柘植浪漫を追っかけて、「都美恵神社」「雨龍神社跡」「斎宮芝跡」へ

2022-05-17 15:44:06 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
コロナ禍で3年ぶりに開催されたという「柘植の郷を巡るウォークイベント」(5/8開催)。
参加して、歴史や文化・鉄道の事などいっぱい知ることが出来ました。
各所周っても時間に限りがあるので、この日は10ヶ所ほど。
ゆっくり4時間ほどかけて楽しく歩いていましたが、まだまだそんなもんではない!
ということが、下記の資料を読んでいるとわかりますし、
実際現地研修へ行っても頭に入りきらないくらいのお話がごろごろあります。

「柘植の昔ばなし」(柘植地区まちづくり協議会教育文化部会編集)には、
 「柘植地区市民センター」にて販売(@1,000/限定品)
「柘植の歴史年表」が載っていて、古代から明治頃までの様子がわかります。


かく歴史は古く、見どころいっぱいなのですが…
1~2年ほど前に何故か、
俄か『倭姫命』の追っかけをしていたことがあります。(過去ログより)
「東大和・西三重観光冊子」を見たことがきっかけで、
「伊賀の『元伊勢伝説地』」を知りたいとの思いで、
深くも知らず出掛けけていたものです。

2021/1/19の都美恵神社」訪問記

下の写真は、ごく最近の様子から
 
「都美恵神社全景」と「拝殿」、

 
「神宮遥拝所」と参道から「旧大和街道」を望む。

そして、2021/1/20の史蹟:雨龍(ウリュウ)神社跡です。

柘植地区にも『斎王群行』が通り、
選ばれし斎王たちの『頓宮(トングウ=宿泊所)』があったとのこと。
その場所が「斎宮芝(サイカシバ)跡」として今も残っているとのことです、
この場所は流石に地図にも載っていないのでさっぱりわかりません。
今回(2022/5/14)、嬉しいことに教えていただける機会に恵まれたので、
忘れないうちに…

  
柘植地区の「浄化センター(瓦屋根デス)があります、そこの前を通って
  
「柘植川/白橋」を渡る、ここは上村地区になります。
 
田園風景を眺めつつ、振り返ると素晴らしい霊山の姿。
午後になってやっと晴れてきたので嬉しかった

いよいよ、着きました…

  

では、配布資料を参考に~~
斎宮芝跡】は、伊賀市柘植地区に残る斎王が伊勢神宮に向かう時の宿泊所
「斎王」とは国の安全と平和を祈願するため、京の都から伊勢神宮に派遣され、
天皇の名代として神に仕えた人のことで、「斎王」には、皇女や皇族の未婚の女性から選ばれました。
「斎王制度」は、天武2年(674)、壬申(ジンシン)の乱に勝利した(大海人皇子=)天武天皇が、
勝利を祈願した天照大神(アマテラスオオミカミ)に感謝し、大来皇女(オオクノヒメミコ)を神に仕える御杖代(ミツエシロ)として
伊勢に遣わしたことに始まります。

「斎王」に選ばれると、都で2年間精進禊(ミソギ)をし、3年目に伊勢の斎宮に向けて5泊6日の旅をします。
この斎宮芝平安京遷都(794年)から鈴鹿峠開通(886年)までの92年間、
斎王群行の重要な役割を果たしていました。
その間、「九人の斎王」が任にあたったとあり、一人が約十年務めたことになります。

京の都での「別れのお櫛」の後、斎王群行の3日目、勢多頓宮、甲賀頓宮の宿泊をへて、
伊賀に入り柘植で300名を越える群行を迎えました。
その道中で泊まられる所を、「頓宮(トングウ)」といいます。
群行の都度、仮宮として設けられました。
 
柘植川と倉部川の合流地点近くに古来より「斎宮芝」というこの場所が頓宮場所とされています。
看板にはこの斎宮芝で宿泊した道程は赤く描かれています。
役目を果たした斎宮の復路は全て②の道で一志から西に向かい青山地区を通り、
大和地区を経て山城国岡田賀茂(木津川)などで禊を済ませてから京に帰ったそうです。

という、選ばれた人とはいえ、華やかそうに見えても、
ちょっと悲哀のこもった群行ではなかったのかと勝手な想像をしてしまいます…

参考までに、柘植川倉部川です。

ではまた

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「(略)柘植の郷ウォーキング」最終回、JR関西線→伊賀鉄道を乗り継いで「ただいま」

2022-05-14 12:00:57 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
 (再掲)
参加者が「JR柘植駅」に三々五々到着。
途中、いく人かの方は「徳永寺」さんへ「如来絵の絵解き」のお話を聞きに行かれたので、
若干人数は少なくなっていますが、語り部さんもスタッフさんも最後まで同行していただきました。
到着次第解散!ということだったので、きちんとご挨拶できなかったことが心残り…
この場で「ありがとう、お世話になりました。
良い天気に恵まれたのは、み~んなの心がけのおかげ、さま」。

さて、「JR関西線」で帰るのはワタシ一人。
ちと寂しいことです、「JR関西本線利用促進と電化を進める会」主催だったから、
鉄道の利用者さんがもっといらっしゃるのかな?と思ったので…

ワタシは14時42分発の加茂行きを待ちます。
「柘植駅の陸橋」、遠い昔列車から見ていた風景と変わっていない気がします。


ホームの海抜243m(800尺)」ですって、


「亀山方面」「加茂方面」「草津方面」から列車をむかえ、「柘植駅ホーム」は賑やかに…
 
いつの間にやら、3つのホームにそれぞれ列車が鎮座。
ワタシの乗る列車もそこに停まっているので気になりますが、
とりあえず「関西線上・下列車」&「草津線電車」の揃い踏み📷。

余談、
アホやなぁと笑わないでいただきたいのですが、
「JR草津線」って、柘植駅折り返しだったんですね、
ちょっと昔、勇んで草津線の忍者電車を動画で撮ろうと思ったら、
「あれっ、そっちへ行くのか?
来た方向に戻るとは知らなかったという、悲しい思いをしたことがあるので…
調べてみたら、
≪草津線は滋賀県の草津駅から三重県の柘植(つげ)駅までの路線で、
 基本的には線内折り返しの普通電車が走っている。
 早朝と夕方以降に1日数本、京都駅から琵琶湖線(東海道本線)を通って草津線に入る電車もある。
 JRでは京都駅から三重県内へ直通するのは京都発柘植行きのみ≫だそうで…
なかなかレアな路線のようなので、早寝早起き出来た日に乗ってみたいものです。

定刻に「加茂行き」発車、「伊賀上野駅」に着いて、
一旦「JR伊賀上野駅」を出る、改めて「伊賀鉄道」の切符購入!
鉄道運営会社が違うとこういう手間がかかる、ということを勉強。
だから「ICカード」や「〇〇アプリ」があると便利ですよ!ということなのでしょうか

「伊賀上野駅の陸橋」と「忍者電車」、キリッとした目力に元気をもらう(笑)。
「伊賀鉄道:伊賀上野駅」発、15時21分。
  

車内で一日を振り返り、手荷物棚の忍者にホッコリ、帰りもやっぱり260円!(当たり前ですが)
 

「上野市駅構内」でNINJAロッカー、外で「苦無(クナイ)!」と「ポケモンマンホール
  

再びの余談、
構内のロッカーは、旅行(or 帰省)者が利用するにはちょっと不便かなぁ
何とかならないかなぁ と…
例えば、高速バス等で東京&名古屋方面や大阪方面から来たとして、
市内見物や買い物などしたい時、一々「駅構内」に入るのはツライなぁと、
それならいっそ、ハイトピアのビル内にもロッカーがあればいいのに…というささやかな声、
聞こえてくるんですよねぇ、、、

最後に「苦無設置記事」
 2022/5/13付/中日新聞

ほんと、楽しいウォーキングでした、
チョコッと「公共交通機関」とやらも利用してみて、
便利なのかどうなのか、というよりも(個人的感想なのですが)
たまには楽しんで乗ってみるのもいろんな発見があっていいなぁ、と。
急ぐ旅でなければ、「ローカル線deのんびり~」もいいかも

ではまた
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「(略)柘植の郷ウォーキング」その5 余野公園でいばら餅、そして風の森、お疲れ様

2022-05-13 15:08:58 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
4グループに分かれて、それぞれのグループに
「語り部」さん、イベントスタッフの方が2・3人付いて一緒に歩いてくれます。
時々遅れそうになると、まとまって歩きましょう…と言われつつ、
ついあれも見たいコレも撮りたいと、いつも後を追っかけてスミマセン
(きっと迷惑かけてたんだろうなぁ。)

「横光利一文学碑」を出て、田植えが終わった田んぼも多く、
目に優しい景色ばかり、🚙もたくさん走るわけでもないし、
「余野公園」手前で、ちょっと県道4号線(草津-伊賀線)に出て
 
「草津線」線路を上から見て、ツツジ花盛りの裏には「D51蒸気機関車」(あるんです、見えないけど)。
実はこの路線、乗ったことがないのです
「京都まで近いんですよ、是非乗ってみて、便利ですよ」って、言われました。
伊賀上野の小さな城下町に慣れているので、「京都」の町並みに苦手意識があるんですね、
柘植駅で乗り換えて、いつか京都まで乗って見ようかなと(笑)。

やっと!!です、いろいろ名所旧跡など教えていただきつつ、歩いてきました、
ここで半分。
*⑨「余野公園」
ワタシの「ウォーキング記録/午前の部」

約6.4km、10,300歩数、約2時間25分でした…
ウォーキング資料では『歩程約8km』とありましたが、はて後半何キロ歩くのでしょう~~

前置きが長くなりましたが、余野公園で「無事に着きました」という報告をすると、
ご褒美がいただけます(笑)、
 
手作り「いばら餅」、新聞記事によると「サルトリイバラの葉」で包まれているらしいです。
そしてサンガリアの「伊賀の天然水」

簡単に🍙と「いばら餅」でお腹を満たして、公園でツツジ楽しむ
 2022/5/11付中日新聞より
目指すは「モッコ山」(過去ログです)。
早咲きのツツジ、後から咲いてくるツツジが混在していて見応えがあります。
  
新緑も空に映えて清々しい、幼子たちも元気に遊んでいました…
  
途中、「モッコ山」の頂上で、
熟年男性たちのグループに「ツツジのほかに何か見どころはないかな?」って聞かれましたので、
「ずっと端に行けば『D51蒸気機関車』ありますよ、綺麗に手入れされてるし、乗れますよ」と…
集合場所辺りに戻ると、ちゃんと「「記念撮影」されてました

嬉しいですね、紹介した甲斐がありました。

さて、午後の部です。
同じ道を歩くことはほぼなく、県道4号線を左折して「倉部川」沿いに歩きます。

さりげなく置かれた木彫りにホッとし、鈴鹿山脈の山並みと田園風景、
歩いてこその景色に(また)立ち止まることしばしば。
  


「あそこに見えるお寺はなんというお寺ですか?」
「薬師寺ですよ」(今回のコースには入っていないので)
帰宅後調べると、なかなか由緒のあるお寺のようです、また、行かなくちゃ!

「倉部川の風の森橋」を渡ると、
*⑩「風の森社跡」
   
語り部さんに「この森の『祭神』には二つの説がある」
「古代の製鉄所があったのでは?」
「義経も義仲追討時に休んだ」
「社の木を切って『お城』を建てようとしたが、途中で倒壊してしまった」等など、
詳しいお話を伺いました。竹林のなかで爽やかな風が吹くので、
ここは「風の通り道」だと感じながら「柘植の歴史」に触れることができました。

さぁ、いよいよ終着「JR関西線/柘植駅」を目指します、が
東・西・南方面、どこから来てもかなりの「上り坂」です、
最後の最後にしゃべるのもしんどいくらい疲れてきました
  14時15分、到着!
爽やかな天気とそよ吹く冷たい風に救われる気持ちでした。
到着順に解散、お疲れ様でした、みなさんありがとうございました。


私的「ウォーキング記録/午後の部」、約4.05km、6,000歩数、約1時間12分
笑っちゃいました、どこが歩程8kmやねん!って…「完歩」できたことに
歴史に触れつつ、一人ではゼッタイに行けない場所へ行けたことに

最後に「柘植駅~上野市駅(忍者市駅)」、
帰りはスムーズとは行きませんが、それはそれで楽しかった列車旅。
あと1回、つづきます。
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「(略)柘植の郷ウォーキング」その4、徳永寺で如来絵、横光利一「心のふるさと柘植」

2022-05-12 14:26:00 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
何せ、盛りだくさんコースなのです。(ウォーキング予定距離は8kmと書かれていますが…???)
3回書いてもまだ「昼食休憩」になりません
どんだけ「見どころ」あるねん…柘植!

実は、柘植駅を出発する時から某新聞記者さんも一緒に歩いておられ、
5/9の朝刊は休刊、翌5/10付けの朝刊にこのイベントの事が掲載されており、
幾人かの方がインタビューも受けられたようですので、ご参考までに…
 「煉瓦塀見学」の様子

さて、「万寿寺」を後にして、コノ道を歩いていて
  (再掲)
だんだん方向がわからなくなるワタシ
「今、どこを歩いているんですか?」
「この道は『国道163号線』に出る道ですよ…」モヤ モヤ モヤ モヤ
「次は、確か『徳永寺』ですよねぇ…」
 見覚えのある標識!
「わかりました! 国道と旧街道の交わる『辻』ですね…」

*⑦「徳永寺」
 徳永寺全景
柘植駅前の案内板説明より
 ≪柘植駅から (1.5km)
  本能寺の変(1582年)の直後、徳川家康が三河へ戻る伊賀越えの際に休息した寺。
  後年、その恩賞として、周りの山林田畠が下賜され、屋根瓦などに葵の紋を使用することが許された。≫

静永住職にお話を伺います、
ここでは丁度「掛け軸:善光寺如来絵伝」※1のお披露目もあってお忙しそうでした。
ウォークイベント参加者は、次の予定もあるので、ということで「山門」の中でお話を伺いました。
 
藤堂藩主代々の寄進状』が現存していることや
家康の命日に法要を営むことを記した書付状』など、また
「江戸時代の終焉と共に『徳川憎し』の雰囲気があったのか?、
明治維新以降の150年ほど、家康の法要は忘れ去られた存在になっていた」そうですが、
近年再開されたことなど伺いました。※2中日過去記事2021/6/6
※1:中日新聞「善光寺如来絵伝」絵解き記事
 2022/5/9付け

 「徳永寺本堂」
何日間もお堂に籠って描かれたそうです。
当日「徳永寺」より頂いた資料、
その記事 「善光寺如来絵:一幅目、二幅目」
 
お披露目は5/9で終了しています、あしからず。

「徳永寺」を後にし、ぼちぼち空腹感が増してきますが、もうひと踏ん張り!
*⑧「横光利一文学碑」

柘植駅前案内板より
 ≪彼がこよなく愛した丘に横光利一文学碑がある≫

この丘から「霊山」と「柘植の町並み」が綺麗に見えました…


参考①:「伊賀ぶらり旅」より

余談になりますが、
 
上野高校正門から明治校舎、
 
参考②:上野高校正門横の「横光利一碑」より
 ≪横光利一(1898~1947)
  大正末期に発表した『日輪』や『頭ならびに腹』などによって川端康成らと共に「新感覚派」と よばれた。
  その後、『機械』『上海』『紋章』『家族会議』などを発表して昭和初期の文壇を代表する作家となったが
  長編『旅愁』が未完のまま病没した。
  1911(明治4)年、当時の三重県第三中学校 (現・上野高等学校)に入学し、卒業までの5年間この校舎で学んだ。
  その青春の思い出や初恋の体験を小説『雪解』(昭和8年・20年)に描いている。
  幼年時代、大分県出身で鉄道技師の父について 転居を重ね、小学校時代の大半を母の郷里の柘植 (現・伊賀町)で過ごした
  中学時代と合わせて 約10年間過ごした伊賀について「私の故郷である」 と書いている。
  揮毫は岸宏子氏。上野市在住の作家で 『若き日の芭蕉』など作品多数。父が横光の 従兄弟であり、
  「ふるさと伊賀上野の横光利一」 などで少年利一の横顔を伝えている。≫

柘植を訪れていろんなお話を聞くにつれ、
横光利一の故郷は「帰りたくても帰れない(芭蕉もそうだったように)、柘植!」
だったのではないでしょうか。
ここにいると、幼い頃の思い出は絶対忘れないし、旧制第三中学時代の初恋も含めて、
一番濃厚な時を過ごしたのが柘植であり上野だったかもしれないと…そんな気がしてきました。


さぁ、ここからが長かったです、「余野公園」まで何キロ?
(google地図によれば、約2.6km 30分
確かに、ちょっとしんどかったかな、口数が減ってきたような気がします。
でもツツジが満開!と前日のニュースで伝えられていたので、楽しみです。

もう少し、つづく
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「(略)柘植の郷ウォーキング」その3、芭蕉公園&福地城跡、万寿寺

2022-05-11 16:17:36 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
*④名阪国道下り線SSの道の駅 いがで休憩を終え、
名阪国道のすぐ傍を歩き、高架をくぐったところから再開します。
今の時期「山藤」が巨大に伸びつつ、藤色の花を咲かせているのはよく見ます。

目の前のコレ、📷で撮って調べると…
桐の花」でした、藤の花は下向きですが、「桐」はしっかり斜め上向きにキリっと咲きます。
かなりの大木で近くにも寄れず遠目で見る限り、
蔓状にはなっていないので、区別はできると思います。
  
(個人的に道草or寄り道が多いので必ずグループの中の最後尾になってしまいます
 💦って走るので余計疲れる、アホやなぁと思います けど)
今まで歩いていた道は「名阪国道」の側道になり、
目の前の丘陵地へ右折すると、本格的な山道っぽくなります。
  
ほんの少し「山道=崖道」ですが階段付きなので大丈夫です。
以前来た時は「福地城跡」の正面から上ったので、
こんな裏道?があるとは知らなかったです。
少し登って、見上げた「石垣」、確かに見覚えがあります!

*⑤「芭蕉公園&福地城跡」
ここで柘植駅前の案内看板より
 ≪芭蕉公園 (柘植駅から 2.4km ) 俳聖松尾芭蕉を顕彰し、福地城址に造られた公園
  福地城址は中世城館の形をよく残しており県史跡に指定。1㎞西方には芭蕉翁誕生宅吐がある。≫
正面に「芭蕉句碑『古さとや 臍の緒に泣く としの暮』」


近くに「横光利一『考へる葦』の中に」の抜粋文
蛙がいっぱいいると思っていた井戸と園内
  

城跡正面の石碑と説明文
 

ウォーキング当日(5/8)配布資料より
≪中世の土豪柘植三方(サンポウ) (福地・北村・日置の一族)のなかの福地氏の城跡で、
 丘陵頂部の郭群(カクグン) (詰の城) と丘陵裾(フモト)の(カク)(平素の館) からなる。
 中世の典型的な掻揚(カキアゲ)式で石垣の表門跡土塁がほぼ残っている。
 天正伊賀の乱の時、福地伊予守宗隆は、織田信長に味方して信長没後伊賀を追われた
 明治26年 (1893) は芭蕉翁200回忌にあたり、翁の父の叔父から8代目に当る松尾宇八郎氏が
 福地伊予の守から譲り受けていた土地を当時の東柘植村に寄贈。
 松尾六家をはじめ村の有志によって「芭蕉翁生誕の碑」と「臍(ホゾ)の句碑」を建立し、
 顕彰行事が行われた。その後、明治43年になって一時荒廃していた福地城跡を公園化して
 「芭蕉公園」と名付けた。≫

城跡から「万寿寺」への道すがら、野の花と広い空に飛行機雲
 

*⑥「万寿寺」
当日配布資料より
万寿寺の本山は永平寺で、上野の広禅寺の末寺、寺の前身は長福寺で、
 宝暦10年 (1760) に万寿寺に改められ、 約240年となる。
 長福寺は福地氏の祈願寺として1200年頃(鎌倉時代)に開山された。
 本尊木造地蔵 菩薩坐像は、この寺の住職了賢房(リョウカンボウ)和尚が
 鎌倉時代を代表する仏師、寛慶・ 忍慶(カンケイ・ニンケイ)親子に両親の追善供養のために
 貞治3年(1364) に作らせた。胎内文書とともに国の重要文化財に指定されている。
 毎年11月17日にしぐれ忌が行われる。≫

山門、花の鬼瓦、境内の「青面金剛像」。
   

万寿寺は「松尾芭蕉の菩提寺」です。
 


では、「徳永寺」へ向かいます……
今日はここまで

※詳しくは…とは、おこがましくて書けませんが、
「伊賀忍者回廊巡り」の時の様子を訪問記録として載せておきます、
2020/7/28訪問「福地城跡」と「萬壽(万寿)寺」

ではまだ続きます

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「(略)柘植の郷ウォーキング」その2、三重県初柘植駅、レンガ塀、積殖の山口

2022-05-10 18:17:58 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
「柘植の郷」を歩いて、その歴史に触れます。

(今回のウォーキングの正式名称は「松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント」ですが、
スミマセン長いので「標題」ちょっと省略させていただきました)

先ず集合場所である「柘植駅」、実は「鉄道遺産」でもあり、
*①三重県内で最初に開業した駅」なのです。

ウォーキング前に説明をして頂きましたが、おおむねこんな感じ
・明治5年 新橋ー横浜間 鉄道走る
・当時、官営は東海道線ルートのみ
・開運拠点の四日市港と東海道線を結ぶためのルートが必要
・東海道線の名古屋へのルートには「木曽三川(サンセン)」の鉄橋工事が必要
・草津ルートが優先されるも「加太トンネル掘削」の難工事あり
幾多の難工事を経て(以下「柘植の昔ばなし」(柘植地区まちづくり協議会作成冊子)より)
・明治22/12/5 草津ー三雲間
明治23/2/19 三雲ー柘植間(=草津線全通)
・明治23/12/25 柘植ー四日市間
・明治28/11/7 草津ー名古屋間全通
・明治30/1/15 柘植ー上野間 

幼いころ乗っていた蒸気機関車で駆け抜けたその先の「加太トンネル」には、
想像を絶するスゴイ歴史が刻まれていたわけです。
 (再掲)
柘植の鉄道遺産
 ≪(前略)加太トンネルに使われたのと同じレンガフランス積みのホームや油庫(アブラコ)として現存。
  また俗称「マンボ」と呼ばれている線路下にある隧道や加太トンネルの旧排煙塔、
  大和街道沿いの旧柘植医院の塀などにも残っている※。≫

そして、
 ≪鉄道唱歌(関西・参宮・南海篇)→「汽笛一声 新橋を~~」のメロディーでどうぞ
  伊賀焼いずる佐那具の地 芭蕉うまれし柘植の駅
 線路左にわかるれば 迷わぬ道は草津まで  ≫

では、「柘植駅」を出発して、方角的には「名阪国道」もしくは「霊山」を目指す感じで進みます。
その途中に、
 「煉瓦塀」の名残と池

「旧大和街道」に入ると、いかにも街道らしい雰囲気が残る静かな通り。
(この道は🚙で通る場合「東方面への一方通行」です)
🚙で来ると行き過ぎてしまってじっくり見ることのできなかった「煉瓦塀」に出会う。
 
*②「加太トンネルの煉瓦」と同じ窯で焼かれた煉瓦です。
不良品ではあるけれど、それを上手に生かした昔の人たちの知恵と工夫をじっくり見せていただきました。
ここは、「旧柘植医院」前
 

この「刻印」は、教えてもらわないと気付くことが出来ません、
ほんとに小さな「刻印」ですが、「関西鉄道」の歴史を刻んだ証拠でもあるわけです。
 

さて、旧大和街道を途中で南へ曲がり、民家の中の細い道を進んで行き、
次なる目的地「積殖の山口?」を目指します。
この時、ワタシは何も理解していなかった…
  
道順を覚えるために撮った「橋」ですが、さて「平〇橋」としか読めない…

「あそこに見える山は何山ですか?」
 
旗山(ハタヤマ)』ですって、
そういえば、柘植駅前の看板には
 ≪標高649m> 山頂まで(柘植駅から)徒歩60分。油日岳へ続く稜線上にある北打山からの眺めは最高。
大阪のコメ相場をで伝えていたという≫
(さて、ワタシに登れるのだろうか??)

そのまま進むと三差路の「広場」のようなところに出ます、
*③積殖の山口】(ツミエ or ツムエ) 説明版、
壬申の乱 (672年)の際、大海人皇子(オオアマノオウジ後の天武天皇)が息子・高市皇子(タケチミコ)と逢った場所。
 日本書紀に記載されており、積殖は柘植を指す古い表記

内容を転記しておきます 
 ≪壬申の乱において、吉野で挙兵した大海人皇子は
  吉野から兵力を集めながら伊賀国を縦断し伊勢美濃へと進軍した。
  その様子を日本書紀は「会明(アケボノ)に莿萩野(タラノ・現在の荒木※1)に至る。
  暫く駕(ミユキ)を停(トド)めて進食(ミオシ)す。積殖(ツミエ)の山口に到りて、
  高市皇子鹿深(カフカ※2)山より越えて以て遇(マミア)ふへり」 と記している。
  「積殖の山口」の「積殖」とは古来から 近江・伊勢の交通の要所であった
  伊賀市柘植町のことであり、「積殖の山口」とはこの地にあたるといわれている。
    伊賀市教育委員会 ≫
 ※1「莿萩野(タラノ)とはどこですか?」と尋ねた方がおられ、
  「おそらく、現在の『荒木』のことだと思われます」とのことでした。)
 ※2「鹿深(カフカ)」は甲賀の古語、とのこと。

余野公園から奥余野公園への道には「壬申の乱古戦場」(you tube)もあります、
歴史ドラマを見ている気分になってきます、凄いな柘植!

急に視界が広がり目の前に「名阪国道の遮音壁」?
ここまで来たか! という驚きです(笑)。
「名阪国道」をくぐります、歩いて通るのは流石に初体験です。
  

どこかで見たことのあるような建物…
俳聖殿」を思い起こしたのはワタシだけか?
いや、「忍者」もいました。
 

「道の駅 いが」到着、いわゆるトイレ休憩ですね。
ここは「名阪国道下り伊賀SS」になります。
 
おっ、「赤福」、安場さんちの🍓、なんだか急に親しみが湧いてきました、
しかし、ここでお土産を買うわけにも行かず、日を改めて来ようと思います(笑)。
さぁここからスリルある道を行きます、
 
すぐ横で「名阪国道を走る🚙🚛」ビュンビュン飛ばしてます。
まさかこの道を歩けるの?という驚きと、この次はどこだっけ?

名阪国道の高架橋をくぐり「芭蕉公園&福地城跡」らしい、、、

スリリング道は、まだまだつづく
(2022/5/11 順路にミスあり修正しました)
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「松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント」その1、JR柘植駅集合。

2022-05-09 15:37:06 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
「標題」が長いのですが、このイベントの主催は、
JR関西線利用促進と電化を進める会」と「伊賀市商工会」、
そして「後援・伊賀市」。

イベントの集合及び出発場所はJR柘植駅です。
関西線の利用促進のためのイベントなので、
「公共交通機関」を利用して行くことにしました。もちろん「伊賀鉄道」も含めて…

正直、「電車・JR利用」なんて〇十年ぶりのことです。
もちろん、幼い頃は蒸気機関車に乗って亀山の親せき宅へ。
加太(カブト)・関(セキ)の間に、二つトンネルがあった記憶、
トンネルに差し掛かると「窓閉めて~」って大騒ぎしていたような(笑)。
単線なので、どこかで列車がスイッチバックしてた記憶もあります。
(幼いころの記憶なので不確かです、大人になったらもっぱら「名阪国道」利用なので)

今では遥かに近代的になっているので、切符の自販機も初めてなら、
「伊賀鉄道」と「JR関西線」の連絡はどうなん?とか、
ハラハラドキドキの珍道中「ワタシの鉄道大人旅」の始まりです…

事前に調べた結果、「500円玉」さえ握りしめて行けば「柘植駅まで行ける!」。
家を出るときからワタシの手のひらには「500円玉」、汗かいてます💦

ひとつひとつ、駅員さんなり(電車の)運転手さんに教えてもらわないとわかりません、
(いかに、利用促進していないか!ということの証明です
「切符券売機」に(JR関西線)柘植駅の表示はない! 「伊賀鉄道区間」しか買えない
「伊賀上野」まで260円、そこでおつり240円をまた握りしめて電車に乗ります。
 
忍者のお出迎え、忍者電車が並んでたのでご挨拶に📷
「枕木」を見ると、何やらプレートが、噂の「枕木オーナー」かな。
 
「伊賀上野行き」来ました、電車は8時44分発。
乗り込みますが動き出して、見慣れた風景の中を走っているのですが、
目線が高いのでなんか嬉しい!(まだまだ子ども気分デス)
途中、車内で係員の方に「関西線乗りたいんですけど『切符はどこで?』」
「ホーム下りたら10m先に券売機ありますが、時間が無ければ下車駅でお支払いください」とのこと。
新居(ニイ)駅」では、

ネーミングライツ(命名権)」による『伊賀を守る上野遊水池駅』、なるほどね。
そう、伊賀を守り、大阪も守ってるからね…なんちゃって(笑)。
「伊賀上野駅」、8時51分着
JR関西線・亀山行き」は、8時54分発。
なので取り急ぎ、切符は買わずに、久々の「陸橋」を渡り2番線へ。

寂しき「一両」、日曜日でもあるので、駅を進むにつれ座席はほぼ満席
さて柘植駅」9時11分着、実にスムーズだったので、
上野市駅を出てから20数分で着きました、早くて 意外と便利

相変わらず240円を握りしめたまま、階段の上を見れば

陸橋には「柘植カルタ」掲示されています。(過去ログ「柘植駅のカルタ」編

改札を出るとき、駅員さんはおらず、
「箱の中へ『切符とお金を入れてください』って、(240円投入)
お客様を信用してくれてるんだと思うと当たり前ですけど嬉しい。
 ※平日は「駅員さん」いらっしゃるようです。
もちろんICカードが使えたり、スマホのアプリが使えるとか、
いろいろあるんですけど、まだ頭の中が追い付いていなくて
「ICカード」持ってると便利だと、教えられましたが、
今しばらく、ワタシは「現金派」でいいかな(笑)。

集合場所の「柘植駅」前

9時30分の集合時間には余裕!
ここで気になる「とある看板」を撮りに行きます。
  
「柘植地区自治協」のみなさんの「柘植の郷 案内板」。
ここに紹介されている場所を巡る旅です。

受付を済ませ頂いた資料、地図を見るとなかなかの長距離コースです、
最後まで頑張れるかどうか? ちょっと心配もあるけど、
日頃のウォーキングの成果を己に期待しようと思います。
一人では絶対に歩けないコースだし、案内の「語り部」さんもスタッフさんも多く、
安心して迷わず歩けるだろうと期待に心も弾むウォーキング日和
吹く風は少し涼しめ、半そでだったら寒いかも、そんな天候のなか、、、
 
では、いよいよ「柘植の郷ウォーキング」(名前が長いのでちょっと省略)に出発いたします

ではつづく
コメント
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