新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「唯物的・観念的」の話

2024-11-30 17:36:25 | 「わたし事・学」
「唯物的・観念的」の話



「観念論」って何?
「神の存在を信じる事」…
「物質ではなく観念が先にある論」…
「世界に物質・精神以外の何かがあれば…」
それって「不可思議論」?

物質とは、実際に存在する・確認可能なモノ?
精神とは、物質としての存在ではない人間の精神。
ただ人類が道具・五感を駆使しても、存在を確認不能な物質もありえるだろうに…
人類が存在を確認不能な物質は、物質と呼べ・言えるのだろうか?

認識不能なモノ論なら、不可思議論?!
神も幽霊もも妖怪も「不可思議論」?!



観念・精神は直接に確認不能でも…
ただ、人間の観念・精神は、その者の身体的な言動・表現として間接的に体感可能。
そこで、ここでは、「観念論・唯物論」ではなく、「観念的・唯物的」と表現した。


人間が自己の精神・観念を優先しての言動・行為は、「観念的」。
また、初めに観念・精神があって現実を優先した言動・行為なら「唯物的」。

例えば~
ブログ記事の「朝食用意時の話」の中で、
完成した「朝食」を見て違和感を感じて昨日までの「朝食のトータル像である擬き像」を優先して「茹で小豆」を加えたから「観念的」行動。
それは、満足していた筈の現実・現在の朝食に不服・不足を感じて現実を変えた!

では、少なくなっていた茹で小豆の補充の為に小豆を茹で始めたのは?
これは、不足・不服ではなく、失念・忘れていた事に、気付いての行動。
現実の未実行に気付いての行動…なので「唯物的」?




今日の「不足している茹で小豆」現実像と昨日の「不足している茹で小豆」もどき像の一致。
そこから、「今日(昨日の明日)小豆を茹でる」目的意識像の想起!


完成した朝食を、ココロ沈めて全体的にと見なければ、気付かなかった「違和感」。
違和感⇒何か不足観⇒茹で小豆の不足!

冷蔵庫の中身の見えないお椀を見て、直ぐ想起した「小豆の茹で行動」。


完成した全体を見て、もどき像と比較して気付いた「不一致」・「不足」・「補充」。
中身は見えず、見えない全体から「もどき像の」想起から「一致」・「茹で」行動。


足りないから「補充」、
茹でる事を失念していたから「茹で行動」




始めの「現実の完成朝食反映像」と「昨日までの朝食もどき像」は不一致。
次の「現実の不足している茹で小豆像」と「もどき像は一致」…
ただ、その「もどき像」には「不足したから茹でる像」が張いていた。


初めの、小豆の不足に、直ぐ気付けない朝食。
次の、お椀を見て、直ぐに気付けた「茹で行動」。

その理由の一つに、初めの完成した朝食には満足していた。
その理由は、途中で「茹で小豆を入れる事」像は実行しようとしたが…。
しかし、その目的が「生小豆を茹でる事」像で実行されてしまった。

結果的に、朝食の用意・意識の過程(小豆行動?)には不足はなかった。
従って、手順に過不足を感じなかったのだろうか…



~小休止~


ここまで書いて小休止(昼食に出た事)で…気付けた事がある。


もどき像にも、
初め・始まり・開始的像⇒ 途中・過程的像⇒ 結果的像。

弁証法的な生々生成・発展・衰退・消滅…像。

「現実の朝食の完成像」と「もどき像的朝食の完成像」の比較から「茹で小豆の追加」。
「初め・開始像・現実・(不足した茹で小豆像)」から「茹でる小豆・過程もどき像」そして「茹で運動」。


この場合、観念論的とは「現実像のもどき像」の観念内での比較~問い掛け。
そこから「茹で小豆の追加」・「小豆の茹で行動」へ像。

「比較・問い掛けは観念的」であっても…その後の「行為・行動は唯物的」。

そもそも…そのような「もどき像」の形成は、
昨日までの現実の行為・行動の結果であり「唯物的」モノ。

これは…もどき像の形成は「唯物的」であっても
「その唯物的なもどき像」と「現実の反映像の比較」は「観念的になされる」。

そして、この比較の結果である駆使は「唯物的」であり、「その方法は観念的に思考・思惟される」モノ。

ここで問題が…
その思考結果の実行・行動…様式が、現実的・合理性に実行され得るなら「唯物的」
そこに、非合理性があり得れば「観念的」…
現実的に「非合理」であっても、当人の頭脳内でし「合理的」…それなら「観念的」or「唯物的」???


答えは~
主観的には「唯物的」でも客観的には「観念的」!










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朝食用意時の話

2024-11-26 16:44:52 | 「わたし事・学」
朝食用意時の話


先々週の朝の事である。
いつものように冷蔵庫の中の材料を使って、
いつもの朝食の用意を始めた。


初めに~お椀とスプーンをテーブルに置いて、
冷蔵庫から以下のモノを次々と取り出してお椀に入れた。

ヨーグルト、豆乳グルト、
茹で小豆、二種類のジャム、
ココアの粉末、小麦ハイガ、
ひとくちプルーン、種抜きデーツ、
長命食、粉末青汁、黒ニンニク、
オーガニック・オートミール…

この後に、豆乳とエゴマ油を入れようと思いつつ…
一息ついて、全体的に眺めたら時~以下のようなでき出来事があった。

『う~ん…なんか違和感・変?!』
『うん~何か足りない!?』
『そうか茹で小豆がない!』
そこで冷蔵庫を開けて、茹で小豆の入っている(中身の見えない)お椀を見た時…
『そうか…さっき、このお椀をみて、昨日中身が無くなりそうで、今日茹でようと思い小豆を水に付けていた』事に気付き…

そして『今日は出かけるので時間があまりない、今すぐ茹で始めよう!』と思いそうした。…
その後、この『小豆を入れよう目的が解消れ…小豆を入れずに次へ進んだ』事に気付いた。

引き続きオリーブオイル、蜂蜜、秋ウコンの粉末、スーパーオータカを入れて、
電子レンジで一分間「チン」した。


事実的な記述は以上!

私は、上記のような事実の過程に「もどき像」そして「問いかけ的認識」を見て取った。

現実の時系列で書くなら、

初めに冷蔵庫から茹で小豆を取り出そうとした時、
見た、中身の見えないお椀から「昨日見た少なっている茹で小豆」像。
見えない対象を昨日の記憶(擬き像)」でみた。
そして眼前のお椀の中身を確認して、茹で行動を始めた。


次に一段落しして全体を見た時に感覚した
『う~ん…なんか違和感・変?!』…

この違和感の原因は~
その時私の頭脳には、昨日までのいつもの「朝食像(もどき像)」があった。
その擬き像と今日の眼前の朝食を比べていたから、この違和感が生じた、のだろう。
でも…不鮮明な擬き像であったから…
次の『うん~何か足りない!?』という問い掛けが発生して、
やっと『そうか茹で小豆がない!』という事に気付けた…のだろう。

もどき像とは「外界の反映ではあるが、しっかりとした反映ではない」

初めの「見えないお椀の中身像」は、昨日の像であり、新鮮・鮮明とは言い難かった、だから実際に確認して行動。
また、次の「昨日までのいつもの朝食像」も不鮮明であった、だから「問い掛けがあって初めて小豆に気付いた」。


以上の事実的体験から、私が思った事は…
人間には、必ず、一瞬前までのまでの「もどき像」がある。
もっとも…あっても像を想起できない・描けない「もどき像」も(像はないのに)あり得る。…
言うなれば、視覚像無き、感情的な像なのだろう…


そして人間は、眼前の現実・対象の認識と同時に、
今までの対象に関連する「もどき像」を描いてしまう…のだろう。


この「関連」とは、その当人が「関連」として認識してモノだから…
他の人にとって「関連」とは限らないが…


問いかけ的認識が発生するのは、
この現実の外界「反映像」と頭脳内の内界「もどき像」の相克の発生があるからでろう。

ここで、今回の私のように~
眼前の現実の朝食を「足りない朝食」と認識して、「観念像に合わせて」茹で小豆を加えたなら「観念(論)的行動」。
昨日の残り少ない小豆(事実)に気付き、茹で始めたのは、「唯物(論)的行動」。

今の現実を過去の記憶・脳内の事実にあわせるなら、観念論的?
今の現実を合理的な未来向けて変えてゆくなら、唯物論的?


合理的とは、現実に対しての「合理的」(合理的な現実)なら、唯物論的?
自分自身の目的達成の為の「合理的な自分の未来」に向けての行動なら、観念論的?





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「以下がどういう事」の話

2024-11-16 15:29:01 | 「わたし事・学」
「以下がどういう事」の話


>あると思って始めるから、一向にうまくいかない。
>ゼロからと一からの違いが分からなければどうしようも無い。
>分かるかなあ?分かんないだろうなあ


「零からの出発」とは、現実に打倒されて…『俺はダメだ!無力だ!』…そんな状態からのスタート…
「壱からの出発」とは、「今はできない俺でも…できる!やれば出来る!」…そんな状態。

「壱から出発」して厳しい現実に打ちのめされて…「俺はダメ!もうダメ!」が「零地点からの出発」…
零地点では、自力が零!
だから「巨人・他人の背中を借りて・乗って(その自覚を持って)立ち上がる」

「自由からの出発ダメ!」なら「他由からの出発もアリ!」が、人類だの特権・能力だ!



以下はオマケ言説!


元々商売人の父は、テーラー・宝飾店・弁当屋・回転すし…と色々と商売変えしていた。
結局、どれも旨くいかず…
他人から億単位の借金をして、パチンコ商売を始めた。
そして、一時、借金を全て返済して、数千万の豪邸?を立てた。
その後、不景気になり、赤字続きになり、貯金が亡くなる前に、商売変えをした。


商売人としてのカン・コツ、強い意志を持ち、何より商売が好きだった父。
金儲けが好きなのではなく、儲かる程の商売繁盛が楽しかった父。


パチンコを始める資金はゼロ。
でも、他人から数億の金を借りられる程の信用があった。

お金のある・ないは、実物・実体だから見える。
才能のある・ないは、認識・機能だから見えない。

「才能はある・俺は出来る!」と公言する者…本当だろうか?!、
初めての事を始めて上手くいく人は、他人のマネ・他人を見習えるからだろうか…


「才能はない・俺はできない…」と公言しつつ、物事が上手くいかない人は、
他人のマネができない・見習えないモノ。

「俺はできない・才能がない」という者は、
そのような出来ない「自信がある」からダメなのだろう。

「俺は出来る!」と自信タップリで公言したなら…
どんな手段・他人のマネしてまで「やったやる!」モノなのだろう。


分かった!~~「無知の智」を識った。

「零と壱」の違いは「知っていても」…
その違いを「識らない事」を知らない事、を知った状態が「無知の智」

自分が、その事を「知っていても・識らない事を知る」が「無知の智」



知っていても、まだ識らない!
事実的に知っていても、論理的には識らない。


商売したい(商魂ある)のに、始める金がないなら、他人から借金して、商売しよう!
成功を知っている・成功したい(思いある)のに、方法が分からないなら、他人の知識・経験を借りよう!


「知る」と「識る」の相違は以下↓~

↓以下はネットからの転写!


「知る」は、知識のない状態から知識のある状態へと認知状態を変化させることです。人から聞いたり自分で調べたりなどして新たに得ることを表します。



「識る」は、頭に納められ、培うものです。物事の道理を知ること、道理を分別すること、見識をもっていること、知り合っていることなどを意味します。



佐々木常夫コラム 「知る」と「識る」は違う

2011/07/11 — 「知る」は単に「見た」「触れた」というだけで一瞬は頭に入ってもすぐに消えてしまう可能性があるが「識る」は頭に納められ、培うものである。

佐々木常夫




今~「1から始めると失敗する〜ゼロから始めなければならない根本的理由〜」を読んだ!

一つ気付いて事は以下である。

「壱」には、色々とある!

子供が「壱」から、青年も「壱」、老人の「壱」。

空手現役時代の私の「能力・体力」も「壱」なら、
今の体力・能力も「壱」…

「壱」は『壱」でも、その中身の「壱」が違う。
しかし、全ての「零」は「無」…何もない!
何もない事で、全てが同じ!

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「事実的と論理的な言語表現」の話

2024-11-12 15:48:35 | 「わたし事・学」
「事実的と論理的な言語表現」の話


先日、一年生の担任が以下のように児童達に言っていた報告を同僚の補助員から聞いた。
そう補助員の間では、毎日、自分が入ったクラスの授業・児童の状況、
そして担当教員の児童達への指導…の状況報告をしている。

担任が二学期の成績表の評価について…
「…○○君と××君は、…成績表の評価は『C』です。」
「みんなも二人ような『C』になりたくないなら…二人のマネをしない、ように…」

この事を報告していた同僚は以下のよう付け加えた~
「…もし、子供が家に帰って、話の内容ままに親に言ったら…誤解される」

そう…この言語表現は、確実にに保護者に誤解されてしまうモノ!
私も、担任に直接上記のように言った。

でも…担任は、
「子供達には、日頃から彼らの事を話しているから、私の真意を分かってくれる!」というような事を言ってきた。


その担任の真意とは?
私が一年生の補助に入る事は比較的少ない…ので、子供達レベルで担任の真意は分からない…
それでも…以下のような担任の言葉が同僚から報告されている。

二人は、「言葉・日本語が分からない」、「外人・ベトナム人・フィリピン人である」、「保育園・幼稚園に行っていない」…
この事を報告していた同僚は、これらの言葉に呆れていたが…。

これらの言葉は、事実的表現である。
私は、上記の言語表現から…担任は以下のように思っていたのだろうと想像した。

「日本語が分からない」から担任の指示の意味が分からない。
自分がどのように行動すればいいか不明。

外人だから生活習慣が日本人とは違う。
だから、彼らの普通・常識は、日本的普通・常識と一致するは限らない。


「保育園・幼稚園に行っていない」
だから彼らには、集団行動ができない。

そう『C』の内容に「平気で悪口を言う」が、あったが…


日本語が分からない、家では母国語の彼らは、
その日本語の悪口をクラスの児童達から学んでいる筈。


そもそも…上記のような日本の学校での生活・学習…が白紙的で、
言葉も全く理解不能な彼らは~

学校・クラスでの、その言動・行為は、周囲の児童達の言動のマネから始まるのだろう。
確かに、当初は、自分勝手な言動であっても…時の経過と共に周囲の様子に合わせようとするモノだろう。

その時、周囲の児童達が全て「A」評価レベル言動なら、彼らの「C」評価はないだろう。
では、何故クラス全員が「C」評価ではないか?
それは、彼ら以外の児童には、TPOが分かり、時々の言動の丁度いい加減分かる。
この○○・××君は、担任の前でも、平気で他の児童の「悪口が言える」…
日本語の悪口は、彼らには「悪口」ではなく、
休み時間に言われた事を、授業中でも、そのままマネして相手に返しているだけ…。



でも…○○・××君には、それが授業中では不適切だという事が分からない!
だから、自分の都合に合わせて周囲の言動をマネしている、のだろう。


結論から書けば~

○○・××君の「C」評価は、
正しい「A・B」レベルの手本を示せなかったクラス全体の連帯責任…と言えよえ。


上記のような~
「言葉が分からない」、「外国人」、「保育園・幼稚園体験なし」、「悪口を言う」
が事実的表現なら

以下は、その論理的な解釈・表現とし言えようか…。
「教師の指示が分からない」、「生活習慣が違う」、「集団行動を知らない・出来ない」・「授業中でも悪口(悪いとい認識なし)を言いえる」


だから…私は~
クラス全員に、「○○・××君のマネをするな」ではなく、
クラス全員が、「A」評価レベルの言動を「○○・××君にマネさせよう」と言えばいい!
と考えた…

しかし、これは、今回の担任の失敗を他人事・客観的に眺められたから思いついた手書けた事。
実際に、過去・教員時代の私は、この担任と同じような言動の繰り返しであった。


結論的・論理的にに書くなら~
「反面教師」的な指摘・指導ではなく、
「正面教師」としての「手本になれ!」的な指摘・指導である…いう事。


学ぶ者でなく、学ばせる者になれ!

分かった!だから~
「医学原論」に「学者・教育者になれれば最強!」的な事が書かれていた…のだろう。


今回の記述は、医学原論「上下巻」の論理的な影響かも…
これも…もしかして…無自覚的な「論理的パクリ」なのだろうか…













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