「和銅の道」⑥ 「水上(門口)地蔵」から「補陀洛寺跡」(フダラクジアト)到着。

2022-01-25 13:54:54 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
ツチノコ伝承地」の対面、コリドールロードを横断し(大変危険)、
そこにある「大きな祠」は、【水上地蔵】(中には「門口地蔵尊」とも)
  
大小幾つかの五輪塔や石仏さまたち、
昭和28年8月15日の山津波」で流されてしまった諸仏さまを
ここに集め、供養しているとのこと、
元々は「補陀洛寺の山門」があった場所だとか、
最初の「丁(町)石墓石」は、寺跡に移築されているらしいので、
それを今から探しに行くわけです。
※「自然災害伝承碑」を巡った時の資料をリンクしておきます。

では、「動物注意」の標識のところを左へ行きます、
車も動物も注意!して曲がりますが、この先は車通行不可です。
 
80mほど歩けば到着するとのご案内デス。
   
遠い昔、建長年間(約750年ほど前)、ここに「お寺」があったとか。
山林に分け入ってみましたが、「二段」と言われればそう見えなくもない…
  

補陀落寺跡
 ≪渡海信仰で知られる熊野補陀落信仰がこの地に伝えられたのは何時の頃なのか判明しがたいが、
 高倉神社の祭神が熊野に縁りがあるので、その関係であろうか。
 奈良街道から寺まで道案内として の石標が建てられ「これを丁石とい い、
 建長五年(1253)の銘を刻む」 鎌倉期の頃の繁栄が偲ばれる。
 この寺跡は、二段になっている。 南北35m、東西35mの広さで、
 磯石としての桂束石が出土した。
 創建及び廃寺の頃は不明だが高倉神社に現存する棟札により、
 奥坊・ 新坊の二坊があって16世紀末まで存続したことがわかっている。
   高倉補陀落保勝会≫

「渡海信仰」(トカイシンコウ)とは、
 南方の海上にあると信じられた、補陀落浄土(ふだらくじょうど)を目指して、大海原に船を出す。
 観音信仰の捨身行のひとつ
「熊野補陀落渡海」(クマノフダラクトカイ)とは人間を棺桶のような小舟に乗せて沖合はるかに流し、
 南紀の熊野那智から海を渡れば、補陀落という理想郷へ行けるという考え。
 かつて、日本のあちこちで行われたといわれます。

その信仰がこの辺であったということは、
伊賀の」に乗って船を出していたのかなぁ?と勝手に想像してしまいました…

実際は、とても厳しいというか、帰って来られた人はいないというか、
そんな記事がありますので、リンクしておきます。
神戸新聞/生還するあてのない過酷な航海「補陀落渡海」とは」。(2021/9/20)

日経新聞/南海浄土へ 帰らぬ船出 補陀洛山寺の渡海船」。(2018/5/9)

 
補陀洛寺跡の「丁(町)石」などをじっくり見、
今度ここへ来る時は、一人でも来られるかもしれない、
けど、神秘的過ぎてやや怖さも感じるかな…
(行くならこんな時期がいい、草木が枯れて見通しが良いので(笑))

では、復路です、15時30分ごろです、
ゴルフ帰りの🚗多し!
ココに「横断歩道」があれば、スピード落ちるのにね(個人的見解(笑))…

帰り道の最後(最初?)の民家がある辺りで、
足元に3本一組の長い松の葉、いっぱい見っけ、
見上げると「大王松」です、いつ見ても「枝(葉)ぶり」が綺麗。
 
ただし、松ぼっくりはありません。

「高倉神社」に戻り、ここには「国指定天然記念物」の「シブナシガヤ」の大木があるのです。
 ※日本で3本しかなかったとても珍しい木で、
 伊賀に2本「果号寺(西山)」とココ「高倉神社」です。
 あと1本は、大垣市にあったそうですが…

Q.なんで「シブナシガヤ」と言うの?
A.この木の実の殻を割ると、渋皮が実に付かないで殻に付く
  ということからシブナシガヤと呼ばれているんだそうですよ。

山の中に分け入り、この木だよと教えられ、
拾われた「シブナシガヤの実」をもらい、種から育った「若木」も見つけました
  
今日頑張ったご褒美の「実」です

一人ではとても行けないと思っていた「和銅の道」。
歴史ある街道の「丁石探し」中心のウォーキングでしたが、
意外と見所は多く、現地へ行かなければ知り得ないこと多々。
とても勉強になりました、行って良かったどう(銅&道)。
しょうもない洒落で終わりましたが、お声をかけていただければ
現地ご案内いたしますよ (但し、ワタシ、春~初秋はムリです(笑))

ではまた、まだまだ冷え込みは厳しいです、
ご自愛くださいね。

追記(2022/4/4)
そういえば、初めてグループ活動の仲間入りをして、
地図上で存在は知っていたけれど、一人で行く勇気がなかったところ。
案内してもらってみんなで行く楽しさも味わった「廃補陀洛寺町石巡り」。
改めてこの you tube を見てお勉強してみました…

三重の文化財/三重県教育委員会 社会教育・文化財保護課配信
鎌倉時代がそこにある!廃補陀洛寺町石


伊賀市西高倉には、道沿いに点々と「町石」がならんでいます。この町石は今はすでになくなってしまった補陀洛寺というお寺までの距離をしめすもので、なんと鎌倉時代に造立されたものなのです。さらに、この町石が並ぶ沿道には源平合戦ゆかりの滝もありました。

〇今回ご紹介する文化財
廃補陀落寺町石 はいふだらくじちょうせき
国指定史跡
指定・登録日 1933(S8)年2月28日
所在地 伊賀市西高倉
年代 鎌倉時代
概要
 西高倉字水上にある廃補陀落寺跡から、奈良街道と呼ばれる旧街道に向かって1町(約109m)毎に配置された丁石(町石)で、現在10基(国指定8基、市指定2基、復元丁石1基)が残存し、最も遠いのが十五丁石である。
 いずれも自然石を用い、梵字・道程・寄進者名が見える。つまり、補陀落寺に向かう老若男女の便のために、信者が建てたのがこの町石である。
 基石と四丁石に建長五(1253)年の銘があり、全国的に見ても最古のものと言われている。 補陀洛とは観世音菩薩の居所の梵語訳で、密教的な信仰にかかるものである。廃補陀落寺跡には礎石が残り、蔵骨器や布目瓦が出土している。

〇今回ご紹介する文化財に関連する文化財
高倉神社 本殿・境内社八幡社本殿・境内社春日社本殿 附 棟札6枚
たかくらじんじゃ ほんでん・けいだいしゃはちまんしゃほんでん・けいだいしゃかすがしゃほんでん つけたり むなふだ6まい
国指定 重要文化財(建造物)
指定・登録日 1926(T15)年4月19日
所在地 伊賀市西高倉
所有者 高倉神社
員数 3棟 附棟札6枚
構造 一間社流造檜皮葺
   ・本殿及び八幡神社本殿
   ・春日社本殿は一間社春日造、檜皮葺
年代 桃山時代
概要
 本殿及び八幡社本殿は一間社流造、用材は桧で、桧皮葺、三方に縁をつける。春日社本殿は一間社春日造で、屋根は桧皮葺。三棟とも彩色され、蟇股内の彫刻、手狭、頭貫の鼻等手法は、桃山時代の特色をよく示している。棟札に「天正二(1574)年十一月二日 奉造立春日社仁木殿長政為御本願造立‥‥」とある。
※廃補陀洛寺町石と同じ伊賀市西高倉に所在する神社の建造物です。

以上。
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宿題だった「大日堂(ダイニチドウ)」(西高倉)へ行きました。(「和銅の道」⑤)

2022-01-24 14:46:39 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
「和銅の道」のおまけと言ってはタイヘン失礼ですが、
1/16当日は見所が多く端折ってしまいました、とても気になっていたので
本日1/24、改めてお参りに…

家を出発、鍵屋の辻の池に差し掛かって何気に見たら「鳥」、
ここで「鳥」さんに出会えるとは思わなかったのでラッキーと
  白鷺さんですね、
ご夫婦か親子かはわかりません、水面に映る姿が愛らしかったです(笑)。

では、今年二度目訪問の「高倉神社」の駐車場着。
宮谷川にかかる「明神橋」を渡る、
  
その先に本来の参道があります、
多分伊賀コリドールロードが開通したことで変則参道になったと思われます。
  
「廃補陀洛寺丁(町)石」碑も一緒に建っています。

そして、例のお坊さんの案内「九丁石」から奥に進みます
  
峯庵寺(大日堂)
 ≪『伊水温故』によれば、江戸時代前期に高蔵寺の末寺であったとの記載がある。
 また、『三国地志』には、江戸時代中期に徳樂寺、地蔵寺、燈明寺とともに峯庵寺の存在が記載されている。
 地元では通称「大日さん」と呼ばれ、大日如来が祀られ、毎年八月二十八日が会式で夜遅くまで江州音頭で賑わった。
 今では八月二十八日前後の日曜日に徳栄寺の住職が、村人とともに会式を行っている
 大日如来は密教の教主で、地元では牛馬守護仏として 信仰が深い
 お寺の全体像は記録に残っていないが、東側の空地は本堂と庫裏と考えられ、
 江戸時代中期の『三国地志』に存在が記録されていることから考証すると、
 江戸時代後期の安政元年の大地震により、倒壊焼失したものと考えられる。
 現在のお堂は大正年間、稲森亀松、奥西勝三郎大工により 建てられたものである。≫

説明版の横に「石段」、その両側には「お地蔵様」のお出迎えです
 

 
階段と共に並んでいらっしゃるので、どんな風に撮っていいのか悩みました
石段を上から見ると、どうも御墓の「水鉢」風のものが使われている気がします
  
土や落葉が詰まっていたので、少し吐き出してみたのですが…

境内と「本堂」らしき建物です、
   
中を覗かせていただくと、輝いて見えた「大日如来」さま、
 
地域の方たちに大切にされていることがよくわかります。
いいお顔されてますね。

思い立って宿題を忘れずに訪問して良かったです。

 
手前に通っているのが「伊賀コリドールロード」、
向こう正面が「和銅の道」。
そして再び「九丁石」.、なんたってこれが「目印」です。

 高倉大神扁額
もう一度ここをくぐって参道(車通行可ですが、軽自動車くらいかな)から、
正面が「天吹山」(アマブキヤマ)ですね。
  

遠い昔(多分子どもの頃)、ココは「高倉キャンプ場」だった記憶があります、
そのバンガロー跡、かな

家人もキャンプの記憶がある…と。
「岩倉のキャンプ場」ができるまでは、ここは大にぎわいだったと思います。

次回は「熊野信仰、補陀落渡海(フダラクトカイ)」のことなど含めて「補陀洛寺跡」へ、
鋭意勉強中なんですけど、熊野はとおい…
ではまた



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「和銅の道」④ 丁石巡り、「補陀落の滝」そして、「五八寸(ツチノコ)伝承地」?

2022-01-23 14:55:15 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
炭窯跡」の横には、「高倉高区配水池
  (再掲)
この施設の前を通って、このまま「旧道」を歩きます。
左は「伊賀コリドールロード」、車は結構高速で降りてきます、
ワタシもここを走る時、気を付けようと思いました、
「大杉谷と大杉谷橋」の説明版を読みたくて、ワタシの様な
歩行者が渡る可能性がある…要注意です。

この「旧道」には、「六丁石」がなくて(水害で流されたかな)、
 渓流側の木に立派な「サルノコシカケ」

 
山側は石垣で保護され、光も適度に入った山林。

順に【五丁石
 

四丁石
 

ここに「滝?」、という場所に案内板です、
補陀落の滝】(フダラクノタキ)
 「補陀落の滝と那智川」説明版 

≪「和銅の道」の歴史は古く、740年に聖武天皇が行幸し、
 源義経が1184年に「加太越え」で、「落首の滝」(=補陀落の滝)を避けて
 長田から笠置方面へ木曾義仲討伐のため京に向かったと伝えられている≫そう、
≪「源平盛衰記」には、水勢が首を落とす程の勢いがあるとか
 補陀洛寺の破戒坊主の首を落としたとかの伝承がある≫らしい。
(「大河」に出てくるだろうか、このシーン、まさかね

では、「義経も(滝の名前を)忌み嫌って避けた滝」、伊賀コリドールロード「不動橋」を上に見て、川へ下ります。

※参考
 コリドールから「不動橋」を見る

  
「三段の流れ」になっています、昔のことはわかりませんが、
今は水量は随分少なくなっている、気はしました。
上野地区では他に見ることのない唯一の「滝」かもしれないので、
是非見に来てください。
また、※熊野信仰という言葉を覚えておいてください、次回に…

補陀落の滝」(滝pediaより)



さぁ一旦、コリドールロードに出ます、ここを通る時が一番危険!
その道中に、【三丁石
 

ゴルフ帰りの車など多し、もちろん一般車も、
スピードが出る上に、カーブもあります。
丁度、ここですね、タラオカントリー方面への曲がり道!

この曲がり道の対面に、「うっそぉー居たの?ここに?」と思わず叫んだワタシ(笑)。
「出たそうやげな…」
  【五八寸(ツチノコ)伝承地

今日はげなげな話で終わります、
ではまだもう少し続く
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和銅の道③丁石巡り 「高倉神社」から「炭窯と司馬遼太郎」碑へ

2022-01-22 14:51:42 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
番屋の辻・芭蕉句碑」を後にしてどんどん進みます。
丁度、「高倉神社 一の鳥居」が見える辺りに
九丁石
  
お坊さんが「大日堂」への案内をしてくれてます、今回はパス。

始めて通る道なのでちょっとおさらいをすると

地図的にはこんな感じで進んでいます。
「ケヤキの大木」横の鳥居をくぐると
 「國史見在郷社」碑
この先を川の方に降り「明神橋」を渡る(本来この道が「参道」です)と、
いよいよ…到着です。
高倉神社】(祭神:高倉下タカクラジ)
ここで「神話」より「高倉下」ってどんな人?
 ※高倉下:神武天皇東征中の最大の危機を救った熊野の土豪
 『古事記』『日本書紀』に登場する。
 それによれば、神武天皇は、紀伊に迂回して大和を目指すが、
 途中、熊野の村で大きな熊の毒気によって兵士たちともども気絶してしまう。
 このとき高倉下が天皇に大刀を献上し、目を覚ました天皇はその大刀で荒ぶる神の邪気を払った。
 高倉下がいうには,「夢に、武甕雷神(タケミカヅキノカミ)が天照大神の命を受けて、
 下界の平定を手助けするために大刀を下すというお告げがあり、
 翌朝、を見ると夢の通りに大刀があった」という。
 高倉下というのはこれによるが、クラジは倉主の意ともいわれる。
 その大刀は石上神宮(イソノカミジンジャ天理市)に収められた。≫(コトバンク:朝日日本歴史人物事典より)

さて、ここで伊賀と熊野の関係も分かったことで「縁」を感じます。

--- この場所で、ワタシの個人的な「縁」を見つけました(笑)、
 「富士正宗」(平和酒造)
家人の家は元々酒蔵があり、酒造りをしていました、
やがて数軒合同で「平和酒造」を起こし、美味しい「富士正宗」というお酒を造っていました。
今は酒蔵そのものもないし、酒造りもしていません、
でも懐かしいその「樽」を見つけて、ちょっとホロっときてました…
余談でした。 ---

   
「高倉神社拝殿扁額」「八幡社」「本殿と春日社」
(もう少しきちんと撮りたかったです
朱塗りが美しく、「檜皮葺屋根」、「擬宝珠付き高欄」を持つ、
彫刻や彩色には「桃山時代」の特色が表れています。
本殿・八幡社・春日社の三社すべて「国重要無形文化財」。

ここで、下記ブログ御参考に
dawnさんのブログをリンクさせていただきます「倉庫・運輸の神を祀る
(拙い当ブログ「高倉神社」)

 伊賀コリドールロード横断要注意
再び宮谷川沿いに旧道を進むと、
八丁石

昭和29年に拾得された石碑なので「国指定」から洩れています。

次に、「獣害対策用柵」の向こうに
七丁石
 

そして、ここに司馬遼太郎さんの紀行文集「街道をゆく」に登場している炭焼き窯跡、
「炭窯と司馬遼太郎」説明版。
 

炭窯の隣は「高倉区配水池(タンク)」があり、
旧道とコリドールの交差する辺り「大杉谷と大杉谷橋」の説明版。
これは自動車で通った時によく見ていましたが、
いつもは素通りなので、今回はじっくり読みました(笑)…
 
そのまままだまだ旧道を進みます。

ではまた続きます…
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「和銅の道」②  補陀洛寺(フダラクジ)への町(丁)石を追う

2022-01-21 15:39:24 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
前回のウォーキングマップのA地点辺りから歩きます。
  
(本通りと裏道っぽいその中間地点になります)

A:「廃補陀洛寺町石(国指定)」(三重県文化財データベースより)
史跡補陀洛寺町石碑】があり、そこを曲がると【十五丁石】があります。
『碑』には「町」と彫られていますが、「石」にはこの字なので、
ちょっと悩ましいのですが、こちらの字で統一することにします。
  
 ≪伊賀市の高倉神社から約800m上(西高倉字水上)に、
 鎌倉時代である建長年間(約710年前)に、補陀落寺が建てられました。
 この門前から、一町(約109m)ごとに石が置かれ、
 道しるべとして立てられたのが廃補陀落寺町(丁)石
である。
 信者たちが建てたもので、現在十基が残っています。
 自然石の表には、梵字や寺からの距離、それに寄進者名などが彫られています。
 自然石を用いた町石では、在銘最古の町石として広く知られています≫

また、10基のうち「国指定」は8基、市指定は2基、復元町石1基です。
それを順に追いかけます…
 「和銅の道」案内碑
そのまま北進すると、
 「高倉神社」&「和銅の道」石碑
ここを「右」へ進むと、
「十四」がなくて(多分、水害時に流されたかもしれない…と)
十三丁石
 

十二丁石
 
振り返るとこんな感じ…


すぐに、三差路っぽいところに来ます、
ここは【番屋の辻
  石仏さまたくさんおられます
 ≪奈良街道の四ツ辻で、田水を配る水分神の依る処である。
 五月より八月まで毎夜 水番 が交代で出役した場所なので
 「番屋の辻」と呼ばれるようにな った。
 子どもの作った燈灯がヨノミの木に掛けられ、
 夜十時頃まで子供の声がしきりに聞こえて夏の夜の風物詩になっている。≫

昔の風景が蘇るような場所です、その前には

芭蕉句
『しぐるるや 田のあらかぶの 黒む程』
 ≪元禄三年(1690)冬の作。季語は「時雨」。伊賀上野の実家へ帰る道中の吟。≫
 ≪句意:山道沿いの田圃に点々と居並ぶまだ新しい稲の刈り株が、
 折しも回り来たった潔い時雨にぬれて、みるみる黒ずんだ濡れ色に変ってゆく。
 こういう時雨が、通り過ぎていくたびに伊賀の冬は深まっていく≫

ここを過ぎるともうすぐ「高倉神社」です。
 
鳥居の横にはケヤキの巨樹、圧倒されました。
が、実はワタシはここからお参りするのは初めてでした、
いつも県道沿いに「西山」への入り口から行っていたので…
でも、この鳥居が「一の鳥居」だと思います、正式参拝です(笑)。

ではつづく
十一丁石、十丁石はありません
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一人では勇気が出なかった…「和銅の道」ハイキングコース①、行ってみた

2022-01-20 14:49:21 | 和銅の道補陀洛寺跡丁石巡り
グループ行動の仲間に入れていただいたから歩けた、ということです。
一人で行けばきっと迷子になるか、途中であきらめてしまうかもと思っていました。
ワタシにしては、大変珍しいというかほぼ初体験みたいなもんで、
説明してもらいながらみんなでワイワイと楽しく歩くことが出来ました

どんな道かというと、
和銅の道ハイキングコース地図

旧上野市時代、市役所の健康福祉部健康推進課が中心となって
 「健康21事業」の一環として【健康の道コース ウォーキングマップ】が作成されました。
*①「和銅の道」はいくつかのコースがあるその中の一つです。
 和銅4年(711年)、藤原京からの平城遷都に伴い、
 東海道への官用の通信連絡のため現在の京都府加茂から
 笠置、島ケ原、上野へと通じる道のこと。

*②伊賀市になって「伊賀上野観光協会HPの『和銅の道』島ケ原編」の説明では---
 ≪和銅三年(710)、藤原京から平城遷都に伴い、東海道に対する官用の通信連絡のため、
 岡田駅(今の京都府相楽郡加茂町舟屋あたり)から、笠置町、南山城村押原を経て
 島ヶ原奥村、大道、中矢、伊賀市西山、新家駅(にいのみのうまや)(今の伊賀市東高倉字官者付近)に至る道路が開設され、
 「和銅の道」と称される。≫
こちらはちょっと長い行程です。

※参考:「古代の道について」(asahi-netより)

上記マップの中の北西部分(左端)のコースを歩きましたが、
ここは「お斎峠から多羅尾」「諏訪・音羽方面」「信楽方面」へ行くときに
よく通る道(🚙)で、まさかここを歩いて通るなんてことは想定外でした。
ただよく見る看板があり、これってこんなことが書いてあったのね…とビックリ。
地味な道だけど歩けばなかなか面白いし、歴史ある道だということがよくわかりました。

そんな様子をボチボチと綴ります。
今日は、マップのみ(笑)。

ではまた
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