新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

基本の二重構造の話

2025-02-28 12:52:33 | 「わたし事・学」
基本の二重構造の話


「桃太郎の繰り返し」を基本とするなら~
「上達論的な観点の基本」・「勝負論的な観点の基本」と二重に考え分けられる。


例えば算数「1+1=2」が基本なら、
その前に、必ず「1⇒2⇒3⇒4…」…数字の変化の基本が必要。
これらは、「1+1⇒2+1⇒3+1⇒4…
連続した(正の)整数・数字表記は必ず「1」ずつ増加。



この正の整数の増え方・表記の基本の上に、
足し算の基本「1+1=2」の理解が可能…


「1」は〇。「2」は〇〇…


「桃太郎の繰り返しの場合~

ここの場面は、犬⇒猿⇒きじ…と「伝える対象」は異なっている。
それでも、「桃太郎の認識」は全部同じ。


上達論的な基本なら、犬・猿・きじ…に言葉が通じなくても、自己の思い認識を同じに表現できたらOK。
これは、対象が変化しても、自己の同じ認識を同じ形で表現可能にする訓練。

勝負論的な基本なら、犬には犬語、猿には猿語、きじにはきじ語…それぞれに通じさせる為の訓練。
これは、自己の認識を相手に通じる・有効な形で使用・駆使可能にする訓練。


もっとも…出発点として、「桃太郎の繰り返し」を基本としよう…と考えた時点で…


これを、桃太郎が、目的達成の為に、自力だけではなく、「集団力の獲得の為の基本」としたなら…
この「桃太郎の繰り返し」の捉え方は、上記のようにはならない。


「あるモノゴト」が、「基本」である時~
そのモノゴトが何の為の基本であるかの理解が不可欠。


初心者の「技」習得の基本「型」。
中級者の「技の使い方」習得の基本「型」。
上級者の「技の駆使」習得の基本「型」。

時に、
上記の三者が、全く同じ「型」であり得ても…
それぞの認識には、大いなる相違があり得ている…


事実的な外見・その姿形は同様でも、
論理的な実質・当人の認識は不一致。










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「桃太郎の繰り返し」の話

2025-02-26 17:18:18 | 「わたし事・学」
「桃太郎の繰り返し」の話



」桃太郎の繰り返し」を別の例で例えよう!

例えば「敬語」~

日本語の「敬語」には、「尊敬語」・「謙譲語」・「丁寧語」三種類あろう…
昔なら日常生活で強制されていただろう「敬語」…
今は、それぞれの表現を「言葉」(つかい)を学校で習っている。

しかし…学校で言葉を覚え暗記・習得できても…
現実・生活の中で、相手に合わせて敬語を使う訓練をしなければ…
敬語は正しく的確に使えないモノ。


相手を、自分より上に捉えて「尊敬語」。
自分を、相手より下に捉えて「謙譲語」。
相手と自分を、対等に捉えて「丁寧語」。

相手が自分より下なら、「命令語」?「暴言」?!


学校という場で習った「敬語」を、
現実・生活の場面で「繰り返し使用」して、
敬語の用法の体得、それも論理的には、
「桃太郎の繰り替え」と言えよう。


学校で学習した言葉を現実・生活で試して使い・正しい使い方の習得は可能でも…
道場で習い覚えた「空手技」を現実・生活で試し、有効な使い方の体得は現代では…犯罪行為?!

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「桃太郎の繰り返しの論理構造」の話

2025-02-24 17:25:32 | 「わたし事・学」
「桃太郎の繰り返しの論理構造」の話

私が初めて「桃太郎の繰り返しの論理構造」文面を知ったのは月刊空手道誌の「武道講義」であった。
それから35年が過ぎたであろうか…


今日、やっと初めて「桃太郎の論理構造」とは何か!を悟った。


前回に読んだ時には、「一字一句全く同じ文章」の前の文章の違い~
「そこへ」、「しばらく行くと、そこへ」「また、しばらく行くと、そこへ」…
と時間・場面経過の表現言語の増加…は確認したが…

で…今回は、二度以上は読もうしない理由に気付いた…
物語の内容なら、一回で理解・記憶可能だから…もう読まない。
でも、仮に「桃太郎の言説を丸暗記」しようとしたら…一回では不可能。

事実レベルの論理構造を書くなら~
桃太郎は、犬・猿・きじ…と異なった相手に自分の認識・思いを「一字一句全く同じ言葉」表現している。


これを空手に例えるなら、組手で眼前の異なっている対手に
毎回「全く同じ形の基本突き」を決められるか?

または、自分の気分・相手への自分気持ちに無関係に、
(自分が望めば)常に明るく笑顔でいられるか?


その物事と関わって、その物事を楽しむ事。
その物事と関わって、その物事を体得する事。


その物事を丸ごと、コピーするが如く体得する事。
その物事で、自分の求める部分を体得する事。



認識は像である。言語は表現である。
対象の論理・論理構造の悟りは認識!
その「悟り」認識を自分言葉で表現し難い!実感~

「認識」と「表現」の問題…

野球選手は、「ホームラン打とう」認識を、身体で表現している。
彼らは、その認識表現の為に、どれ程の練習を重ねて行くのだろうか…


言語表現で「ホームラン打つ」認識と身体表現での「ホームラン打つ」実践の問題。


「桃太郎の繰り返し文章の読み理解・認識」と「桃太郎の繰り返しの体得・実践」の問題。








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人間は複眼?!

2025-02-19 11:14:29 | 「わたし事・学」
人間は複眼?!

先ずはネットからの転写~


複眼とは、
多数の小さな目が集まってできた目。節足動物で発達している。例、とんぼの目など。
「複眼的な(=いろいろな角度からの)見方」

まずは肉眼で見えるものを見て、会得する。
次に肉眼では見えないもの、精神的なものを見る。 その見えないものをみるのが、心眼である。」




次に、例解新国語辞典[第四版]から転写。

肉眼―レンズを通さないで ものを見ること。また、その目。
心眼―ものごとの本質をはっきり見きわめる、心の働き。


以上が引用であるが…

肉眼が感覚器官である「目or目で直接見る事」なら、
心眼は「心の働き」…

では、その「本質を<見極める>心の働き(心眼)とは?


肉眼が、<実存する対象ものごと>を見るモノ。
心眼は、その肉眼で見た<ものごとの本質>を見る心の働き。

事実的に書くなら~

今、私はパソコンの画面とキーボードを見ながら、上記の文字を打ち込んでいる。
でも、その打ち込み寸前に、私は頭脳内で、打ちたい物事の像を描いている・認識している・観ている)。


この頭脳内の像を視ている「目が心眼」であり、
パソコンのキーボード・画面を見ている「目が肉眼」。


肉眼が、その人の実力・視力によって、対象の見え方が違うように、
心眼も、その人の心の実力によって、見ている本質が違っている。

本質を見極めるが「心眼」であっても…
その心眼の実力によって、見えてくる「本質」が異なってくる。



互いの視力の相違による、肉眼で見ているモノの相違は近くでハッキリ確認・納得可能。
でも…互いの心眼で見極めた「本質」の相違は、ハッキリするのが至難。

本質には~
対象の事実レベルの本質。
対象の構造レベルの本質。
対象の本質レベルの本質


上記の表現は誤解を招いてしまっている。



私が肉眼でみている「物事」のレベルをハッキリ認識する。
「椅子」を見ている私は、椅子その物を見ているが…
それは、今座っている「椅子の本質」?
では、車庫に転がっている「古い椅子の本質」は何?


そう~私個人の男性としての本質。
この年代の男性の本質。
現代の男性の本質。
人間としての本質。



そう~肉眼で見ている対象の物事は五感でハッキリ確認、写真・映像で客観的にも確認可能~、
でも、心眼で見極める「本質」は、心の違い(主観の相違)で異なってしまう…
では、その本質の客観的正当性も証明は…如何に?!


観念論的世界観ならば、その審判は「絶対精神」よる…
しかし、唯物論的世界観では、「絶対精神」の存在は認められていない…

ならば…それは「弁証法」的な議論・闘論・話し合い…
「イモ洗い的な過程の結果」であろう。


洗い合う芋い芋達・滅ばし合う対立物の統一、

互いに戦って、最後に残ったモノが、優秀者・絶対精神的なモノ。
議論・闘論・叩き合い・滅ぼし合い…結果に残った「本質」が「絶対精神」的モノ・本質、なのだろう。


もっとも…「イモ同志のぶつかり合いでは、綺麗になっても…「イモ的」!


栗同志なら、棘がされて、食べやすいで…
たぶん、互いに「棘の指し合い・傷だらけ…」で~困ったモノだ!











ここで複眼的に書くなら~


今、私は、
画面を見ながら自己の認識像を観て、キーボードの文字を見ながら、指で打ちこんでいる。
とほぼ同時に私は、そんなキーボードに打ち込んでいる私の姿を認識・想像・描いている。



「書く事とは考える事」―
今これから「書く事を考える」
と同時に、
どのように書くが「表現するかを考える」。
どのような言葉・どのような文字(ひらがな・カタカナ・漢字・ROME字)。
更に私の認識像の全体を観て、そこから部分を視て、言語表現している。


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「想い出とフラッシュバック」の話

2025-02-18 11:07:38 | 「わたし事・学」
「想い出とフラッシュバック」の話

「想い出」とは、自分から自らの意志で想い出した過去の体験・記憶。
「フラッシュバック」とは、何らかの外界の変化・刺激を契機に
「一瞬のカメラ・フラッシュ」のように想起された過去の体験・記憶。

私のフラッシュバックは、
自分で望んで思い出したモノではなく…
ある瞬間に想起された過去のシーン…ではあるが…、
その場面には、「トラウマ的な精神的傷・痛みがない」モノ。

ただ…その想起の契機が現実の状況・場面からであるが故に~
その眼前現実と直接的関連しているが為に、
その一場面から、その想い出の全体像が想起され得るモノ。

その想い出の中の感情の想起と同時に、
現在・現実の私の状態・感情の想起もあり、
両者の比較から「強烈な見寂しさ」を感覚してしまう。


この「寂しさ」の前には、
「家内は逝ってしまった・もう会えない」と言う現実の「悲しさ」。
「逝ってしまった⇒悲しい」・「もう会えない⇒寂しい」


パニック障害とは、私の想像であるが…

「フラッシュバック」のような瞬間的な「シーン」の自覚なく、
その状況から視覚的シーン的な映像ではなく、
周囲の雰囲気に過去の辛い体験の想起(映像・視覚情報のない)…
その結果…当時の恐怖が想起され…
『何もない筈なのに、この恐怖は何?』的パニックなのだろう。

肉眼だけで見て感覚した「危機的状況」体験。
全身から感覚した「危機的状況」体験。


同じ過去の体験でも、フラッシュバックの仕方に相違があり得る。
視覚情報なき、盲人のフラッシュバックは、心眼から発生。


確りと前を歩いていて、突然に後ろから殴られて重症。
このよう事の「フラッシュバック」なら…
その時の周囲の雰囲気が契機になろうか…。




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