新・悟りを求めて~

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「頭脳活動」の話

2024-08-11 12:52:26 | 「わたし事・学」
「頭脳活動」の話


頭脳は、人間が生きている限り、活動し続けているモノ。
その活動には、「意識的と無意識的活動」と「自覚的と無自覚的」とが考えられる。


今、意識的に「犬」と言う言葉で、イヌについての頭脳活動を開始したなら~

過去の愛犬ゴールデン・レトリバーのマファと現在の愛犬柴犬のマロン…
また、幼少期の愛犬ダックスフンドのレイディ…他に小学生の頃に下校中に噛まれた野良犬…
そう「犬」というキーワードかかは、過去に私が関わった犬達の事が想起され、それらとの想い出が浮上してくる。


では、ここで現在の「愛柴犬のマロン」と言うキーワードなら~
数回も強烈に噛まれた想い出と、今も残っている右掌の傷と痛み少々…
数回も噛まれたマロンだが…ゴールデンのマファには、二回噛まれた想い出が…

それは、当時の父の愛兼シェパードのハッピーとマファを、
下半身の為の鍛錬の一環として、下駄を履いて「二匹一緒に散歩へ」とリードに繋いだら…
二匹が喧嘩にあり、それを止めようと間に入って出した私の手をマファが噛んだ。

もう一回は14歳と数か月の頃になって…とうとう歩行不能になり、
寝た切りのマファを外へ出して少しでも歩かせようして担いだ時に、
傷口が痛んだようで、ひと噛みされた。

当時のマファは、板の間に直接寝たきりにして、床ズレで太ももあたりに傷だらけ…
今、考える…下に何か柔らかいモノの敷いたり、時々体を動かして上げていれば…

ここで分かるのは、「犬」という「具象的言語」から頭脳活動を開始したなら、私の認識している「犬」の想い出・知識の想起。
それを「具体的な」柴愛犬のマロンからなら…
愛犬マロンの想い出と同じ愛犬のマファの想い出+シェパードのハッピーの想起。
このハッピーは、私がペットショップ経営の友人から父に頼まれて買ったので私には、とても慣れていた。。


南郷師範曰く、頭脳活動は、言語ではなく、認識映像を用いてなされている。
それが、上記の具体的な私の「具象的な犬」と「具体的な愛柴犬マロン」から始めた頭脳活動の例である。



頭脳活動は認識映像から~
その認識は、言語を媒介として想起が可能。
言語以外なら…同一的な「感情」からの想起も可能。

そうそう「感情」からの例として~

以下の「トラウマとフラッシュバック」のようモノが考えられる

「トラウマとフラッシュバックは、どちらも過去の辛い経験に関連する症状で、トラウマは心の傷、フラッシュバックは鮮明な記憶として蘇る現象です。

トラウマとは、過去の辛いできごとが心に大きな傷を残し、後の人生にさまざまな影響を及ぼす場合に指します。トラウマ性の記憶は強い情緒や身体感覚的な印象から構成されており、過覚醒状態になったときや、トラウマ体験を思い出されるような刺激を受けたときに、そうした情緒や感覚がよみがえることがあります。」


日常生活で、強烈ではなくても、若干過去と似たような状況から、
過去のフラッシュバック映像認識の想起と共に強烈な負の感情の発生。

これは、当人の意志とは無関係なモノなのだろう。
古傷や治りかけた傷口が痛むレベルなのだろう。

さて、では、キーワードでは、「ペット」なら、拾った愛雑種のトラ猫マニャの想起…
マニゃとは、一度、真剣レベルの闘いをしている。
理由は不明で、私が近づいたら、「ジャー」と牙をむいて、
噛もう・引っ掻こうと…必死の形相で…私の負けずに蹴ってやったら、足を噛まれ引っ掻かれた…
ただ…その後は、もう、そのような事はなくなったが…


ペットといえば、小学生の頃に息子が「マッハムームー」というハムスターの面倒を見ていた。
それが、正月に家内の実家福島へ一緒に連れて行った時、次の朝マッハムームーは永眠していた。
その事を、電話口で大泣きしている息子から聞かされた。

最近、私が通っている整体院の院長から、
「ハムスターは、寒くて仮死状態になる事もある」
「死んだと思えてもドライヤーで温めると復活する事もある」と~聞かされた。


以上が、抽象的「ペット」、具象的な「犬」、具体的な「マロン」…
という言語を媒介としての認識想起による頭脳活動の具体例である。


無意識的であっても、自己の無意識を自覚可能時もありえる。
それは、今・この瞬間は「無意識的な動作」であっても、
次の瞬間に結果を見て「無意識だと自覚」したなら…

自分は、「無意識的な動作」をしてしまったという「自覚あり」と言えよう。

無意識的な動作・行為とは、
そこに自覚可能な強さの「意志」はないが…
普段から習慣になっている動作・行為なので…
結果的に、その行為の瞬間は自覚・意識はあっても…次の主観に忘却している。

そう~その行為・動作は「意志」という認識のレベルが低いレベルで可能なモノだから、なのだろう。


最後に「哲学」といキーワードからの想起は?

この場合に、哲学=人生論、哲学=死生論…  哲学=学問、哲学+弁証法+認識論=学問…
「哲学」という言語の概念によって、想起されえるモノは、大きく・小さく・的外れ…的な想起なのだろう…

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