「モノ・コト」・「実体・機能」の話
落ちている枝を二本拾って、それを使ってアスファルトの上のミミズをつまんで、地面に戻した。
この時、枝は「モノ」、それを使ってミミズを掴んだのは「コト」。
「モノとモノ」との変化・運動の関係性で起こるのが「コト」。
モノである自動車と自動車の衝突は事故であり「コト」。
人間と自動車の衝突は、生物・人物と物体でおこの「コト」。
では、実体とは、自動車の実体とは、自動車の機能を有するモノ自体・自動車自体。
ならば、故障して動かない自動車は、自動車ではあるが、自動車自体ではなく単なる物体の自動車。
動かない自動車は、単なる物体。
そこに、自動車の機能があって、
初めて「自動車自体」として完成する。
南郷師範の御著書の中での「手の実体」の解説に…
手の皮から骨まで一つ一つ分けても実体は見えない。
手の実体とは、皮・肉・筋肉・骨・神経…が、一体的に頭脳の信号に従って運動している可能な状態「手自体」。
ピアノを一つ一つの部品に分解したら、そこにピアノ実体は消滅。
そのピアノを組み立てても、正しいピアノの機能の復活がないなら、
物体ピアノは完成しても、ピアノ魂のあるピアノ自体にはならない。
そう、実体そのモノ・実体自体は、五感で直接感覚不能!
その一つ一つの「実体の状態=実態」感覚を通して、初めて「実体自体」を識る事が可能。
それは、五感で、感覚できた一つ一つの実態を、
頭脳活動として認識内で、総括・統括する事が出来て、
初めて、その実体自体の姿形が見えてくる~モノだろう…
アスファルト地面に落ちている木の枝には「モノを掴む」機能はない…
二本の枝で、物が掴めるのは、人間の手・指に「モノを掴める機能」があるから…
この場合の「二本の枝」は、人間の手・指の延長…と言えよう。
ここからは、事実的な記述~
以前、洋犬のゴールデンレトリバー犬」を飼っていた。
現在、日本犬の柴犬を飼っている。
洋犬と日本犬は、同じ犬でも…大きく異なっている。
それらには、犬自体を共有しているが…
ゴールデンレトリバーは、「洋犬自体」であり、
柴犬は、「日本犬自体」と言えよう。
端的には~
日本犬の柴犬は、その姿形・性質…が狼に近いモノである。
洋犬のゴールデンレトリバーには、人間的な学習能力があった。
この事から~生命体には、
その進化・発展過程における過程にある「○○自体」が内蔵しいる。
「いのちの物語」に書かれている~
生命現象自体、細胞自体、多細胞自体、魚類自体、両生類自体、哺乳類自体…
それらの上に犬自体、狼自体…そこからの人間との関わりの中から~
洋犬vs日本犬への相違が…
因みに、我が家のゴールデンレトリバー犬のマファは、
滑り台の登りを私のマネをして、斜面はもちろん、階段からも登れた。
水の公園の口のみの蛇口かせ飲む事ができた…
それに比べて、柴犬マロンは、滑り台に興味なし、
水も水道から飲めない…
一度私が蛇口から手で水をすくって口へ持って行ったら…
何と、私の、その手に噛み付こうした…
同じ犬でも…
それらに関わり続けた人々の関わり方によって、
こうまで違っているのは、驚きであった。
本能的統括である動物でさえ、このようである。
ならば…認識的統括である人類が「個性尊重」の元に、教育・生活…し続けたら~
その結果である、人々の多様性は、犬以上のモノになりえようか…
個性的な多様性に何が拙いのか?
それは、個性的人類の集団では、「集団力の発揮」が至難になり得てしまう。
また…人類としてではなく、個人としての指導者が支配している国々では、
その個人・指導者の個性的・個人的な目的達成の為の政治となり得てしまう…のだろう。
集団的な本能のない「猿集団」のボスざる…なのかも…
その集団の利益の為では、ここの団員の利益の為でもなく、
ただ、ただ…自分のしたいようにする指導者。
それは、現在は、全く指導的な立場にない日々の「わたし」の姿のように感じている。
幸か不幸か…指導的な立場・指導者ではない今の「わたし」の言動には影響力が皆無!