新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「普請」について…

2021-10-30 12:01:29 | 認識論
「普請」について…

「普請」の常識とは?
「普請」とは、「普」と「請」と二文字漢字の熟語。
漢字には音読みと訓読みがある。
二文字熟語の読み方には、音訓・訓音・訓訓・音音…読み方がある。

その「普請」の場合は、音音だろうと推測できた。
そこで私は「ふせい」と考えた。

ここでの私は「請の読みを「請求」の(せい)と決めつけていた。
しかし…改めて辞書を調べると、請には、(せい、しん)が書かれていた。

考えた「私には、請=しん…の知識がなかったのだろうか?」と問い。
そこで「新漢和辞典(大修堂)[三訂版]」を調べたから
「請」を(しん)と読む二字熟語が見つからない。

この辞書の優れている所では、
意味は書かれていないが、最後に「〇請」の二字熟語がいくつか書かれている。
その中にも、(しん)読みは載っていなかった。

「請」は、清(せい)、精(せい)、青(せい)…から(せい)は納得できるが…
「請」の(しん)読みは納得し難かった…

そこで横にいる家内に尋ねたら、
「それはセットで(ふしん)」と読ませる!」と言われた。

これは、「普請は(ふしん)」と決められているモノ。
それは、慣習として決められているモノ。

しかし、多くの場合が「請(せい)」読みであるのに対して
「普請」の二字に関しては(請しん)と読ませるという特殊なモノであった。
だから、家内の言葉「常識!」であった。

私が、この言葉を小学校にいてある辞書で調べた時に、
「ふるい言葉」と書かれていた事から考えると「普請は過去の言い方」であり、
現代では「普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識…」常識ではなかった。

その証が、現役小学校教員10人に「普請」の読みと意味を聞いた結果である。

「言葉の読み方は決まっている」という考え方は常識である。
家内が常識と言うには、普請は(ふしん)を知っているからである。
その理由は以下である。
家内は日本の歴史が好きで歴史について多くの事を詳しく知っている。
そういう意味で、家内にとっては「常識」である。

しかし、そのような事を知らない私や現代人にとっては、
「普請」の読みは決まっているという考え方の(常識)はあっても、
実際の「普請」読み方や意味(過去の常識)を知らなかった。
また「普請」が古い表現だとも、過去の普通の社会人の常識だったとも知らなかった。

今私は知った!
「普請」の読み方に意味を…
そして「常識とは何か」を…

これも家内ともやり取り・口論レベル事があり、
その結果に納得出来ずに、
現実社会で、書物の世界で、ネットの世界で…
調べまくり、考えまくり、書きまくり…その結果である。


仮に私が誰かさんのように~
常識とは「当たり前の事…一々説明する必要のない事…」なんて
考え方をしていたら…今の私のような事は知り得なかった、のだろう。

弁証法の始まれは、
何事も「そう考えるとは限らない」と思う事…
結果がそうであっても、過程は違う、過程がそうであっても、始まりは違う。




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「常識」の二重性~

2021-10-30 10:54:19 | 言葉・概念


常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。


「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。

「常識がない」・「常識に欠ける」というのは、
知識が少ない事をいうよりも、人との付き合い方や世間の習慣を知らない事をいう。また「常識がないために、人に迷惑をかけても気付かない事を「非常識」という。しかし、「常識的」というと、「平凡であまり面白くない」という意味になる。

例えば、以下のような問題である。

A-「1たす1は幾つ?」聞かれて
B-「それは2!」と答えたら、
A-「どうして?」と聞かれて、
B-「それは常識!」と答えたとしよう。


この「常識!」という言葉は正しいだろうか?
Aが大人なら一桁の数の計算は「誰でも持っている筈の知識」であるから正しい
しかし、Aが「数と数の計算を知らない」幼児なら間違い。

また、大人同士でも、その理由を聞かれて時に「常識!」と答えたなら、
それは、「人との付き合い方や世間の習慣を知らない事」だから「非常識」となろう。

そもそも…
普通の大人に、どうして「1+1=2」になるか?説明不能であろう。
「算数とは数の論理」である。
論理には、「始まり・過程・結果」がある。
「1+1=2」は計算結果。
そこに考え方・過程は現れていない。

因みに、数の始まりは「1」である。
その後、「0」の発見があった…そうである。
これは数字の知識とての常識。

普通の大人にとって計算結果は必要であり「知識としての常識」でも、
その過程の論理は、特に不要であるから常識化していない。
この場合の「常識!」と答えた大人には、そこに至る考え方が「考え方の常識」になっていない。

弁証法の結果は知っていても、弁証法の過程は知らない。
知識として弁証法は知っていても、論理として弁証法を使えない。


更に、算数の計算としてなら「1+1=2」は「常識」。
しかし、現実の問題解決の場合は、「1+1=2、とは限らない」という考え方は常識。

例えば、リンゴ一つとミカン一つ合わせて何グラム?
このような問いでは、算数計算では答えは出ない…という事は「常識」。

「1+1=2」は常識である。それは、算数の世界の常識である。
現実の世界での常識は、「物事を的確に数に変換してからの1+1=2」


算数の世界で、「1+1=2」が常識である為には、
数が「1」から始まり、「1」増えるごとに、2、3、4、5…9という知識、9に1増えると「10」になる「数の常識」が必要。
この場合に「何故か?」と聞かれたら、「算数ではそう決めた」が正解。
それでも…絵が数に、数が数字になるまでの歴史があるが…これは常識化していない。

そして、現実界から算数の世界へ入る前には、以下のような考え方の「常識」がある。

この場合の「1」と何か?「1つ」、「1人」、「1台」、「1キロ」…を決める必要がある。
更に「1+1=2」は常識であっても、「1個」+「1人」は、「2個」でも「2人」でない事も常識。



さてさて「常識の二重性」について考えるには「普請」ではなく、
「1+1=2」から始めたら上記のようになってしまった。

これって、常識の二重性「考え方と知識」の区別と連関(常識的考え方)であり、
この「区別と連関」という考え方は、弁証法の世界の知識・常識でもある。

それは、現実世界の物事を算数世界の「数」への変換過程の考え方(「1」の決定)。
量に基づいての数字の変化1から9、そして9から10…
(1文字表記から2文字表記への量質転化)…





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