新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「群盲象を撫でる」について…

2021-10-13 15:50:00 | 言葉・概念

「群盲象を撫でる」について…


以下はネットからの引用である。

~~~~引用開始~~~~

「群盲象を撫でる」とはどういう意味?「群盲象を評す」「群盲撫象」とも呼ばれることわざとの事。│YAOYOLOG

「群盲象を撫でる」とは「ぐんもう、ぞうをなでる」と読み、他にも「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」「 群盲評象(ぐんもうひょうぞう)」「群盲撫象(ぐんもうぶぞう)」とも呼ばれることわざとの事。意味としては、断片的な情報で全てを理解したと間違った考えを持ってしまう、との意味になるとの事。始めの「群盲(ぐんもう)」とは、複数の盲人との意味。後半の「象を評す」「象を撫でる」とは、象の事を評する、との意味になるとの事。複数人の盲目の人が象に触り、一部触った情報のみで象のすべてを知ったかのように語る、という意味になるのだそうです。一部の情報のみで判断するべきでない、といった教訓で、木を見て森を見ず、のことわざにも通じる意味になる模様でした。
そもそもインドから伝えられた逸話との事で、言い方は違えど世界共通で言われている教訓なのかと思いました。

~~~~引用終了~~~~



盲人は、目が不自由な故に象の姿の全体を観られない。
だから、手で触って「象の姿」を知ろうとしている。
そして、この場合の盲人達は、一人一人が触って感覚したモノを「象」の全体像だと判断している。

でも、しかし、である。
ここで、「象の姿」を知り得る誰かが、象の全身を言葉で伝えられていれば…
そして盲人一人一人が感覚したモノを象の一部であると悟れたなら…
盲人全員の感覚したモノを象の部分・部分として正しく位置づけられたなら…
盲人の象の姿は、普通の人が見ただけの姿より、より感情豊かなモノであろう…


この事は、弁証法、哲学、学問、認識論…等にも言える事なのだろう。
この全体像と部分の関係性~
例えば、犬は動物である。でも動物は犬だけではない。

自然の弁証法は弁証法である。でも弁証法は自然の弁証法だけではない。
社会の弁証法は弁証法である。でも弁証法は社会の弁証法だけではない。
精神の弁証法は弁証法である。でも弁証法は精神の弁証補だけではない。

概念の弁証法は弁証法である。でも弁証法は概念の弁証法だけではない。
奴隷の弁証法は弁証法である。でも弁証法は奴隷の弁証法だけではない。

ならば「弁証法とは何か?」
それは「モノ自体の持つ弁証法性を法則化したモノ」
それは「対象の弁証法性を法則として捉えたモノ」
それを「駆使する事で対象を自己の望む方向に変化・運動させ得るモノ」

全ての弁証法に共通するモノは、全ての事物の変化・運動を
…「生々⇒生成⇒発展⇒衰退⇒消滅…」
⇒「他の事物への生々⇒(新たな事物の)生成⇒発展⇒衰退⇒消滅…」⇒
↑と言えよう!

「弁証法を捨てた論説」とは、
そこに「変化・運動性」がない論説。
そこに「生々・生成・発展・衰退・消滅」がない論説。

弁証法性がない論説・言葉とは、それは常に更新・アップグレード…のないモノ。
全ては変化・運動しているモノなら、弁証法のある論説とは、常に変化・運動し続けているモノ。

一貫性がある論説とは、
「本質・実体は不変・不動」⇔「現象・表現は変化・運動」…なのだろう…


因みに、
言語は認識の表現。
でも言語で認識の全てを表現するは至難。
コメント (5)
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続・「人は文なり」というが…

2021-10-13 12:01:04 | 想いのままに…
以下のコメント記述から、更なる「臨済義玄」お宅の人なりが判明!

「臨済義玄」お宅は、彼の度重なる他人に対する不快行為を…
初めは、「誤植」と言い訳し…それを再度指摘されると…
今度は以下です。

>あらあら、またまた…加齢とともに加速しているのかも知れませんね。
>「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)

全く…論理的に物事を見て取れないお宅…である。
南郷氏の上記の記述は、南郷氏の著書の中でのモノ。

それに対して、
このお宅の不快記述は、他人のブログ内でのコメント記述である。
南郷氏は、自分の著書・世界の中での自己正当化、
このお宅は、他人のブログ・世界の中での自己正当化、
普通に考える人なら、このようには自己主張しないだろう。
そう考えるなら、このお宅は普通の考え方をしないお宅なのだろう…

また、この違いを無視してお宅の正当性を主張している姿…
他人のブログ内での他人への配慮欠如している姿を
お宅の言葉で書くなら以下です。

「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる「臨済義玄お宅」には、
『「他人への礼節を知る』余裕がありませんから。」と言えよう。

確か…このお宅は自分の事を「若者」と書いていた。
それを「加齢とともに加速」とは、真実判明⇒「このお宅=老人だ」!
このお宅は、南郷氏を熟知している老人だったのだろう…

このお宅は、このブログ記事「奇形とは?」を読んでないようである。
それを知らずに>「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう<(哀れお宅…涙…)

問題は「誤植」でなく、何度も「誤植」をし続けるお宅の姿である。
誰かが言っていた~
「間違いとは、他人から間違いを指摘されても修正しようとしない姿」と…

この「臨済義玄」お宅、他人からの間違いを指摘されても
自己正当化で、その間違いをもみ消しで満足している、ようである。


最後の「臨済義玄」お宅以下の言葉は意味深であろう。

>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<



>他人が「奇形」とい文字に不快なのは、その他人が己を「奇形」だと思っているから…と考えている
>そして、アヒルの中の白鳥は奇形でも美しい。しかし、自由びとの「奇形」単なる変わっている。
>きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。

↑~
このコメントは…どうなのでしょうかね?
私は、他人から「変わっている」と言われた事はあるが…
それでも、私は私を変わっているとは思っていない。
もっとも…「この人とはここが違う」とか「ここは同じ」とか思う事はあるが…

「変わる」⇔「変わっていない」とは、
共通点を比較するなら「変わってない・同じ」、
異同点を比較するなら「変わっている・違う」…
それだけの事です。

私は「奇形」のニ字を初めて目についた時、
他人を「奇形」と見るなら、それは、その者の観点の問題だろうと考え、記事「奇形とは?」を書いた。

でも、それが「変換ミス」と知らされ、「奇形」の捉え方の勘違いと気付いた。
また、パソコン・スマホの「変換ミス」を、再度確認する事なく送信したなら二重のミス…

この二重のミスを「誤植」という言葉で表現している姿にお宅の人間性を観た。
また、その後も「誤植」を知っていて訂正しない姿に他人への配慮欠如の人格の問題点を観た。

このような人間性においての人格の問題点を観て書くなら、
以下は、誰に当てはまる言葉であろう?
「>例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)<

ブログへの乱入者、「臨済義玄」お宅? 
それともブログの書き手「自由びと」?








以下が、そのコメントである。

・コメントを書いた人  (火) 9:20
臨済義玄


・コメント
あらあら、またまた「奇形」のままで送信してしまいましたか、それは失礼いたしました。私のそそっかしさも加齢とともに加速しているのかも知れませんね。

しかし、自由びとさんが私のコメントを読んでの感想が「そこ」なのも意表をつかれましたな。自由びとさんもご記憶にあるかと思うんですが、南郷さんの処女作には次のように書かれています。

「諸君はその暗黙の、或いは声高の異議を、欠陥の多い形式、私の物の言い方に対してではなく、私の言おうとしている内容へ向けられることをお願いする。」(『武道の理論』p8)

ですので、自由びとさんが反応しているところに「えっ?そこなの?」という驚きを隠せませんけども。

しかし、考えてみたなら致し方ないのかも知れません。「衣食足りて礼節を知る」というように持たざる者には余裕がありませんから。

私は南郷さんが批判していた武道の神仏への志向性は決して批判や非難がされることではなく、マズローの欲求5段階説でいったら最高段階の自己実現や自己超越を指していると思うので、日本の武道が社会正義という高き倫理性を備えていた証だと考えてますね。

もっとも53歳のときに執筆した「武道講義」では『恩讐の彼方に』の描写を入れていますから、36歳のときの宗教批判とは少し考えが変わっていたのかも知れませんけどね。

心理学のテストで絵の中のどこに反応するかで、その個人の性格を指摘する!みたいなのがあるでしょう?自由びとさんが私のコメントの「奇形」という誤植が気になって仕方ないのは、それが自由びとさんの「痛いところ、図星を突いていた」からでしょう。

自由びとさんは同じ玄和会の会員の中でも相当に変わった個性をもった人のようだ。それは今までに色々なところで文字表現をしてきたものを読んでも理解できます。

きっと「醜いアヒルの子」に出てくる「アヒルの中にいる白鳥の子」のように自由びとさんは変わり者に違いないと思いますね。それを潜在意識で感じているから「奇形」という言葉に敏感に反応するのでしょう。

ですが、確かに相手が嫌がることを無理矢理やるのは良くありません。私も肉体的な欠陥を突かれるのは辛いものがありますし。次回は誤植のないように注意したいと思いますが、何しろ人間がやってることですからミスは付き物だという大らかな気持ちでいて欲しいと思うんです。

例え「持たざる精神的な貧困者」だったとしても(笑)
コメント (1)
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