「言語表現・事実そして真実」の話
「事実」とは、二字漢字熟語。
「事実」の意味は、事実とは、本当の事。実際にあった事。「例解新国語辞典[第四版]
この事実の意味・記述が「本当の事」(事実)である証明は?
それは以下~
「岩波国語辞典[第八版]P637~
じじつ「事実」―① 実際に起こった、または存する事柄。
「学研 新国語辞典[改訂第六版]P616~
じ-じつ[事実](名詞)-実際に・あった(おこった)事柄、または実在する事柄。
以上のよう三冊の辞書に書かれている「意味」が同じである事が「事実の意味が事実である証明」であろう。
上記の意味から、
事実には~
ひとつ、眼前の現実で実際におっている事。
ふたつ、実際に過去の現実でおこった事。
また、自分が体験した事実と「体験・事実談」。
または、他人から聞いたと、「他人の体験・事実談」。
そして、眼前の事実には、
一つ、目の前で起こている「現実・事実」。
二つ、その起こている現実・事実の反映である「認識・事実」。
ここでの「事実の意味」については~
「調べた辞書、三つに書事実の意味の記述がある・あった」という事実。
そして「調べた辞書三つに書かれていた事実の意味・内容が同じだった」事実。
一つ一つの辞書に「事実の意味が書かれている・いた」という事実。
そして、それらが「事実の意味を同じような内容・言語で書かれている・いた」という事実。
さて…ここで問題!
「事実の意味とは何か?」
それは、「事実」という言語が表現していモノ・コトが何かを知る為の道具。
さて~それでは以下の問題から
目の前のテーブルの上に
「い・ろ・は・す」(ミネラルウォーター)ボトルがある。
N氏は「これは水だ!」と言い。
G氏は「私にとってこれは水ではない」と言った。
この場合、二人発言というモノは「事実」であり、そこには全く問題ない。
しかし、その事実としての発言の内容を二つ並べたらなら、
「これは水だ」and「水ではない」と矛盾が発生する。
この二人の発言内容の事実の矛盾を解決するのが「真実」だと、私は考えた。
それは、二人の発言記述(事実)に書かれていない二人「(認識的な)事実」であろう。
前回は、初めから。ネット引用で、「日本では軟水」・「外国では硬水」というモノが書かれていた。
そこから、事実・真実を思考したから…少々思い違い誤解をして…いたようである。
誰もが「本当だ!と認める事実」に「真実は不要」
誰もが「本当だと…認められない事実」だから「真実の追及」が求められる。
机の上にあるペットボトルに入った「い・ろ・は・す」は、
日本の天然水・飲料であり、それは「軟水」である。
なので「J氏は、(日頃から飲んでいる)「水」」だ!」と表現した。
それに対して、外国人のG氏は、日頃から「硬水」を飲み水していた。
また、G氏は「い・ろ・は・す」が日本の天然水・軟水である事を知っていた。
だから、日頃から軟水を飲まないJ氏は、この(軟水)「い・ろ・は・す」(飲み)「水」ではない(と言った)。
このような同じ現実・事実・状況にいる・いた 二人だから、
この場合の「水」表現=「飲み水」の事、という共通理解が可能であろう。
しかし…このような事実の現場を知らない・見ていない者が、
この「水であり・水でない」という言語表現の矛盾・解決・解消するには、
書かれていない・見えていない「事実・認識」を含めた「真実」が必要であろう。
このように思惟するなら、ある専門家の「知識」は、その専門家の認識「事実」ではあっても…
それを書かれた時・言語表現した時、
その内容は、読者にとっては「事実としての記述」であり、
それは「本当の事」事実ではあっても、自分が「実際に体験した」事実ではない。
「本当の事・事実を知った」事実と「実際その事を体験した」事実…
この二つの事実の「認識的な相違」とは、「単・二感情像」or「五感情像」的事実かの相違。
では、この二つの事実・認識・相違は、その者達に、どのような違いを生じさせ得るか?
「事実」とは、二字漢字熟語。
「事実」の意味は、事実とは、本当の事。実際にあった事。「例解新国語辞典[第四版]
この事実の意味・記述が「本当の事」(事実)である証明は?
それは以下~
「岩波国語辞典[第八版]P637~
じじつ「事実」―① 実際に起こった、または存する事柄。
「学研 新国語辞典[改訂第六版]P616~
じ-じつ[事実](名詞)-実際に・あった(おこった)事柄、または実在する事柄。
以上のよう三冊の辞書に書かれている「意味」が同じである事が「事実の意味が事実である証明」であろう。
上記の意味から、
事実には~
ひとつ、眼前の現実で実際におっている事。
ふたつ、実際に過去の現実でおこった事。
また、自分が体験した事実と「体験・事実談」。
または、他人から聞いたと、「他人の体験・事実談」。
そして、眼前の事実には、
一つ、目の前で起こている「現実・事実」。
二つ、その起こている現実・事実の反映である「認識・事実」。
ここでの「事実の意味」については~
「調べた辞書、三つに書事実の意味の記述がある・あった」という事実。
そして「調べた辞書三つに書かれていた事実の意味・内容が同じだった」事実。
一つ一つの辞書に「事実の意味が書かれている・いた」という事実。
そして、それらが「事実の意味を同じような内容・言語で書かれている・いた」という事実。
さて…ここで問題!
「事実の意味とは何か?」
それは、「事実」という言語が表現していモノ・コトが何かを知る為の道具。
さて~それでは以下の問題から
目の前のテーブルの上に
「い・ろ・は・す」(ミネラルウォーター)ボトルがある。
N氏は「これは水だ!」と言い。
G氏は「私にとってこれは水ではない」と言った。
この場合、二人発言というモノは「事実」であり、そこには全く問題ない。
しかし、その事実としての発言の内容を二つ並べたらなら、
「これは水だ」and「水ではない」と矛盾が発生する。
この二人の発言内容の事実の矛盾を解決するのが「真実」だと、私は考えた。
それは、二人の発言記述(事実)に書かれていない二人「(認識的な)事実」であろう。
前回は、初めから。ネット引用で、「日本では軟水」・「外国では硬水」というモノが書かれていた。
そこから、事実・真実を思考したから…少々思い違い誤解をして…いたようである。
誰もが「本当だ!と認める事実」に「真実は不要」
誰もが「本当だと…認められない事実」だから「真実の追及」が求められる。
机の上にあるペットボトルに入った「い・ろ・は・す」は、
日本の天然水・飲料であり、それは「軟水」である。
なので「J氏は、(日頃から飲んでいる)「水」」だ!」と表現した。
それに対して、外国人のG氏は、日頃から「硬水」を飲み水していた。
また、G氏は「い・ろ・は・す」が日本の天然水・軟水である事を知っていた。
だから、日頃から軟水を飲まないJ氏は、この(軟水)「い・ろ・は・す」(飲み)「水」ではない(と言った)。
このような同じ現実・事実・状況にいる・いた 二人だから、
この場合の「水」表現=「飲み水」の事、という共通理解が可能であろう。
しかし…このような事実の現場を知らない・見ていない者が、
この「水であり・水でない」という言語表現の矛盾・解決・解消するには、
書かれていない・見えていない「事実・認識」を含めた「真実」が必要であろう。
このように思惟するなら、ある専門家の「知識」は、その専門家の認識「事実」ではあっても…
それを書かれた時・言語表現した時、
その内容は、読者にとっては「事実としての記述」であり、
それは「本当の事」事実ではあっても、自分が「実際に体験した」事実ではない。
「本当の事・事実を知った」事実と「実際その事を体験した」事実…
この二つの事実の「認識的な相違」とは、「単・二感情像」or「五感情像」的事実かの相違。
では、この二つの事実・認識・相違は、その者達に、どのような違いを生じさせ得るか?