「獅子の城塞」 佐々木譲 新潮社
1582年(天正10年)、天正遣欧少年使節と共に、穴太の石積み職人、戸波次郎左は西南蛮の技術を学ぶ為、ローマに向かう。
父親の戸波市郎太は、安土城の石垣を築き、織田信長から次は石造りの城を作る事を依頼されていた。
その西南蛮の技術を学ぶ為に次男の次郎左が派遣された。
次郎左は、寄港地などで西洋の事情も学びつつローマにたどり着く。
ローマではイエズス会の修道院に寄宿し、城壁の石積を学ぶ。
イエズス会は、次郎左は大聖堂の普請の技を学ぶ事を求めるが、次郎左は城塞と城壁を築くのが使命と思っていた。
時々伝わってくる日本の情勢と、1度来た父親からの伝言で次郎左は、徳川家康からの築城の依頼を待っていた。
改宗も拒否した次郎左は、イエズス会の庇護を離れ生活し始める。
1590年、サン・ピエトロ大聖堂の円蓋の要石普請にも係る。
そして、ルチアと言う女性と知り合い結婚する。
しかし、異教徒と言う事が問題となり、ローマを逃げるように離れフィレンツェへ。
当時はネーデルラント独立戦争中で、相手側のイスパーニャを含め城壁を築く仕事は事欠かなかった。
次郎左は石積み職人として、信頼を得て行く。
「天下城」の続編。
あくまで、石積み職人として全うした次郎左の一代記。
石積みに関係した事だけを学んでいるのだが、否応なく関係してくる宗教問題。
そして、家族関係。
とても真っ直ぐな人間で、優等生的な次郎左だが、問題は色々を降りかかって来る。
それに抗うことはなく、仕方ない事と受け入れ、その中で最善の道を選んでいる。
流される訳でもなく、自分の意志で進んでいる。
「自分の仕事とはなにか。何を求められているのか」
それがブレることなく、いつも心にある事が。
そんな次郎左の生き方と、当時の世の中のこと。
丁寧に書かれている。
こう言う人生もあるのだ。
オランダの独立戦争も、今まであまり知らなかった事なので、興味深かった。
石がない所では、レンガを使う。
当たり前の事なのかも知れないが、ああそうかと気付かされた。
日本は、石はたくさんある方なのだろう。
1582年(天正10年)、天正遣欧少年使節と共に、穴太の石積み職人、戸波次郎左は西南蛮の技術を学ぶ為、ローマに向かう。
父親の戸波市郎太は、安土城の石垣を築き、織田信長から次は石造りの城を作る事を依頼されていた。
その西南蛮の技術を学ぶ為に次男の次郎左が派遣された。
次郎左は、寄港地などで西洋の事情も学びつつローマにたどり着く。
ローマではイエズス会の修道院に寄宿し、城壁の石積を学ぶ。
イエズス会は、次郎左は大聖堂の普請の技を学ぶ事を求めるが、次郎左は城塞と城壁を築くのが使命と思っていた。
時々伝わってくる日本の情勢と、1度来た父親からの伝言で次郎左は、徳川家康からの築城の依頼を待っていた。
改宗も拒否した次郎左は、イエズス会の庇護を離れ生活し始める。
1590年、サン・ピエトロ大聖堂の円蓋の要石普請にも係る。
そして、ルチアと言う女性と知り合い結婚する。
しかし、異教徒と言う事が問題となり、ローマを逃げるように離れフィレンツェへ。
当時はネーデルラント独立戦争中で、相手側のイスパーニャを含め城壁を築く仕事は事欠かなかった。
次郎左は石積み職人として、信頼を得て行く。
「天下城」の続編。
あくまで、石積み職人として全うした次郎左の一代記。
石積みに関係した事だけを学んでいるのだが、否応なく関係してくる宗教問題。
そして、家族関係。
とても真っ直ぐな人間で、優等生的な次郎左だが、問題は色々を降りかかって来る。
それに抗うことはなく、仕方ない事と受け入れ、その中で最善の道を選んでいる。
流される訳でもなく、自分の意志で進んでいる。
「自分の仕事とはなにか。何を求められているのか」
それがブレることなく、いつも心にある事が。
そんな次郎左の生き方と、当時の世の中のこと。
丁寧に書かれている。
こう言う人生もあるのだ。
オランダの独立戦争も、今まであまり知らなかった事なので、興味深かった。
石がない所では、レンガを使う。
当たり前の事なのかも知れないが、ああそうかと気付かされた。
日本は、石はたくさんある方なのだろう。
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