけど、今はそういう場所なのです

 

 

奥は青面金剛です。

邪鬼を踏みつけています。

ちょっと誰かに似ているような?

モデルが近くにいたかな?

優しそうな書面金剛です

 

 

青面金剛の下方には馬頭観音です。

 

 

せっかちおじさんは、タバサちゃんと、もう南の方を探索です。

どこからか、1人でお散歩している子がやって来ました

タバちゃんが、大分興味を持っています

雄犬かな?

高齢犬らしく、静かに去って行きました

 

手前の2基には百番の文字が見えます

百番供養塔ですね。

自分が百ヶ所の霊場巡りをした功徳を、みんなにも分けようとした人がいたのです

 

 

その上方には、灯籠と如意輪観音(?)です。

灯籠には、「寛政七年 高泉村」の文字が読み取れます。

 

先の地図では、如意輪観音としていますけど、かなり個性的です。

宝冠の上に化仏がある如意輪観音ってあったっけ?

二十二夜とも二十三夜とも確認できません。

 

 

ここらへんは、とにかくひっつき草との戦いです

タバちゃんは、比較的上手に避けています

 

この上は、ちょっと大変

多分あの左上の石祠が、地図によると文政8年の石祠でしょう。

最近はほとんど手入れがなされていないようです

ひっつき草の猛攻撃に、おじさん退却です

タバサちゃんは、上手に避けて元気に探検できました

 

 

休み所のということで、かつては小さなお堂やら茶店やらがあったのでしょう

 

 

 

はす向かいに、大きな宝篋印塔があります。

地図では85番です。

この日は寄らずに帰りましたけど、12月に寄ってます

記録に残しましょう。

向こうに見えるのが日光裏街道(県道333号線)です。

萬人供養塔の文字があります。

明治33年建立の文字が読み取れます

明治33年はちょうど西暦1900年ですね。

高泉村に何かあったのかな?

 

先の地図には、寛政十一年大日様ともあります。

この方でしょうね

寛政十一年は確認できませんでした。

 

 

さて、交差点に戻って帰りましょう。

左折して、84番の「文化元年 庚申塔軒道しるべ」を確認して南に下ります。

地図の文化財の解説では、

高泉の庚申塔兼道しるべ、文化元年(1804)建立。台石に「右おうご まいはし」とあり、日光方面からの旅人に教えた道しるべであった。

 

日光方面からも、たくさんの旅人がやって来ていたのです

さっきの休み所の利用者も、たくさんいたことでしょう

 

この庚申塔軒道しるべは、日光方面からの旅人も多かったことの大切な記憶です

タバちゃんたちは、この交差点を南に下って帰りました

 

 

初出  2021.01.15

改稿  2023.12.08

 

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日光裏街道総集編33(関村の八幡宮)

2023-12-03 20:47:48 | 日光裏街道総集編

寒い一日でした。

もうじき、小次郎パパが16歳半で逝ってから1年、獅子丸が突然の事故で逝ってから2年になりす

元の記事に、元気な獅子くんがいます

2020年の4月の獅子くんです

この頃は、まだ、七海ママもそこらまでのちい散歩はできました

獅子くん、実家の生活を謳歌してます

 

 

 

79番龍興寺の北西方向に、神社があります。

関(せき、桐生市新里町関)の八幡宮です。

(2020年)4月5日、大間々の長沢薬師からの帰り、国道353号線に出て、前から気になっていた新里北部の関八幡宮(せきはちまんぐう)に寄りました

 

奥深い所にありそうです。

一の鳥居の額は「八幡大神」です。

 

二の鳥居です。

額は、「正一位稲荷大明神」です。

 

三の鳥居です。

邪魔なおじさんがいますけど、桜と鳥居のコラボいいですね

 

右奥に灯籠が見えます。
その奥に階段です

でも、手すりが付いているのは、ありがたい

 

手すりを伝って、やっと登りきります。

社殿の左側は狭くて、何もありません。

右側(東)から、社殿を望みます。

本殿、清浄な雰囲気です

 

石造物が集められています。

灯籠には、文化10年(1813)とあります。

奥深い所なので、神社が守られているのかなという感じがします

 

階段を降りて、灯籠の年号が眼に入ります。

寛政2年(1790)です。

 

ここは、旧新里村関です。

関には、あの瀧沢不動尊への道に丁抗を設置した龍興寺もあります

瀧沢不動尊への道の丁抗を設置したのは、天明8年(1788)です。

関には摩崖仏もあります

 

関村はどんな村だったのでしょう?

資料を整理していたら、『上野国郡村誌』勢多郡のコピーが出てきました

勢多郡関村は、江戸時代以前は、「古昔不詳」とあります。

江戸時代には領主は度々変わっています。

 

「社」として、

八幡社 村社東西十三間南北十五間三尺反別廿五歩村ノ丑ノ方ニアリ誉田別命ヲ祀ル祭日ハ八月十五日境内杉老樹アリ

ほかに、天神社と稲荷社があります。

 

そうすると、後に八幡社に天神社と稲荷社とか集められたのでしょう。

だから、鳥居が3つなのでしょう。

でもどうして、軍神である誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)を祀る八幡宮がここにあるのでしょう?

関に武将がいたという話も聞きませんし

 

「物産」として、

米麦大豆粟稗蕎麦薪炭繭糸等ナリ各種自用ノ外山田郡大間々町ニ鬻ク

とあります。

自家用の他に、大間々町にも売っていたのです

山を下りた向こうの大間々と、深い関わりを持っていたのです

 

 

初出  2020.04.22  勢多郡関村の八幡宮  カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿  2023.12.03

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