「概念の苦労」・「私の寂しさ」話
昨日、夕食のついでに、行きつけのパソコンショップへ寄って新しいパソコンの話を聞いた。
今、使っているWindows10は、この店で買ったもので、数年前に一度「ハード」を変え貰っていて…
もう~10年近く使い続けているだろうか…その前の2台は…5、6年故障・使えなくなったのに…
さて…そのパソコンは、使い続ける限り常に「アップデート」し続けている。
その理由は、日々の進歩発展でセキュリティー関連の状況の変化に対応できる為~
人間の概念も然り!
概念とは、その人間の認識内にある、ある対象に対する観念。
しかし、その観念・概念の元形は、その人間の関わる周囲の外界の事物にあり。
子供時代の人間には、その生育・成長の(質的な)変化をがあるので、その外界の質的な変化にも即して・時に独自の内界変化の即して変化・運動が可能になっている。
でも…成長期をとうに過ぎ、今は、老化への道を一直線の私には…
世界の質的な変化・運動を受けて、私自身の概念を質的に変化・運動させ得る自然的な能力はない。
そう~自然的がない…それでも質的変化・運動を欲するなら、後は意図的・目的的・意識的なテクニック・手法・技能・技術を体得が求められよう。その「体得・技化すべきモノ」こそが「弁証法・学」なのだろう。
その理由は、「悟りを開く」とは、事物・事象の真理を体得して、
日常生活で、その真理に基づいた常に正しい行動・言動・行為が出来る・可能にある事。
森羅万象・万物の真理とは、全ては変化・運動している!(と私は信じ切っている!)から…
それならば、
自己の概念化し世界の自己の観念的変化・運動性(弁証法性)に
外界の弁証法性(法則化した外界の弁証法的性質の法則化・性<法則の性質>)を帯びさせる事。
さすれば…自己の「内界変化・運動」が「外界の変化・運動」との<一致があり>得る…だろう。
ここで問題が…では「概念」とは?である!
そう、このヒントが今朝の寝起きに(夢世界と現実界)の狭間で気付いた事が関係する。
それは、今朝・寝起きの狭間で突然に「知識は、食物の栄養素の如く、食べ・消化・吸収して…」初めて自己化が達成…
「知識を知識のまま大事に保存・温存」しているだけでは、実生活には殆ど意味なく役に立たない。(なんて妄想が…)
実生活には、その自分の持ち得ている知識の概念化が求められる…
その概念化とは?なんだろうか?
その現実のヒントが、「私の寂しさ」訳話である。
私は、30年にも及ぶ~家内との家族・夫婦・息子の父母共同生活の関係から~
私の観念界も現実界も常に「家内が一緒」の30年の寝起き一緒の過程で~
私の観念界に、現実の家内という概念が実体化され、それは現実と全く一緒化され得ていた(のだろう)
これば、言うなれば、「現実界家内の私観念界での家内概念化」と言えよう。
さて…悲しみの訳・根源は、
この私が「外界での家内の死滅・消滅」を「内界での家内消滅」として受け入れられない事。
これが「私の外界への観念的内界からの問い掛け」だろう~
「外界死滅vs内界存続」という「現実・界vs観念・界」の対立~
この解決は、この双方を事実として受け入れられる自分になる事。
その為の弁証法性=「観念真実(存続)・現実虚偽(存続)」と「現実真実(死滅)・観念虚偽(死滅)」。
「観念界と現実界」・「現実界・観念界」の矛盾の解決法こそが「弁証法・学」なのだろう。
数10年間も、私の外界と一致していた、
私の内界だったのに…ある日に突然の不一致!
これが、無かったモノが登場なら…まだいいのに…
大切だったモノコトの消滅とは…その変化・違和感に納得が不能で…
その違いに(対立物の統一に納得不能で)「悲しみ続けている」私なのだろう
確かに、息子の母親を亡くした悲しみは、私以上なのだろうが…
だが・しかし・彼は、まだまだ成長期である彼には、
その存在・幸福・消滅・不幸的な質的変化でも…
成長期であるが故に、その質的変化を受け入れられる自然成長的な能力がある…
ただ言える事は、「例え、受け入れていても…その強烈な寂しさは変わらない」…
それでも…彼には日々の仕事・生活・仕事仲間~新たな環境でも友達から
更に、・小・中・高・大…学生時代での多くの古くから友達がいる…
先日の日曜日に、彼は、「大学のアルティメット・サークルへ行く…四年生が卒業だから…」と楽しそうに言っていた~
そのような彼の日々の生活~
そして、23歳とまだまだ・ギリギリ成長期の彼には、
そのたぶん…私以上の悲し筈の彼なのに…
私程の泣き言は聞かされていない!聞かされた事もない!
実に出来た息子であろうか…
因みに、私の「息子の概念化は、彼の小学時代で…ギリギリで中学かな」のようですね…
忙しくても、仕事の殆どが6時以降の時代~
日々の私が、家内以上に息子と関わりを持てていた時代の「息子の概念化」…。
そんな私の「息子の概念化」なので…最近の息子は、息子であって、まだ息子ではない…
高校時代・大学時代…そして社会人の今の息子の概念化が必要なのだろう…が…
残念な事に、育つてしまった彼から、過去の彼の概念化は至難…
せいぜい…その時代の彼の写真とニラメッコして、思い出す事だろうが…
ここに家内がいれば、彼女の私と違ってた、その人並外れた記憶力で…
彼女と共に語り合えたのに…語り合いたかったのに…
どう~概念化には、日常共同生活が不可欠の理由…
そして、その概念の日々のアップデートの必要性…
更には、
生誕前・生誕後・成長期・発展期・衰退期・消滅後の新た概念の生々・生成⇒
本能的には生きられない~
人類の一員として、弁証法・学の学びの必然性が少しは通じたかな…
ゐぬお宅へ、
どう~以上これが、今・現時点でも「自由びと言説の栄養素」~
だが・しかし・果たして~ゐぬお宅に、通じて、分かってもらえた!のだろうかな?
そう~私の信じているブラック南郷継正なら、
そのブラック色的に分かって貰えたただろう筈だ!と信じたいかな♪♪♪
昨日、夕食のついでに、行きつけのパソコンショップへ寄って新しいパソコンの話を聞いた。
今、使っているWindows10は、この店で買ったもので、数年前に一度「ハード」を変え貰っていて…
もう~10年近く使い続けているだろうか…その前の2台は…5、6年故障・使えなくなったのに…
さて…そのパソコンは、使い続ける限り常に「アップデート」し続けている。
その理由は、日々の進歩発展でセキュリティー関連の状況の変化に対応できる為~
人間の概念も然り!
概念とは、その人間の認識内にある、ある対象に対する観念。
しかし、その観念・概念の元形は、その人間の関わる周囲の外界の事物にあり。
子供時代の人間には、その生育・成長の(質的な)変化をがあるので、その外界の質的な変化にも即して・時に独自の内界変化の即して変化・運動が可能になっている。
でも…成長期をとうに過ぎ、今は、老化への道を一直線の私には…
世界の質的な変化・運動を受けて、私自身の概念を質的に変化・運動させ得る自然的な能力はない。
そう~自然的がない…それでも質的変化・運動を欲するなら、後は意図的・目的的・意識的なテクニック・手法・技能・技術を体得が求められよう。その「体得・技化すべきモノ」こそが「弁証法・学」なのだろう。
その理由は、「悟りを開く」とは、事物・事象の真理を体得して、
日常生活で、その真理に基づいた常に正しい行動・言動・行為が出来る・可能にある事。
森羅万象・万物の真理とは、全ては変化・運動している!(と私は信じ切っている!)から…
それならば、
自己の概念化し世界の自己の観念的変化・運動性(弁証法性)に
外界の弁証法性(法則化した外界の弁証法的性質の法則化・性<法則の性質>)を帯びさせる事。
さすれば…自己の「内界変化・運動」が「外界の変化・運動」との<一致があり>得る…だろう。
ここで問題が…では「概念」とは?である!
そう、このヒントが今朝の寝起きに(夢世界と現実界)の狭間で気付いた事が関係する。
それは、今朝・寝起きの狭間で突然に「知識は、食物の栄養素の如く、食べ・消化・吸収して…」初めて自己化が達成…
「知識を知識のまま大事に保存・温存」しているだけでは、実生活には殆ど意味なく役に立たない。(なんて妄想が…)
実生活には、その自分の持ち得ている知識の概念化が求められる…
その概念化とは?なんだろうか?
その現実のヒントが、「私の寂しさ」訳話である。
私は、30年にも及ぶ~家内との家族・夫婦・息子の父母共同生活の関係から~
私の観念界も現実界も常に「家内が一緒」の30年の寝起き一緒の過程で~
私の観念界に、現実の家内という概念が実体化され、それは現実と全く一緒化され得ていた(のだろう)
これば、言うなれば、「現実界家内の私観念界での家内概念化」と言えよう。
さて…悲しみの訳・根源は、
この私が「外界での家内の死滅・消滅」を「内界での家内消滅」として受け入れられない事。
これが「私の外界への観念的内界からの問い掛け」だろう~
「外界死滅vs内界存続」という「現実・界vs観念・界」の対立~
この解決は、この双方を事実として受け入れられる自分になる事。
その為の弁証法性=「観念真実(存続)・現実虚偽(存続)」と「現実真実(死滅)・観念虚偽(死滅)」。
「観念界と現実界」・「現実界・観念界」の矛盾の解決法こそが「弁証法・学」なのだろう。
数10年間も、私の外界と一致していた、
私の内界だったのに…ある日に突然の不一致!
これが、無かったモノが登場なら…まだいいのに…
大切だったモノコトの消滅とは…その変化・違和感に納得が不能で…
その違いに(対立物の統一に納得不能で)「悲しみ続けている」私なのだろう
確かに、息子の母親を亡くした悲しみは、私以上なのだろうが…
だが・しかし・彼は、まだまだ成長期である彼には、
その存在・幸福・消滅・不幸的な質的変化でも…
成長期であるが故に、その質的変化を受け入れられる自然成長的な能力がある…
ただ言える事は、「例え、受け入れていても…その強烈な寂しさは変わらない」…
それでも…彼には日々の仕事・生活・仕事仲間~新たな環境でも友達から
更に、・小・中・高・大…学生時代での多くの古くから友達がいる…
先日の日曜日に、彼は、「大学のアルティメット・サークルへ行く…四年生が卒業だから…」と楽しそうに言っていた~
そのような彼の日々の生活~
そして、23歳とまだまだ・ギリギリ成長期の彼には、
そのたぶん…私以上の悲し筈の彼なのに…
私程の泣き言は聞かされていない!聞かされた事もない!
実に出来た息子であろうか…
因みに、私の「息子の概念化は、彼の小学時代で…ギリギリで中学かな」のようですね…
忙しくても、仕事の殆どが6時以降の時代~
日々の私が、家内以上に息子と関わりを持てていた時代の「息子の概念化」…。
そんな私の「息子の概念化」なので…最近の息子は、息子であって、まだ息子ではない…
高校時代・大学時代…そして社会人の今の息子の概念化が必要なのだろう…が…
残念な事に、育つてしまった彼から、過去の彼の概念化は至難…
せいぜい…その時代の彼の写真とニラメッコして、思い出す事だろうが…
ここに家内がいれば、彼女の私と違ってた、その人並外れた記憶力で…
彼女と共に語り合えたのに…語り合いたかったのに…
どう~概念化には、日常共同生活が不可欠の理由…
そして、その概念の日々のアップデートの必要性…
更には、
生誕前・生誕後・成長期・発展期・衰退期・消滅後の新た概念の生々・生成⇒
本能的には生きられない~
人類の一員として、弁証法・学の学びの必然性が少しは通じたかな…
ゐぬお宅へ、
どう~以上これが、今・現時点でも「自由びと言説の栄養素」~
だが・しかし・果たして~ゐぬお宅に、通じて、分かってもらえた!のだろうかな?
そう~私の信じているブラック南郷継正なら、
そのブラック色的に分かって貰えたただろう筈だ!と信じたいかな♪♪♪