新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「言語表現・事実そして真実」の話

2025-01-13 15:59:16 | 言語と認識
「言語表現・事実そして真実」の話

「事実」とは、二字漢字熟語。
「事実」の意味は、事実とは、本当の事。実際にあった事。「例解新国語辞典[第四版]

この事実の意味・記述が「本当の事」(事実)である証明は?
それは以下~

「岩波国語辞典[第八版]P637~
じじつ「事実」―① 実際に起こった、または存する事柄。

「学研 新国語辞典[改訂第六版]P616~
じ-じつ[事実](名詞)-実際に・あった(おこった)事柄、または実在する事柄。

以上のよう三冊の辞書に書かれている「意味」が同じである事が「事実の意味が事実である証明」であろう。


上記の意味から、

事実には~
ひとつ、眼前の現実で実際におっている事。
ふたつ、実際に過去の現実でおこった事。

また、自分が体験した事実と「体験・事実談」。
または、他人から聞いたと、「他人の体験・事実談」。


そして、眼前の事実には、
一つ、目の前で起こている「現実・事実」。
二つ、その起こている現実・事実の反映である「認識・事実」。


ここでの「事実の意味」については~
「調べた辞書、三つに書事実の意味の記述がある・あった」という事実。
そして「調べた辞書三つに書かれていた事実の意味・内容が同じだった」事実。


一つ一つの辞書に「事実の意味が書かれている・いた」という事実。
そして、それらが「事実の意味を同じような内容・言語で書かれている・いた」という事実。


さて…ここで問題!
「事実の意味とは何か?」
それは、「事実」という言語が表現していモノ・コトが何かを知る為の道具。


さて~それでは以下の問題から


目の前のテーブルの上に
「い・ろ・は・す」(ミネラルウォーター)ボトルがある。

N氏は「これは水だ!」と言い。
G氏は「私にとってこれは水ではない」と言った。

この場合、二人発言というモノは「事実」であり、そこには全く問題ない。
しかし、その事実としての発言の内容を二つ並べたらなら、

「これは水だ」and「水ではない」と矛盾が発生する。

この二人の発言内容の事実の矛盾を解決するのが「真実」だと、私は考えた。
それは、二人の発言記述(事実)に書かれていない二人「(認識的な)事実」であろう。

前回は、初めから。ネット引用で、「日本では軟水」・「外国では硬水」というモノが書かれていた。
そこから、事実・真実を思考したから…少々思い違い誤解をして…いたようである。


誰もが「本当だ!と認める事実」に「真実は不要」
誰もが「本当だと…認められない事実」だから「真実の追及」が求められる。



机の上にあるペットボトルに入った「い・ろ・は・す」は、
日本の天然水・飲料であり、それは「軟水」である。
なので「J氏は、(日頃から飲んでいる)「水」」だ!」と表現した。

それに対して、外国人のG氏は、日頃から「硬水」を飲み水していた。
また、G氏は「い・ろ・は・す」が日本の天然水・軟水である事を知っていた。
だから、日頃から軟水を飲まないJ氏は、この(軟水)「い・ろ・は・す」(飲み)「水」ではない(と言った)。


このような同じ現実・事実・状況にいる・いた 二人だから、
この場合の「水」表現=「飲み水」の事、という共通理解が可能であろう。

しかし…このような事実の現場を知らない・見ていない者が、
この「水であり・水でない」という言語表現の矛盾・解決・解消するには、
書かれていない・見えていない「事実・認識」を含めた「真実」が必要であろう。


このように思惟するなら、ある専門家の「知識」は、その専門家の認識「事実」ではあっても…
それを書かれた時・言語表現した時、
その内容は、読者にとっては「事実としての記述」であり、
それは「本当の事」事実ではあっても、自分が「実際に体験した」事実ではない。


「本当の事・事実を知った」事実と「実際その事を体験した」事実…
この二つの事実の「認識的な相違」とは、「単・二感情像」or「五感情像」的事実かの相違。
では、この二つの事実・認識・相違は、その者達に、どのような違いを生じさせ得るか?





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再考「事実と真実」の話

2025-01-12 18:13:44 | 新発見と新たな気付き


再考「事実と真実」の話


前回の以下の記述について再考した・

「たとえば、日本で軟水を出された外国人にとって~「これは水です」は事実ですが、
自分の認識している水とは違っているから「私にとってこれは水ではない」は真実です。」


今回は、上記の問題文を以下のように少々変えて思考してみた。


日本の訪問先の主から「これは水です!」と出された時…
その外国人が「私にとってこれは水ではない」と言った。



今回は、「例解新国語辞典[第四版]から

事実とは、本当の事。実際に合った事。
真実とは、誰にも否定する事の出来ない、本当の事。


上記の場合の事実とは以下↓

日本の訪問先の主が「これは水です!」(飲み物)と言ってテーブルに出したら、
その客外国人が「私にとってこれは水ではない」と言った。

この場合、
「これは水です」が事実ではなく、
>主が「これは水です」と言って出した< ことが事実。


また 
>外国人が「私にとってこれは水ではない」< が事実ではなく、
>外国人が「私にとってこれはみずではない」と言った<ことが事実。

何故なら「事実とは、本当に実際に合った事」だから


「これは水です」は、主の主観・認識。
「私にとって水ではない」も外国人の主観・認識。

であり「真実ではない」


真実は、二人の「水」という言語理解の不一致。
軟水は、日本では生活用水「飲み水」。
外国では、硬水が生活用水「飲み水」。

日本の水は「軟水」
外国の水は「硬水」


軟水と硬水は、性質は異なって飲む・飲まないの違いはあっても、
誰もが「水」と認識して液体・モノ。


そもそも…「水」とは、「液体のH2O」の事。
軟水も硬水も「液体H2O」なので「水」。


結論的には、「これは水です」も「私にとってこれは水ではない」も
言葉にださない限り「ココロ認識として真実」(そう思っている事実)です。
でも、言葉として発したら最後…この場合は「アウト!」です。

何故ならこの場合の問題は「水か否か」ではなく、「軟水か硬水か」の問題だから…






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「認識と言語表現」・「事実と真実」の話

2025-01-11 17:29:05 | ♬~我が悟りへの道程~♬

「認識と言語表現」・「事実と真実」の話



先ずは以下のネット情報から~



>「現実」「事実」「真実」「真理」の違いは、次のとおりです。

>現実: 現実に存在する事柄

>事実: 現実に存在する事柄

>真実: 嘘偽りがない、本当であること

>真理: 誰も否定できず、変わることのない道理

>「真実」と「事実」は似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。「真実」は、抽象概念と具体的な内容をもった概念を表わします。抽象概念としては「嘘偽りではない」ことを、具体的な内容としては「実際の事実そのままでうそ偽りのないこと」を表わします。

>「真理」は、現実や事実とは特に関係なく、道理として全く正しいこと、だれもが認める本当のことを表わします。宗教や物理の世界で永遠に変わらないものを指す言葉として捉えることもできます。


「現実」「事実」は、人間の外界・物事表現
「真実」「真理」は、人間の内界・認識表現。


以下が「事実と真実の話」


>真実と事実は、似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。

>真実~
>嘘偽りがなく本当であること、信頼する、信ずるという意味があります。人の解釈や心の動きであり、人の数だけあります。

>事実~
>現実に存在する事柄、結果、再現できる対象という意味です。人が関与しないため、反論できません。






さて~ここからは「事実と真実の話」ここで以下の問題です!


「たとえば、日本で軟水を出された外国人にとって~「これは水です」は事実ですが、
自分の認識している水とは違っているから「私にとってこれは水ではない」は真実です。」

上記の言語表現では、「日本での事実」と「外国人の真実は違う」と説いている。

本当に、そうだろうか?!


少々言葉・表現を加えてみます。

たとえば、
「軟水は、日本では日常生活での「飲み水」です。」事実。
でも、日常生活で、硬水を飲んでいる外国人には「飲み水ではありません」。

これは、出された「日本の水」が「外国人には水」ではない!…
ではなく、日本の飲み水(軟水)は、外国人には飲み水(硬水)はない…いう意味。

従って、「日本の水は、外国人にっても水である」ただ「飲み水ではない」だけ…


上記の場合は~

「水」レベルの事実の言語表現なら同じ<水と水>」
しかし「軟水と硬水」レベルの事実表現なら<水は水でも 異なった水>
そして「「飲料軟水・日本」と「飲料硬水・外国」とでは、<飲み水であり飲み水でない>


結論を書くなら、

日本では、「これは、飲み水です」
外国人である私にとっては「これは、飲み水ではない」


事実は、「日本の飲み水は軟水」
真実は、「外国人にとって軟水は飲み水ではない」


事実の言語表現対象は眼前の、「水というモノ」。
真実の表現は外国人には、それは「飲まない(飲めない)水」(眼前の水の性質)。



事実とは、現実のモノコトの変化・運動表現。
真実とは、その現実の変化・運動の、その者の観点・立場からの個人的な事実・意味。




~真実レベル色々~

個人的な真実、
組織・社会的な真実、
神的な真実、
絶対精神的な真実、哲学・学問的な真実、





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「自由なココロ、そしてアタマ」の話

2025-01-07 10:18:56 | 自由論


「自由なココロ、そしてアタマ」の話

コメント欄に以下のように書いた。


そもそも…
一流になりたい「欲求」と
一流になりたい「思い」とは違います。

「欲求は感情」でも「思い(は)認識」です。
「欲求は、感覚・感じる事」
「思い・認識は、自分の意志で像を描くモノ」

私とお宅⇒「一流認識」vs「一流欲求」⇒「同じ一流」でも、その中身が異なっていますね…
これじゃ…私の「一流」がお宅には、「意味不明」だという事の「意味明確」になりましたね。




上記の内容について再考してみた!


そもそも…「思い」は認識・意志なのだろうか?
私は、勘違い・思い違いをしていないだろうか?



師範の御著書に「ココロ・アタマ」は、ともに認識・頭脳活動だから分ける事は至難?・意味がない?、
いったような事が書かれていた事を想い出した!が…続けよう!


一番下に転写したネット情報から以下のように考えてみた。

「腹が減った」は「空腹感」。
「何か食べたい」は「欲」。
そこで「ご飯が食べたい」は「欲求」。
更に「デザートも食べたい」は「欲望」。


そう~「思い」を抱く事は「ココロ」!?
そして~「思い」を明確にする事は「アタマ」!?




「何となく不快感」(ココロ)⇒「空腹感」(アタマ)。
⇒「ご飯(アタマ)」を「食べたい(ココロ)
⇒もっと何か食べたい(ココロ)⇒「デザートを食べたい(アタマ)

↑~このような交互の働き・運動かも…(私の感覚的な推測)


ここで「自由について」上記のように思惟するなら~
「自由なココロ」と「更なる自由を求めるアタマ」。
そして「自由について」書いているのは「アタマ」。

ココロの働きは「自由」に、その自由をアタマで認識したなら
ココロは「更なる自由」を欲し(ㇾべアップした「欲望」。
アタマの働きは、「更なる自由獲得」の為に「自由について思惟・表現しいる(意志)。

「自由」そのものを思惟して認識する事で、より目的・意識的に「自由の駆使」が可能。
    


端的には「自由なのは、感情ココロ」。
それを「表現し続けるのは・意志アタマ」


ここで「ココロ感情の自由度」と「アタマ表現・実行の自由度」の不一致格差が問題なのだろう。
それは、その時々の「ココロ感情の自由とアタマ表現の自由」(心と頭)の一致を求めから発生する問題。


この「二つの一致」の為の方法が「必然性の洞察」であり、
その手段が、「カン・コツ」や「科学的知識」の活用と言えよう…



「ココロの自由とアタマ表現の不自由」の解決法。
「アタマの不自由をココロの自由へ一致させる」
「ココロの自由をアタマの不自由に一致させる」

~転写~


人間の欲求とは、ある特定の状態や対象を求める心の状態を指し、生きる上で基本的な要求です。欲求は、生理的欲求や安全欲求、愛情欲求など様々な形で現れます。

心理学では、欲求が人間の行動を促し、目標を達成する原動力となることが研究されています。欲求が満たされることは、個人の幸福感や満足感に直結し、生活の質を向上させる重要な要素となります。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、人間の欲求は五つの階層に分けられるとする心理学理論「マズローの欲求5段階説」を提唱しました。この理論は、経営学やマーケティング戦略、マネジメントなど、ビジネスにおいても幅広く活用されています。



欲と欲求の違いは、欲は本能にそって自己の欲するところを求めるのに対し、欲求は何かをしたいという願いであることです。

欲求は、心理学において「動因」とも呼ばれ、目標に向かって行動を開始してその行動を続けようとする一連の働きを指します。たとえば、お腹が空いた(ご飯が食べたい)とか、恋人が欲しいといったものが欲求です。

一方、欲は、過去に欲求が充たされたという記憶があることで、その欲求をふたたび充たしてもらおうとして起こる幻想によってかきたてられるものです。たとえば「大金持ちになりたい」は欲望です。

動機づけのフロンティアへ #研究コラムVol.2|株式会社TALENT - note

2023/12/03 — 欲求の定義 人はなんらかの目標に向かって行動を開始して,目標を達成するためにその行動を続けようとする。 この一連の働きが動機づけmotivationである。 動...



note

意欲と欲と|通信大学の八洲学園大学[司書ほか

2009/10/26 — 欲は本能にそって自己の欲するところを求めることです。 また、意は心ですから、意欲とは心を働かせて自己の欲するところ求めることでしょう。

yashima.ac.jp

欲求と適応の心理学:欲求不満の解消法(心理学総合案内こころの散歩道)

何かをしたいという願いを「欲求(動因)」といいます。 たとえば、お腹が空いた(ご飯が食べたい)とか、恋人が欲しいとか。 心の中に欲求が生まれ、その欲求を満たせそうな「目標(誘因)」...


欲求と欲望の違いは、次のような点です。

哲学では、自分が満足して終わりという欲が「欲求」、決して満足しえない欲が「欲望」と区別されます。

心理学では、欲望は「何らかの目標を得ようとする際の内的状態」と定義され、要求や欲求とほぼ同義の用語です。ただし、無意識的なものではなく、意識されていることを強調する場合に用いられることがあります。

また、欲求と意志の違いは、次のような点です。

意志は行動に移っていなくても問題ないのに対し、欲求は何かしらの行動と結びついている必要があります。

欲求とは何か(心理学の捉え方) - 神戸松蔭女子学院大学

一応、心理学辞典(有斐閣)にも「欲望(desire)」は見出し語になっており、「何らかの目標を得ようとする際の内的状態。 要求ないし欲求とほぼ同義の用語であるが,この状態が無意識的...

神戸松蔭女子学院大学



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今年の抱負に足りないモノ~

2025-01-05 16:53:45 | 自由論
今年の抱負に足りないモノ~

自由びとの「今年の抱負」には「自由自在に私の思いを思い通りに表現・体現!」する表現力…と書かれている。
でも…その「自由自在に描いた自由びとの思い」の出所、そのような「表現力」求める理由が書かれていない。

そう~それらの表現力を求める理由は以下のようなモノ。


例えば、人が自分自身を見たい時、手や足…なら直接目で見える。
でも、自分の顔・表情…といった目で直接に確認不能な部分は、鏡を使って見ている。


それと似たモノに「自己の認識・観念」を確認する場合…がある。
頭脳内の認識・観念は、像として描かれている。
でも…観念像を肉眼で直接見る事は出来ない。


そこで、その認識像を言語化して、言語像として表現する~
その言語表現を肉眼で読んで感覚して認識して、
その言語表現から反映された認識像と その自己の頭脳内の観念像との一致・不一致の確認…。

その確認には、辞書・ネットの言葉の意味との比較・確認。
または、他人に話して、その他人的な認識・像を聞いて確認…


それは、言うなれば、我が全身の姿形を鏡に映して「確認」するように、
主観的な認識像を客観的な言語化・像して、
それと、その言語の理解・反映像として客観的像にして再確認する事。


その確認の為には、私の自由自在の思いを、
その思い通りに表現しなければ・出来なければ…である。


その表現の為の手段の一つに言語表現があり、
自分の思いを 思い通りに言語表現する為には
「言葉⇒語彙の意味・文法…」の規則・ルールに知り、それに則って書く・話す必要がある。

ただ…問題がある!
例えば、自分の思い通りの「やり方の思い」があり、
その思いの通りの「やり方」で実践した結果があり、
全てが思い通り…なのに、その成果・結果が「思い通りでない」事もある…


その場合は、目標も手段・方法も自由なのに…結果は不自由…という事。
この場合はどうする?



この不自由な結果を自由に変えるには、思いを変更すればいい!

一つ当初の目的・目標の変更。
一つ、その目的・目標到達の為の方法・手段の変更。である。
一つ、求める結果を変更する。


この場合に難しいのは、「求める結果」を変えるであるが…


例えば、
有名な野球選手になりたい…と思い、
頑張った結果当初の思いに反して「有名なテニス選手」になったとする。
ならば…野球選手ではなかったけど…「有名なスポーツ選手」になれた…だからOK!


でも…目標・目的を絶対の「変更は絶対に嫌!」の場合は、
その方法・手段の変更が必要になる。その時に必要なのが「自由とは必然性の洞察」。
その為に、有名な実力ある「野球選手」に、その方法・手段を求める…


その「必然性の洞察」に必要なのは、
その選手の生い立ち、環境、性格・体格、考え方・価値観…
可能な限りの「その選手の個別性」・「環境」・「体格・認識・精神」を知り、
彼の学校・過程・習い事…社会的な環境…

彼の練習法から直接~
彼とは違う「別人の自分が有名な野球選手になれる必然性ある練習法」は知り得ない。



で…私の「今年の抱負に足りないモノ」は?
それは、初めに「自由自在に描いた自由びとの思い」・「目的・目標の思い」あり、
次の「自由自在に描く方法・手段は、
目的・目標が達成可能な(自由・自在な)「方法・手段」を描く必要がある。

初めの「目的・目標」の自由度に対して~
次なる「方法・手段」の自由度は狭くなり~。
更には「結果・成果」に至っては一段と狭い自由度。


自由自在な自由度⇒狭い自由度⇒より狭い自由度~
そんな「自由度」の変化に耐え忍ぶ自由を求める事!




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