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~「我思う故に我あり」の話~

2024-08-17 16:22:36 | 「わたし事・学」
~「我思う故に我あり」の話~


以下はネットから引用である。

~~~~転写開始~~~

「我思う、故に我あり」の意味とは?【死ぬほどわかりやすく解説】 (uteimatsu.com)


「我思う、故に我あり」の意味とは?【死ぬほどわかりやすく解説】
  投稿日:2019年12月31日 更新日:2020年5月16日


こんにちは、素人哲学者 ミルマノ(@_mirumano_)です
この記事では「我思う、故に我あり」の意味を
できる限り簡単に解説したいと思います。
「意味はわかっているけど…当たり前のことじゃね?」
って思っている方も是非読んでみてください。
この言葉が生まれた経緯とかも含めて解説します。



「我思う、故に我あり」の意味とは?

「我思う、故に我あり」をそのまま現代の日本語に直訳すると、
「私が思う、ということは私がある」となります。
ここで重要なのが、「思う」と「ある」の意味です。
この名言の「思う」は「疑う」
「ある」は「存在する」という意味になります。
つまり
「私が疑う、ということは私が存在する」
というのが「我思う、故に我あり」の本当の意味になります。
意味はわかったけど、
なんかすっきりしませんよね。
なので、ここから、
この名言が生まれた経緯を紹介したいと思います。





「我思う、故に我あり」が生まれた経緯

これはデカルトという哲学者が生み出した名言です。
デカルトが哲学者として生涯をかけたのが
「真実の発見」です。
哲学者というものは生涯かけて、
「真実」や「真理」見つけたい生き物です。
デカルトもそれを成し遂げた1人なんです。
では、彼はどうやって「真実」に辿りついたのでしょうか?
「疑いきれないものを見つけ出せばそれって真実じゃね?」
なぜなら「真実」というのは、「普遍的」なものだからです。
つまり全部を疑って、疑えないもの→普遍的→真実だと考えたわけです。
デカルトはそこからあらゆるものを疑い始めます。
これがデカルトのアプローチ方法で、「方法的懐疑」と呼ばれています。
「目の前にあるパソコンは真実?」
→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」
「1+1=2は真実?」
→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
だとすれば、これが真実のように思えるだけかもしれない。」
こんな感じです。
ほんと、この根性はすごいと思わざるを得ません。
ここまでずべてに疑いをかけると何も信じれなくなりますよね。
しかも、「夢だったら…」とか「神様のせいで…」とか
そんなもの引き合いに出したら、全部疑えちゃいますよね。
デカルトは圧倒的不利な状況に陥ります。
しかし、ここで諦めなかったのが、デカルトのすごいところです。
彼は、あることに気づき逆転勝ちします。
「あれ?今疑いまくってるけど、この疑ってる思考自体は、疑えなくね?」
確かに。
目の前のものは夢の中だと考えると全て疑えてしまう。
でも「今夢の中にいるんじゃないか?」
って疑っている思考自体は疑えなくないですか?
つまり「疑っている自分がいる」ということは疑えない普遍的なもの。
そこからでた名言が
「我思う、故に我あり」
です。



「我思う、故に我あり」に対する批判

ここまで「我思う、故に我あり」という名言ができた
経緯を解説してきました。
「デカルトさん真理見つけたやん。すっげ」ってなっていますかね?笑
ですが、この名言もカントという哲学者によって簡単に論破されてしまいます。
「確かに疑っている思考は疑えないよね。デカルトさんすごいよ
でも疑っている人間の存在自体はまだ疑えちゃうよね。デカルトさん甘いよ」
こんな感じです笑
例えば、
「私は自分がイケメンだと思う」
このとき、「思う」こと自体は真実です。
でもだからって実際にイケメンとは限りませんよね。
ただのナルシストの可能性だって(おおいに)あるわけです。
カントはそこに気づいちゃったのです。
疑っている思考は疑えないけど、
だからって存在も疑えわけじゃないよね。
カントすっげ。
真理を見つけたデカルトをこんな簡単に論破するとか。
ってなっちゃいますよね。
ただ、存在そのものは疑えてしまうけど、
その思考自体は疑えないと主張したデカルトの哲学というのは、
当時最高の力を持っていたのも事実です。



「我思う、故に我あり」のまとめ

では、最後に簡単いこの名言のまとめをしておきます。
「我思う故に我あり」
→デカルト:「疑っている自分の存在は疑えない、これこそ真理!!」
→カント「疑っている思考は真理。でも存在は疑えちゃいますよ。」
→デカルト:「そうやな。疑っている思考自体は真理!!真理発見。」
以上になります。
最後までご覧いただきありがとうございました。

~~~転写終了~~~



以下の最後の部分~

>「我思う故に我あり」
>→デカルト:「疑っている自分の存在は疑えない、これこそ真理!!」
>→カント「疑っている思考は真理。でも存在は疑えちゃいますよ。」
>→デカルト:「そうやな。疑っている思考自体は真理!!真理発見。」
>以上になります。


流石は二律背反のカント
思考するモノと存在するモノが別々になってる。
「思考する自分を認識するのは、それを認識している自分が存在している」事…なのに!

カントに、とっては、疑っている思考は真理でも、
その疑っている思考をしている「我の存在」は真理でなく疑えてしまう。

これは、実体と機能を別々の存在に分離してしまっている。
これは、認識的な実在と物体的な実在を分離してしまっている。



~「認識の二重性」の話~

認識とは対象の反映であり五感情像。

人類以外の動物は、時々の対象の反映・認識・情報から、その種族特有の本能の判断に基づいて必要な行動している。
それに対して人類は、その対象の反映認識に対して、その個人的・問い掛け的な認識に基づいて判断し行動している。

人類には、
一つ、外界・現実の反映された五感情報的な対象の反映認識。
一つ、自己の内界の問いかけ的な体験・経験的な問い掛け的認識。

この内界の問い掛け的な認識は、生後から外界の反映から癖・習慣・習得的な量質転化の結果。


さて~
「我思う故に我あり」の中での
「疑っている自分」は、自分・内界の「問い掛け的認識」と言える。


>「目の前にあるパソコンは真実?」
>→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」
>「1+1=2は真実?」
>→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
>だとすれば、{これが真実のように思えるだけかもしれない。」
>こんな感じです。


上記のように~
「対象からの反映像・認識(これはパソコンだ!)」を、
「これ夢だ!パソコンはない!」と否定し続けている認識。

外界の対象から反映像を、内界の問い掛け像で、事実ではない!と否定の連続。

これは、パソコン!だと、確信・確定している我。
でも本当は、パソコンではない!と否定している我。


そんな「外界認識と内界認識」の二つの認識の確執から生じた「全ては疑いうる」なのだろう。

言うなれば、「パソコンだ!と思う」と「いや違う!と思う」の二律背反。
強く「そうだ!と思う我」と「強く違う!と思う我」の二重の我。
それは、「外界の反映像」と「内界の問い掛け像」の不一致。

この証明の為に、「パソコンとは?」、「夢とは?」の確定。

>「目の前にあるパソコンは真実?」
>→「いや、違う。自分が夢を見ていたら、このパソコンの存在はない」


目の前にあるパソコンは事実か?
「夢を見ているなら、それは夢の中のパソコン!」
「現実の私の前にパソコンの存在はなくても、夢の中の私の前にはパソコンは存在いている」


>「1+1=2は真実?」
>→「いや、神様が俺たちの脳みそを洗脳している可能性もある。
>だとすれば、{これが真実のように思えるだけかもしれない。」
>こんな感じです。

「1」も「2」も神の創ったモノではなく、数字という人類の創造物。
「1+1=2」も人類が決めた結果であり事実。

自分が、その「1+1=2」を事実と信じ限りは事実。
信じないなら、それは、ただの数字・記号羅列に過ぎない。


「我思う故に我あり」の別解~
「我、絶対精神の実在と思う故に、絶対精神的な我あり…






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