新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・「クイズ・正直村・嘘つき村」の話

2024-10-01 19:25:42 | 「わたし事・学」

続・「クイズ・正直村・嘘つき村」の話


以下のような、(二)の問題の別解を考えてみた。


(二) 正直村と嘘つき村
ある国では、「必ず嘘をつく人だけが住む村」と「正直者だけが住む村」が隣接している地区があるという。
ある人がこの地区に旅行に来て、自分が今いる村がどちらの村なのかが、わからなくなってしまったので、通行人に尋ねてみることにしました。 
一回の質問でここがどちらの村か判断できるようにするには、どう尋ねたらよいでしょうか?
但し、通行人は、隣接している嘘つき村か正直村の住人である可能性もあります。

この問題の答え:「この村は正直者だけが住む村ですか?」という問いに対するあなたの答えは「はい」ですか?



ここで、「通行人に尋ねてみる」事をやめて、
近くの住民宅へ訪問して玄関先で、以下のように質問する。

「ここは貴方の村ですか?」
仮に、ここが正直村の正直住民なら答えは「ハイ」!
また、嘘つき村で嘘吐き住民なら、答えは「イイエ」!

このように問題(一)と同様な質問で正しい問題解決が可能。

もっとも…その住民宅に、訪問者がいて、その者に質問していたならNG!

そう「通行人・訪問者」の登場・条件により、
質問の難易度が問題(一)上がったのだろう。


ここで、正直言説を(+1)・嘘吐き言説を(-1)とするなら~
「あなたの村を訪ねる」事は、

正直者は「正村×(+1)=正村」
嘘吐き者は、「嘘村×(-1)=「嘘村の反対」=正村」

住民に質問したなら、必ず「ハイ」なら正直村、「イイエ」なら嘘吐き村。
でも、ここに「通行人・訪問者」という、必ず「イイエ」と答える要素が入る…
そこに「訪問者・通行人」という、正直村・嘘吐き村の住民とは限らないから…
そこが、正直村or嘘吐き村であろうが、答えは「イイエ」だから…

正直も嘘吐きも「ハイ」、正直も嘘吐きも「イイエ」の中に、
常に「イイエ」が混じってしまう可能性の発生!

これが、問題(三)・(四)の気まぐれ天使・気まぐれ村へ続いている~
気まぐれとは、嘘と誠の混じった言説…だから~





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「クイズ・正直村・嘘つき村」の話

2024-09-23 16:02:33 | 「わたし事・学」


「クイズ・正直村・嘘つき村」の話


先週の今日(と同じ月曜日)の夕食は、
息子と二人で、シャーロック・ホームズのハンバーグディナー・コースだった。

食事中の会話の中で(何故か)「正直村と嘘つき村」クイズの話になった。
息子が、「それなら会社の研修でやったよ!」と言った。
私は私で、教員時代か塾講師時代に、児童・生徒達に、このクイズを出した記憶が蘇った。

以下が、私が知っていた、クイズ問題である。


(一)「正直村と嘘つき村」問題編
正直者だけが住む「正直村」と、嘘つきだけが住む「嘘つき村」があります。
旅の途中で分かれ道に差し掛かったあなたは、そこにいた村人に道を聞こうとしました。
しかし村人がどちらの村人なのかは分かりません。
正直村への道を聞きたい場合、あなたはどのような質問をすれば良いでしょうか?

解答編
この問題にはいくつか解答があります。 よく言われるのは「どちらかの道を指さして『あなたの村はこっちですか?』と聞く」でしょうか。
これなら村人がどちらであっても、指が向いている方向が正直村なら「はい」、嘘つき村なら「いいえ」になります。パターンは以下の通りです。
指さす方向 村人の所属 村人の答え
正直村 正直村 はい
嘘つき村
嘘つき村 正直村 いいえ
嘘つき村
「あなたの村に連れていって欲しい」「あたなの村はどちらですか」などでも正解です。
さて、肩慣らしが済んだ所で応用問題に行ってみましょう。




そこで、この問題の私が思い出したその答-「あなたの村はどちらですか?」と言ったら…
息子に「『どちらか?』ではなく、『ハイorイイエ』で答えさせる…」と言われ…

そこで、「一方の道をさして、『こちらが、あなたの村ですか?』では?」と言ったら…
息子―「道を指さなかった!」

私―「右の道が、あなたの村への道ですか?」
息子―「右も左も、あなたの村も、そんな言葉はなかった!」
息子「……正直村かと聞いたら、あなたは『ハイ』と答えますか?」、こんな感じだったよ!

私は、「そのような答え方も、確かどこかで聞いた…でも…思い出せない」と息子に言って…
その話は終了した…


その後、私にその息子の「正直村と嘘吐き村」の問題文が気になって…
ネットで色々と検索した結果、以下の問題文を発見した。

(二) 正直村と嘘つき村
ある国では、「必ず嘘をつく人だけが住む村」と「正直者だけが住む村」が隣接している地区があるという。
ある人がこの地区に旅行に来て、自分が今いる村がどちらの村なのかが、わからなくなってしまったので、通行人に尋ねてみることにしました。 
一回の質問でここがどちらの村か判断できるようにするには、どう尋ねたらよいでしょうか?
但し、通行人は、隣接している嘘つき村か正直村の住人である可能性もあります。

答え:「この村は正直者だけが住む村ですか?」という問いに対するあなたの答えは「はい」ですか?

この問題文は、初めて知った。
でも、この答え方の記憶はあった。

初めの(一)問題の答えを、右or左を指して、
『こちらは、あなたの住む村ですか?という問いに対するあなたの答えは「ハイ』ですか?
と聞いても、答えは聞き出せる。

しかし、次の(二)問題では、初めの問題の質問ではダメ!


この違いは何だろうか?
何故に、この違いがでるのだろうか?

そんな事を考えながら以下のような問題文を検索し得た。



(三)「気まぐれ天使 (問題)」(正直村と嘘つき村と気まぐれ村・擬き)
旅人が分かれ道にやってきた。 片方は天国に、片方は地獄へと続いている。 そこに3人の天使がやってきた。 旅人は3人の天使に2回だけ質問をして天国に行く道を見つけだすにはなんと聞けばいいか? ただし、3人の天使は正直天使、うそつき天使、気まぐれ天使である。 正直天使は必ず正直な答えをし、うそつき天使はかならず嘘の答えをし、気まぐれ天使は気まぐれであるとする。 外見はそっくりである。

3人の天使とも天国地獄がどっちか知っている・・・が前提です。 最初の質問で3人に「自分を気まぐれ天使と思うか」と質問します。 正直天使・・・NO、うそつき天使・・・YES、気まぐれ天使・・・YESorNO。 つまり必ず回答は2対1に分かれます。 そしてYESがひとりだった場合はその人が「うそつき天使」になります。 YESがふたりだった場合はNOのひとりが「正直天使」です。 さて「うそつき天使」か「正直天使」のどちらかが特定できました。 そこで2回目の質問で「右が天国だと思うか?」と聞き、その人の答えで判断すればOKです。


(四)「正直村と嘘つき村と気まぐれ村」

問題編
常に正直者だけが住む「正直村」と、嘘つきだけが住む「嘘つき村」があります。 そこには双方の村人が結婚して生まれた三兄弟がいました。
三兄弟は「一人は正直」「一人は嘘つき」「一人は気まぐれ」に答えます。 また両方の村を行き来して生活しているので「あなたの村は~」の類の質問には答えられません。
旅の途中で分かれ道に差し掛かったあなたは、そこにいた三兄弟に道を聞こうとしました。 しかし兄弟の誰がどう答えるのかは分かりません。
正直村への道を聞きたい場合、あなたはどのような質問をすれば良いでしょうか? 2回の質問で答えを出してください。
(質問できるのは1度に1人だけです)

ヒント
気まぐれに何を質問してもアテにならないので、最初の質問で誰が気まぐれなのか特定する必要があります。
あとは気まぐれ以外のどちらかに正直者でも嘘つきでも同じ答えになる質問をすれば良いですね。 ただし「あなたの村」という表現は使えないのでひと捻り必要です。
解答編
便宜上、三兄弟をABCとします。
まず最初の質問で「気まぐれではないヤツ」を見つけましょう。 Aに「『Bは気まぐれか?』と聞いたら、あなたは『はい』と答えますか?」と質問します。
この回りくどい質問は判定が二度あるのがポイントです。 コインの裏の裏が表となるように、Aが嘘つきでも正直と同じ回答となります。
Aが気まぐれな場合は回答がアテになりません。 しかし気まぐれでない誰かを探すには、この質問で十分なのです。
以下が回答パターンになるので、確認してみてください。
Aの属性 Bの属性 Cの属性 Aの回答
正直 嘘つき 気まぐれ いいえ
気まぐれ 嘘つき はい
嘘つき 正直 気まぐれ いいえ
きまぐれ 正直 はい
気まぐれ 正直 嘘つき はい/いいえ
嘘つき 正直 はい/いいえ
各人の属性とAの回答パターンから、少なくとも気まぐれではないヤツを探しましょう。 Aの回答が「『いいえ』ならBは気まぐれではない」、Aの回答が「『はい』ならCは気まぐれではない」ことが分かります。
後はその気まぐれではないヤツに対して「『この先にあるのは正直村か?』と聞いたら、あなたは『はい』と答えますか?」と質問します。 回答者が正直でも嘘つきでも、「はい」なら「正直村」、「いいえ」なら「嘘つき村」です。
こうしてあなたは無事正直村に辿り着くことができましたとさ。 めでたしめでたし。
…辿り着けたでしょうか?


この問題(三)と(四)とでは、難易度が少し違う。
三人に同時に質問できた方が、思考が楽。
一回に一人の質問だと少々難しい。

(三)の「気まぐれ天使」の問題から分かった事は、天使全員は天国に住んでいる。
でも、「正直村と嘘つき村」問題では、住んでいる場所が、それぞれ別である。
(二)の「正直村と嘘つき村」の問題では、
質問者が、既に、正直村or嘘つき村のどちらかに、いるので、
「あなたの村は?と質問して、相手の「ハイorイイエ」で、
そこ相手の村が特定できても、それが、この
旅人がいる村である確証になり得ない。


以上のような事に気付けた!



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二重化のついての気付き~

2024-09-07 15:24:07 | 「わたし事・学」
二重化のついての気付き~


数日前に、師範の全集の再読から以下のような気付きが得られた。
そこには、「…一つを二重化して二つへ、そしてその二つを一つへ…」のような事が書かれていた。

この全集は、もう数回も読んでいる…
そんな中、今回は、上記の記述に引っかかった…


そして以下のような事を思った。
目の前の現実・事実を自己の想像可能な「あらまほしき姿」に二重化…
そして、事実・現実を姿に変換できるような関わりを持ち続ける事で、
その現実を変えてしまう事。

「一つを二重化して二つへ」想像物へ、その「二つを一つの連続」実在物へ変えてしまう。

上記のような事を思った時、思い浮かんだのは「玄〇会の運足・足進法」の事である。

空手の普通の運足は、後ろ足を意識・力んで、前足で突っ込むモノ。
でも、私が教えられて玄〇会の運足・足進法は、前足の膝を意識して、その意識で突っ込むモノ。


これは、師範が、
当時の現実・事実的な「後ろ足意識の空手の運足」を
「前足を意識の運足」という「あらまほしき姿」に二重化して…



その為に試行錯誤の訓練法の模索…
その結果、あらたな「運足・足進法」(前足・後足の同時的意識運足)の体得…


「小志を大志へ、現実を夢へ、更に夢を大きな夢へ」二重化~
「少年よ大志を抱け」であり、「大きな夢を描け」…
大志・大きな夢が抱けたなら、それに向かって実行・頑張れ!



こんな事は、誰でも分かり・書ける事…
しかし、実際に実現的な頑張りの持続が至難。







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「死後の人生」の話

2024-09-07 14:54:18 | 「わたし事・学」

「死後の人生」の話


人間に死後の人生があるか?・否か?

普通に考えるなら機能である認識は、実体である人体の機能であるから…
実体である身体が消滅したなら機能である認識も消滅してしまうだろう。
そのような事は、他人の死という現実から見て取れている。

それでも…自分の死が他人と同じだろうか?
自分の死後…自分が消滅しても世界の存在はあり続ける…という事実。
自分にとって、自分は他人とは違う、特別な存在なのだから…
他人と同じとは限らない…と信じたいモノだから…

以前に、このブログのどこかの記事に、
「自分の死後も世界はありつづけるが…」
「自分だけが、この世界から消滅してしまう…」
そんな事実を思う事に違和感・不思議感を感じた…
という内容の記事を書いた覚えがある。


この違和感・不思議感の解消の為に、死後の「あの世」の存在を肯定し信じてみてみたら…
今度は、不思議な安心感が、生じ始めている…


私の死後、この世界での私は消滅しても、新たなあの世での私の誕生…
そこには、今のこの世界には、もう存在しない母・父・親戚・知人…の存在がある。
そんな、あの世では、この世では、別れたくないのに別れてしまった人々に会える喜び…


そんな事が、本当の事だと、信じられるなら…
それは、それで幸せなのだろう。


両方ともを事実だと信じたら、それはそれで矛盾であるが…
しかし…自分の死後の「この世」事も、死後の「あの世」の事も…正しく知り得る術がないなら……
自分が安心感を得られるほうを信じたほうが幸せだろう。

これは、私の「この世での死」が「あの世での生誕」という事なら整合性が…取り得るかも…
まあ~どっちにしても…
悲しいかな「自分の死後」を思ってしまう年齢になってしまった…
という事実の存在があり得ている…


宗教を信じようとしなかった私…
でも、宗教的な「あの世」の存在は、信じてみてもいいかな…










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「信じる者は救われる」という話

2024-09-03 16:07:41 | 「わたし事・学」



「信じる者は救われる」という話


上記の言葉をネット検索したら以下であった。


~~~転写開始~~~


「信じる者は救われる」は、聖書の言葉で、修行やお布施、巡礼をしなくても、イエス様を信じれば救われて天国に行くことができるという意味です。

聖書のローマ人への手紙 10:9-11 では、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と述べられています。また、マルコによる福音書 16:16-18 では、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とされています。

また、真言宗のお寺では、「信じるに足る教えかどうか。よくよく教えを知った上で、信じてみましょう。信じたなら、きっと救われます」と述べられています。


~~~転写終了~~~


さて~「信じる者は救われる」とは、聖書・宗教の言葉…という確認が得られた。
でも…宗教は、信じるだけで、救われるモノではない!
その信じた言葉通りの生き方が出来て初めて救われるモノだろう…


天国の存在を信じて、平穏・善良な人生を送れれば、幸せな人生。
地獄の存在を信じて、悪事をしない人生なら、それも平穏なモノだろう。

人類の原罪を信じて、悪事をしても…それは個人の責任ではなく、
人類的な私がしてしまうモノ…だから、私は悪くない・地獄へは行かない。
なんて~モノコトは考えようであろう。


さてさて…そもそも「信じる」とは何だろう?
例解国語辞典[第四版]によると~「信じるとは、本当だと深く思う事」。



↑だとするなら
「虚偽と確信している事を本当だと思える筈なし」-信じる事は不可能。
また、本当の事なら信じる必要なしー「本当だと強く思う必要なし」。
さすれば~「信じる事が出きるモノゴト」とは、虚偽の確信なし・本当だとう確信なし」の物事となろう。


更に「本当とは何だろう?」上記の辞書によると~
「本当とは、嘘や偽物だはない事。実際の事。事実である。」


事実とは、現実界で起こった事・起こっている事。
なので、人間の認識内の現実界の事実の記憶は、残念な事に「事実ではない」。
従って、ある人の事実の物事発言は、他人にとって、それを事実として認識可能とは限らない。

だから…そこに「信じる」事が必要であろう。
他人の語る事・語っている事が、自分にとっては、事実として認識不能な時・信じられない時…

その言った当人が「事実と確信している」モノでも…
自分には「その確信ができない」時、その言葉を「信じる」心が必要なのだろう…

その言葉を信じて御利益があるか・ないか…で信じる・信じないを決めるのも一法であろう。


最近の私が思った事は、
「天国・地獄」は兎も角…「あの世」の存在についてである。


元々私は神を信じる事はなかった。
ただ…子供時代にサンタさんへの御願いで、
「靴下の中に『身長を後10㎝伸ばして下さい』メモを入れた」事があるが…

最近は、「あの世」の存在を信じれば、
「死んだら家内に会える!」、「あってまた一緒に暮らせる」…
そんな希望が持てるから「あの世の存在を信じてみよう!」なんて…思っている。


そもそも…「あの世」の存在は、死人だけが、認識・確認可能であろう。
よく「死後の世界へ行った・を見た!」という体験談があるが…
それは虚偽であろう~
何故なら「真の死人なら生き返っては来ない。」
生き返ったという事は、「死んではいない事」になろう~

従って、「死後の世界・あの世」の存在は誰にも確認不能。
ならば、その「あの世・死後の世界」を信じる事で家内との再会が期待可能なら…
その事を信じた私は、現生に死後の希望が持てる事で「救われる」だろう。

どう~!
今回の「信じる者は救われる」体験談は???





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