童話の「桃太郎」を再考した話
以下に転写した (ゐぬ)氏のコメント~
再読したら…なかなかよい事を書いていた!
そこで、私が童話「桃太郎」をネットで再確認し、
そこで、想起した事・再考した事を以下に書いみた!
先ず想起した事(私の記憶の中の他人認識)↓
それは、私が大学生の時(40数年前)に、父の知り合い中国人が言っていた事
⇒「『桃太郎』は軍国主義の正当化…」
この話を、当時の松濤館流空手愛好会の先輩に話したら~
⇒「子供・児童には、『悪は悪でダメ・善は善で良し!』と明確に教える事が大切…」
そこで、
ついさっき私が、再度「桃太郎」の話を、
ネットで再確認思い出し・考えた事は以下であろう。
「桃太郎」は童話であり空想の話!
そこで私は、以下のような事実としてに考えた ↓
桃太郎の話は、人間のココロの中の話。
鬼が島の鬼は「鬼心・残虐心」、
桃から生まれた桃太郎は、暖かい日光を求めて真っすぐに伸びようとする「植物心」、
犬は、「忠誠心」、サルは「聡明心」、「きじは華麗心」
社会的な集団生活・活動が必要不可欠な人類にとっての課題は、集団心の養成・体得!
その時、邪魔なモノは、他人に害を与える悪的行為・行動の根源(他人に危害を加える己の中の残虐心=鬼心)。
その自己の中の「鬼心」の克服の為の「植物心・忠誠心・聡明心・華麗心」なのだろう…
因みに、以下のコメントは三連発だったので…
いつものように、一文一文読めずに、適当に読んでコメントしたので…
その時の私は、「俺は桃太郎の繰り返しを覚った!」とう喜びイッパイだった。
主観的感情・思い…で、冷静に(ゐぬ)氏コメントを読む事なく、自分の思いをコメントしていた!
確かに(ゐぬ)氏の>「ですから、「桃太郎」の物語を繰り返し読むということは一度読んだだけでは気がつかなかった「気づき」が生じてくる可能性があり、そこから思考が発展していき知的に高まっていく可能性があります。」↓<
↑
真理であろう事の確認ができた!
正に「思いから考えへ」「人間の遺伝子の重層構造」ですね…
「私の思い」を「他人の思い」・「私の遺伝子を他人の遺伝子」で否定して…
私の遺伝子の重層化!
外界を遮断している「自己の思い」の否定は、
自己の中の記憶にある「事実的な他人の言説・言動・行動」での自己否定!
どこかで…私の所有している南郷学派に関わる著書名を確認したいモノであるが…
今の「私の思い・認識の自己否定」は、
私が読み取り記憶している「南郷氏・南郷学派」著書の言葉(の私的認識)…なのかも…
そうそう…今、もう一つの私の「自己否定」がある事を想起!
それは、「私的な私vs自由びと的な私」の相克…
もっとも…「自由びと的な私の生誕以前」は、
物心ついた時から、独り言が普通で当たり前の私だったが…
最近は、家内(死去)も息子(独立一人暮らしで)不在で、
家では、虎猫マニャと柴犬マロンの一人と二匹暮らしで
私は、猫葉・犬語の習得・練習に必死ですかね!
もっとも二匹には、「言葉」ではなく、
優しい態度(満面の笑顔)で優しい(丸く鋭くない発音)音声での話し方…
話し方で、その言葉で、言葉意味・理解は不能でも、
猫・犬は、その言葉に付随している「私の感情」を本能的に察知するようですね
何しろ~
柴犬マロンには三回以上は、重症の噛み傷を頂いて、
トラ猫マニャとは、噛み付き・引っ掻き傷を頂いた「大決戦」を一度やったけど…
そう一度は、マロンの頭を掌で叩きながら、
マロンの目を見て眼光鋭く睨みつけたら…
なんと…マロンの目の色が変わった!
ゴールデンレトリバー犬「マフャ」は、
私が睨んだら「プイっ」と横向いていたのに…
それから…私の手はマロンの憎き敵?~
私が出すと「食いつく」ようになった…
頭を撫でようとすると「う~」と唸り、そのままだと食いつく、ようになった。
ある時、私が庭の雑草を抜いていたら、マロン柴犬がスーと近づいて「カブっ」と、私の手に噛み付いた!
でも…それでも…最近は意図的に優しい表情・満面の笑顔の私にして……で何とか噛み付かれないようになったが…
因みに、虎猫マニャとは、あの一回の対決以来…もう対決はなくなった…
Unknown (ゐぬ)
2025-02-24 21:46:45
確かに「考えない人」と「考えられない人」との違いはあるのでしょうね、おっしゃる通りに。
この場合ならば自由びとお宅は折角にも「桃太郎」という具体的なお話しを挙げていながら桃太郎の物語りなんぞはどーでもよく、ほとんど関心がないのは明白で、「桃太郎」ならぬ「その物事」などという抽象的な事柄に話題を移していき、話しを不明瞭にしています。
私も「桃太郎の繰り返し」という話しを初めて読んだのは30数年前の「武道講義」でしたが、よくよく考えたら『試行』誌に連載されていた「武道の理論」に既に記載はあって、単行本ですとp126の「公式を徹底的に教えこむ」というところですね。
「武道講義」でも「武道の理論」でも一口には「量質転化」という言葉を使っていますけど、もう少し詳細には「武道講義」では「基本技の徹底的な繰り返し」と書いていた記憶がありますし、「武道の理論」では「(数学の)公式をもっとよく理解させる」と書いています。
ここが非常にポイントで、「公式を使って問題を解かせる」ではなく「よく理解させる」となっていて大変に得心いくものですね。
「桃太郎」の昔話を子どもが何歳の時に教えるか調べたら対象年齢は2〜3歳らしいですが、この年齢から読み聞かせる物語りが後に小学校に進学してからの国語の読解力に繋がるのだと思います。
桃太郎が犬や猿、キジに吉備団子を与えてお供にするのは中世の武家社会の「ご恩と奉公」なんでしょう。「鬼ヶ島に鬼退治」に行くのに一人で行くのではなく家来を引き連れて「軍団」で行くのは「多勢に無勢」で桃太郎一人の力では限界があるからでしょう。
そこに「鬼退治という大義名分あることをやるのだからお前も来い!無償で!」と強要するのではなく「吉備団子を与える」という利益を与える。その「吉備団子を一つ」という同じものを与えたのは家来としての犬と猿とキジの立場が対等だということで、それを犬には一つ、猿には二つ、キジには三つの吉備団子を与えたならば家臣の間に序列を作ることになります。
芸事の「基本」なるものも、数学の「公式」も初めからあるものではありませんから、それを使うためには先ずは生み出さなければなりません。
『武道の理論』のp146では「馬鹿の一つ覚え」が如何に大事かということと「馬鹿の一つ覚え」であってはならないという対立物の統一が説かれていますけど、考えられないタイプの人は「馬鹿の一つ覚え」重視だけの形而上学的な思考の人なのでしょう。
いずれにしても自由びとお宅は「桃太郎」のお話しにも、具体的な様々な物事にも全然関心はなく、形而上学的な抽象論を好む人間として作り上げられているのは確かですね。それを評して「理性も感性も枯渇している」というのでしょう。
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Unknown (ゐぬ)
2025-02-25 00:21:52
敢えて言うならば「桃太郎」を繰り返すとは、同じ「桃太郎」の物語を2〜3歳児の幼児として読んだときと、小学生としての7〜12歳児として読んだときと、中学生、高校生と知識や思考力が高まっていってる過程で読んだときの理解の中身が変わっていってることを実感することでしょうね。
それが同じ内容の稽古を白帯でやったときと色帯でやったときと、初段、参段と段位が上がっていく過程でやったときとの中身の違いとなるのでしょう。
それを、永遠に変わらない同じものとして行おうと努力することが「考えられない人間」としての真実なのでしょうね。
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Unknown (ゐぬ)
2025-02-25 00:41:18
何歳で「桃太郎」の物語を読むかで理解の仕方や疑問の持ち方も違うのでしょうが、玄和の組織に馴染んだ人間ならば飛翔隊の「隊長、副長、参謀」という呼称を知っていますから、田熊、田島、西郷には組織的な序列がつけられていると知っていて、そこから翻って「桃太郎はどうして犬と猿とキジに序列をつけて組織化しなかったのか?」という疑問・問いが生じても不思議ではありません。
ですから、「桃太郎」の物語を繰り返し読むということは一度読んだだけでは気がつかなかった「気づき」が生じてくる可能性があり、そこから思考が発展していき知的に高まっていく可能性があります。
ですが、「考えることのできない」秀才的な自由びとお宅ならば「分かっているさ、「桃太郎の繰り返し」なんざ、とにかく「何度も繰り返せ」ということだろう?そんなことは言われるまでもなく承知の助でござんす」となるわけで、
それは個人の自由ではありますが、まさかこんなタワケを指導者の地位に玄和という団体は置いていまいとは思いますが。
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Unknown (ゐぬ)
2025-02-25 00:45:58
お前が「論理」だとか「構造」だとか知ったかぶって口にするな!と心ある玄和会員なら感じるのではないかな?
腕立て1000回やったとか、スクワット2000回やったとかいうのは自衛隊なら末端隊員として評価されるとしても防衛庁の頭脳の中には入っていけないと思われ、
それが南郷継正が「私は丹下健三レベルで物を言っている」と書いていた真意ではなかろうか?