新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「概念の苦労」vs「私の寂しさ」話

2025-03-27 12:26:27 | 「わたし事・学」
「概念の苦労」・「私の寂しさ」話




昨日、夕食のついでに、行きつけのパソコンショップへ寄って新しいパソコンの話を聞いた。
今、使っているWindows10は、この店で買ったもので、数年前に一度「ハード」を変え貰っていて…
もう~10年近く使い続けているだろうか…その前の2台は…5、6年故障・使えなくなったのに…


さて…そのパソコンは、使い続ける限り常に「アップデート」し続けている。
その理由は、日々の進歩発展でセキュリティー関連の状況の変化に対応できる為~

人間の概念も然り!
概念とは、その人間の認識内にある、ある対象に対する観念。
しかし、その観念・概念の元形は、その人間の関わる周囲の外界の事物にあり。

子供時代の人間には、その生育・成長の(質的な)変化をがあるので、その外界の質的な変化にも即して・時に独自の内界変化の即して変化・運動が可能になっている。

でも…成長期をとうに過ぎ、今は、老化への道を一直線の私には…
世界の質的な変化・運動を受けて、私自身の概念を質的に変化・運動させ得る自然的な能力はない。

そう~自然的がない…それでも質的変化・運動を欲するなら、後は意図的・目的的・意識的なテクニック・手法・技能・技術を体得が求められよう。その「体得・技化すべきモノ」こそが「弁証法・学」なのだろう。

その理由は、「悟りを開く」とは、事物・事象の真理を体得して、
日常生活で、その真理に基づいた常に正しい行動・言動・行為が出来る・可能にある事。
森羅万象・万物の真理とは、全ては変化・運動している!(と私は信じ切っている!)から…

それならば、
自己の概念化し世界の自己の観念的変化・運動性(弁証法性)に
外界の弁証法性(法則化した外界の弁証法的性質の法則化・性<法則の性質>)を帯びさせる事。

さすれば…自己の「内界変化・運動」が「外界の変化・運動」との<一致があり>得る…だろう。


ここで問題が…では「概念」とは?である!
そう、このヒントが今朝の寝起きに(夢世界と現実界)の狭間で気付いた事が関係する。

それは、今朝・寝起きの狭間で突然に「知識は、食物の栄養素の如く、食べ・消化・吸収して…」初めて自己化が達成…
「知識を知識のまま大事に保存・温存」しているだけでは、実生活には殆ど意味なく役に立たない。(なんて妄想が…)

実生活には、その自分の持ち得ている知識の概念化が求められる…
その概念化とは?なんだろうか?


その現実のヒントが、「私の寂しさ」訳話である。

私は、30年にも及ぶ~家内との家族・夫婦・息子の父母共同生活の関係から~
私の観念界も現実界も常に「家内が一緒」の30年の寝起き一緒の過程で~
私の観念界に、現実の家内という概念が実体化され、それは現実と全く一緒化され得ていた(のだろう)
これば、言うなれば、「現実界家内の私観念界での家内概念化」と言えよう。


さて…悲しみの訳・根源は、
この私が「外界での家内の死滅・消滅」を「内界での家内消滅」として受け入れられない事。
これが「私の外界への観念的内界からの問い掛け」だろう~

「外界死滅vs内界存続」という「現実・界vs観念・界」の対立~
この解決は、この双方を事実として受け入れられる自分になる事。

その為の弁証法性=「観念真実(存続)・現実虚偽(存続)」と「現実真実(死滅)・観念虚偽(死滅)」。


「観念界と現実界」・「現実界・観念界」の矛盾の解決法こそが「弁証法・学」なのだろう。




数10年間も、私の外界と一致していた、
私の内界だったのに…ある日に突然の不一致!


これが、無かったモノが登場なら…まだいいのに…
大切だったモノコトの消滅とは…その変化・違和感に納得が不能で…
その違いに(対立物の統一に納得不能で)「悲しみ続けている」私なのだろう


確かに、息子の母親を亡くした悲しみは、私以上なのだろうが…
だが・しかし・彼は、まだまだ成長期である彼には、
その存在・幸福・消滅・不幸的な質的変化でも…

成長期であるが故に、その質的変化を受け入れられる自然成長的な能力がある…
ただ言える事は、「例え、受け入れていても…その強烈な寂しさは変わらない」…
それでも…彼には日々の仕事・生活・仕事仲間~新たな環境でも友達から
更に、・小・中・高・大…学生時代での多くの古くから友達がいる…
先日の日曜日に、彼は、「大学のアルティメット・サークルへ行く…四年生が卒業だから…」と楽しそうに言っていた~

そのような彼の日々の生活~
そして、23歳とまだまだ・ギリギリ成長期の彼には、
そのたぶん…私以上の悲し筈の彼なのに…
私程の泣き言は聞かされていない!聞かされた事もない!

実に出来た息子であろうか…
因みに、私の「息子の概念化は、彼の小学時代で…ギリギリで中学かな」のようですね…
忙しくても、仕事の殆どが6時以降の時代~
日々の私が、家内以上に息子と関わりを持てていた時代の「息子の概念化」…。

そんな私の「息子の概念化」なので…最近の息子は、息子であって、まだ息子ではない…
高校時代・大学時代…そして社会人の今の息子の概念化が必要なのだろう…が…
残念な事に、育つてしまった彼から、過去の彼の概念化は至難…
せいぜい…その時代の彼の写真とニラメッコして、思い出す事だろうが…
ここに家内がいれば、彼女の私と違ってた、その人並外れた記憶力で…
彼女と共に語り合えたのに…語り合いたかったのに…


どう~概念化には、日常共同生活が不可欠の理由…
そして、その概念の日々のアップデートの必要性…

更には、
生誕前・生誕後・成長期・発展期・衰退期・消滅後の新た概念の生々・生成⇒

本能的には生きられない~
人類の一員として、弁証法・学の学びの必然性が少しは通じたかな…


ゐぬお宅へ、
どう~以上これが、今・現時点でも「自由びと言説の栄養素」~
だが・しかし・果たして~ゐぬお宅に、通じて、分かってもらえた!のだろうかな?

そう~私の信じているブラック南郷継正なら、
そのブラック色的に分かって貰えたただろう筈だ!と信じたいかな♪♪♪


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私の「人の振り見て我が振り変えちゃった!」体験談

2025-03-24 15:28:48 | 「わたし事・学」
私の「人の振り見て我が振り変えちゃった!」体験談



それは、中学生の頃、両親から、あまり勉強しない私に 週に二回の家庭教師をつけられた。
勉強は、週二回で一回二時間、真ん中でティータイムの小休止があり…
そこでは、チョットした御菓子と紅茶・雑談を楽しんでいた…

その家庭教師の先生が、御菓子を美味しそうに「クチャクチャ」食べていた。
そんな中、ある日、私は母に「○○!クチャクチャと音を立てて食べないで!」と注意された。
その時、初めて「え?!…これってマズイの!」という事を知った。


もともと…私に「クチャクチャ食べる癖・習慣はなかった」…
だから、初めて「クチャクチャ食べている先生」を見知って…
なんか…とても「美味しそうに食べている」と痛感した、のだろう。

そんな感じ・感想から、いつの間にか「私のクチャクチャ」食べ振りが移っていた…のだろう。
これは、意図的な「己を虚しゅうする」事ではないが…
食べ方に関して特にマナー的なモノが無かった(この部分が虚しく・白紙的な)私だったから「クチャクチャはよい事」として映り移ったのだろう。

子供ではない、大人が真に己を虚しゅう…できたなら…
その虚しゅうする対象・事物・動物・人物…の良いも悪いもなく全てが二重化・体得されてしまう…のだろう。
なので…必ず確りと己の目的を、日々強烈に意識して、その目的を忘れず「虚しゅうし続ける」事が重要である。


そんな母親だが…彼女はお新香・漬物を食べる時には、
カリカリ・サクサク的な音を立てて美味しそうに食べている(いた)…
その影響だろうか…今の私もカリカリ・サクサクと大き目な音を立てて食べてしまっている。

息子に、その音は、口を開けてのクチャクチャとは違うけど…
でも~音がしない方がいいよ!と言われて…音無の努力をするのだが…
その噛み方・噛み癖が…どうてても直せない…
口は確りと閉じているのに、サクサク・ポリポリ・カリカリ…と音が出てしまっている。

音を止める方法は、食べ物が歯に当たったら、
そこからゆっくりジックリ噛み始める…だが…

そのゆっくり・ジックリの噛み方ができない!
直ぐにサクッと噛みこんでしまっている…



さてさて…「クチャクチャ食べ方の御仁」は、
私の母の影響である「ポリポリ・サクサク・カリカリ」食べ方と同様に、
その食べ方を誰にも指摘・注意されずに…大人になってしまったのだろう。


私の「ポリポリ・サクサク・カリカリ」は不幸(母の癖と同じ癖化)でも…
幸運にも「クチャクチャ」は、母の指摘で癖化せず済んだ…


今回は、前回の「クチャクチャ」行為への二重化でなく、
その「クチャクチャ」行為の実体・人物への二重化であり、
それは上記のような私の体験・経験の一般化で可能になるのだろう…




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「人の振り見て我が振り直せ」の話

2025-03-24 11:05:21 | 「わたし事・学」


「人の振り見て我が振り直せ」の話


さて~レストランで食事の際中~

隣の人が「クチャクチャ」と音を立てて食べていたとしましょう。

A―音を立ていて五月蠅い!
B-美味しそうに食べているな…

C-ここはレストランみんな静かに食べているのに…音を立てるのはマナー欠如。
D-美味しそうでいいけど…ここは居酒屋ではないので…私は音を立てずに味わおう~

諺の「人の振り見て我が振り直せ」で一つ気付けた事があります。
上記の「人の振り」とは、特定の、「ひとりの人の振りではなく」、
不特定多数の「人々の総体としての人の振り」という事に~

さて上記一番上の「A氏、B氏、 C氏、 D氏」は、
それぞれ隣人の「クチャクチャの音…」行為に二重化しています。
これは、その時の「ひとりの隣人の行為」です。

A氏は、「うるさい」という個人的な自己の感情・不快・悪意的な二重化。
B氏は、「美味しそう」という個人的な自己の感情・快・好意的な二重化。
C氏は、全体的な静けさを考慮しての「マナー欠如」・理性的な二重化。
D氏は、「美味しそう」好感・感情・人情and「居酒屋ではない」場所違い理性的判断的二重化。


A氏は、「うるさい」反感・不快…的な心情。
B氏は、「美味しそう」共感・好意…的な心情。
C氏は、「マナー欠如」判断・理性的な不快感。
D氏は、「美味しそう」快的な心情でも「ここはレストラン」理性的な判断。


そう「人の振り見て我が振り直せ」とは、
自己の自己化・自己の他人化の問題なのです。

それも、この他人とは、「1人の他人」ではなく、
大勢の人々の総体社会の一(社会の一員)としいての「多くの他人中の「ひとり人」論理化」。


ならば…その他人には~
自分が見知っている人々。
自分が未知の人々。
更には、過去の人々・現代の人々・近い将来の人々…


それこそ無限の人々となり得るだろう?!
そこで…「いのちの歴史の物語」の登場かな…
「人々・人類・人間」の本質とは?!


一味違いのゐぬさんへ
どう~「心情と理性」・言葉を使っちゃったけど…
この使い方の感想を読ませて頂けると~
自由びと嬉しピ~♪♪♪んだけど…宜しくね~!










コメント (7)
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「自由びとのイワユル発達障害児」の話

2025-03-17 16:59:44 | 「わたし事・学」

「自由びとのイワユル発達障害児」の話

記事<これって、「悟りを開いた事?」の話>のコメント欄に、
以下のような書き込みが来た!

>敢えて言うなら自由びとさんが「知りたい、知りたい」と書いていることは「自分のやりたいことだけ求めている」という「自由びとのイワユル発達障害児」と同じなのですよ。
>発達障害のままでいたくなかったら「自分が知りたくもない事柄」について知るように努力しなさい。

上記の「イワユル」とは、自由びとの言っている「発達障害」の事であり、
それは「ココロロ心とアタマ頭のアンバランス=発達障害」の事だろう~

そのような事ならば…そのコメント主の思いは~
「そんな自由びとの個人的なの認識状態を社会的なブログに書いて、
問うのは(発達障害・アンバランス)」という指摘なのだろう~

だが…しかし…
このコメント主は、以下のような効果を分かっているのだろうか?
多分?キット!分かったいて、敢えて指摘したのだろう?!


私が、ブログに言語化・書いた事は、当然に私はそれを再読している~
(本来は、そこで誤字・脱字に気付くだろうに…気付かない・訂正しない私…)
単なる思考状態なら、それは自分・主観的な状態だが…
ひとたび言語表現したなら、それは社会・客観的な状態へ変化する。


そう私は、私の独り言を、このブログに書き綴っている(つもりなの)だ!
現在の日常生活での私の独り言は「思考・思考過程の言語化」と言えよう。


「書く事は考える事」には、その思考・思考過程の再認識の効果がある!

初めは、ただの南郷師範の文字の羅列だとしても…
例え、初めて聞いた歌詞の意味が不明でも…
その歌を聞き続けていれば、加齢・経験とともに…
その言葉の意味が実感していく!モノ~論理的同一性~

因みに…最近の私は、吉田拓郎の歌に実感し続けている自分を発見している…

コメント (28)
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これって、「悟りを開いた事?」の話

2025-03-15 07:38:16 | 「わたし事・学」
これって、「悟りを開いた事?」の話


今朝…寝床で、ブログ「新・悟りを求めて~」の昨日の以下のコメントについて考えていた。


ゐぬ氏~
>普段は全く意識することのないような子どもたちや大人たちが、私の住んでいる地域から比較的に近いところで生活していることに、何とも言葉にできない感慨がありました。


自由びと・私~
私も思い出しました!
先日の朝の事です!
その日は、洗面台には、いつもならそこにない筈のカップが二つ、
「入れ歯洗浄をしたカップ」と「入れ歯を入れていた小カップ」…
それらが目についたので…洗ってひっくり返しました。

その後、横に「水色のカップ」の存在を発見!
何と…そのカップが、何の為・何故にそこにある、のか?が思い出せないのです。

で…必死に思い出そうと考えて…少したって気付きました!
この水色のカップは、いつもハガキの後の口を濯ぎ用だと…

他の二つがなく、通常通り・普通に歯磨きを始めていたら、
何の疑問もなく使っていたなら…このような「何のカップ?」疑問はなかった筈…



この時の私は、ゐぬ氏の「普段は全く意識することのないような…」に反応して、
私の最近の体験を想起している。それは、日頃の習慣的な行為である「歯磨き・うがい(水色カップ使用)」という流れなら確認可能だった「水色カップ」事件の事…

日常心・平常心なら何の疑問なく・気付けたのに…
非常心だから、気付けなかった事。

当日は歯科医院へいって、少々削れ・溶けた左奥歯と隣の部分入れ歯の調整をしてもらう予定。
その為の「部分入れ歯」を前日に「入れ歯洗浄液に浸したカップ類」を出したまままにしていた。その為、普段はない二つのカップがそこに残されていた…

言うなれば~その時の洗面台の上は~
「非日常的状態」それに対応して「私のココロも非日常的反応(普通はない行為)」して「二つのカップを引っくり返した」。
その後に、気付いた「水色カップ」への認識が「非常心で日常的無意識に使用しているカップ」だから認識不能…
でも…少したって落ち着き…日常心に戻れて…思い出せた~事。



そんな事を考えいて…ふっと窓の方を見ると薄明るかった。
え?時計をみたら「五時??忘れた…」⇒
「え?いつもなら、まだ暗い」⇒
「そもそも…何故に明るいの?」⇒
「雨戸を一枚閉めていない!」⇒
「うん・この前は、五時過ぎに雨戸を開けて見た時は暗かった」⇒
「雨戸が開いてていても…いつもなら、まだは暗い筈なのに…」⇒
「そうか…日の出が早くなった」
そしてスマフォで日の出の時刻を知ら調べたら「午前五時五十四分」だった…


で~これは、
初めの疑問「何故?この時刻で明るい?」・「そもそも雨戸が閉まっている筈なのに…」に対しての「答え」を得る過程。


一つの「気付きである」(事実・外が明るい)に対して(疑問・何故に明るい事が分かるの?)⇒
そして…雨戸の閉め忘れ(普通は閉めるのに)・(昨日は閉めていない)⇒非日常的な事実・から非常心「何故?・疑問発生!」

そう~この時の私が、洗面所がいつもの日常的状態なら、このような「疑問の発生はなかった」…

何故?という問い掛けは、「知りたい!」・「答え」を知りたい!

この「答え」とは、「全く分からない」から知りたい!
どっちが、迷っているから、正解を知りたい!

全体を知りたい!
部分を知りたい!

自分の知りたい事を知りたい!
自分の知らない事を知りたい!

迷っているから正解を知りたい?
何を迷っているかを知りたい?




以下のネットから転写を読んで下さい!

今の私は上記のように、私は<知りたいとは?>に「迷っています」。

この私の「迷いの解決」には、現代・現在の私にどのよう方法が考えられるか?

宗教的な解説法・学問的な解決法・武道的な解決法。

宗教的とは、神or己を信じてココロの安定を図る。
学問的とは、対象の現象・構造・本質に即してアタマでココロの安定を図る。
武道的とは、死の覚悟をもって…失敗・知らない・死んで元々・生誕前に戻るだけ的な安定。

>「悟りを開く」とは、心の迷いが解けて真理を悟ること<


事実は~
世界の全ては「変化・運動している」!
「弁証法性」とは、そんな全ての世界の変化・運動の性質!

そして、そんな世界の全て・全ての世界の性質の法則化が「弁証法」
その「弁証とは弁じて・証明する」のは人間だから、「弁証法」とは人間の認識・活動法である。

自然法・社会法・精神法・弁証法…

理想的な自然法・理想的な社会法・理想的な精神法・理想的な弁証法

現実的な自然法・現実的な社会法・現実的な精神法・現実的な弁証法…

現実の自然法・現実の社会法・現実の精神法・現実の弁証法…



羅列した上記の文字群…そして以下転写・引用から…

君は、何を思い・何を考えるか?事が可能か?
君は、何を想像できるか?そして何を妄想できるか?












「悟りを開く」とは、心の迷いが解けて真理を悟ることを意味する慣用句です。仏教用語として使われることが多く、厳しい修行の末に悟りを開く、といった表現もよく使われます。

【悟りを開くの意義】

物事の真理に気づき、心の迷いをふりほどくこと

真理を自らのものとし、一切合切の悩みや迷いを振り落とした状態

一切の迷いの世界から転じて、涅槃寂静の世界に出ること

大宇宙の真理を体得すること

【悟りを開くの類義語】

直観する

悟る

開眼する

境地に達する

境地に至る

感得する

心が澄む

【悟りの最高の位「仏の悟り」】
悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を仏陀(ほとけ)といいます。初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とされていました。

悟りを開く(さとりをひらく)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書



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悟りを開く方法、戒定慧の三学について - 仏教ウェブ入門講座

「悟りを開く」とは 一切の迷いの世界から転じて、 涅槃寂静 ねはんじゃくじょう の世界に出ることです。 分かりやすく言えば、大宇宙の真理を体得することをいいます。



仏教ウェブ入門講座

「悟りを開く」の言い換えや類語・同義語 - Weblio類語辞典

悟りを開くの類語・言い換え・同義語 * 直観する * 悟りを開く * 悟る * 開眼する * 境地に達する * 境地に至る * 感得する * 心が澄む



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〔あおき葬祭コラム〕第105回:「悟り」にも段階がある? 仏教の ...

2022/09/30 — 仏教用語として「悟り」とした場合は、「物事の真理に気づき、心の迷いをふりほどくこと」という意味合いで使われます。 真理を自らのものとし、一切合切の悩みや迷いを振...



総合葬祭あおき

仏陀 - Google Arts & Culture

仏陀は、仏やほとけとも称され、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。 釈迦牟尼をも意味する。 初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とされていた。


Google Arts & Culture

生成 AI は試験運用中です。

ウェブページから抽出された強調スニペット

[名](スル)迷いから脱却して真理を悟ること。 つまり「悟りを開く」とは、「心の迷いがなくなり、どんなときも変わることのない正しい物事の道筋を理解・自分のものにすること」といえるでしょう。 なお仏教において「悟り」は、「解脱(げだつ)」や「涅槃(ねはん)」と同義です。2023/01/17



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