伊賀の「自然災害伝承碑」その3、小田:平井神社「避水徒民碑」(ヒスイシミンノヒ)へ

2021-06-14 00:39:33 | 伊賀自然災害伝承地
   
「平井天神宮」と「平井神社」二つの鳥居、
そしてお出迎えのサツキ(珍しい八重っぽいのも咲いています)。
その鳥居と鳥居の間に可愛い花がいっぱいの嬉しい「花手水」
  心洗われる手水舎です

(今回は寄るところが多く🚙で行きましたので、
駐車場は平井神社の裏手、「ひかり保育園」横の駐車場に止めさせていただく、
そこから、ちょこちょこッと歩くと神社の横に出ます、
神社の案内もありますので、ぜひどうぞ…)

一旦、表に回って鳥居から進んで上の写真、
そして、石段を上るその途中左側に
 【避水徒民の碑】(ヒスイシミンノヒ)はあります。

彫られた文字は読めないので、この碑の横に解説碑がたっています、
そちらを読むと、水に悩まされ続けた人々の歴史が刻まれています…


『わが小田地区は、伊賀の北西部で長田川と柘植 服部川が
合流する位置にある
ため、古くから水による被害に
悩まされ続けてきた。
 安政地震により地盤沈下してからは、さらに河川の氾濫
による水害が度重なり
、ついに明治三年(一八七〇)の
午年の水害で多くの田畑が流失、水死者五人、潰家八五戸
という大被害を受けた。
 この時 居住地をそっくり高台に移す計画がなされ
移居世話係となった村田順造氏の卓越した指導のもと
地区民は一致協力して同六年四月より工事をはじめ、
同十年十月に完了した。
 この遊水移居(ヒスイイキョ)事業を成し遂げることに努力した人々の
功績を後世に残すため、同十二年二月にこの碑が建てられた。』 表碑

『明治十二年二月馬苦労町※地内に建立
 大正十年五月 平井神社境内に移築
 平成十年十二月現在地に修復移築
          小田町自治会
      施工 株式会社石の中原』 裏側

※馬苦労町(バクロウチョウ)=現在の鍵屋の辻辺りといわれる
参考資料(リンクしています)

その「鍵屋の辻」にある浸水の記録 
 撮ってきました…
昭和時代の記録ですが、地震による地盤沈下を起こした所に、
度重なる浸水、、、
現在は「遊水池」もでき、来年度には「川上ダム」もできます、
二度と怖い目に合わないことを願うばかりです

「芭蕉野分して 盥に雨を 聞く夜かな」  芭蕉
※台風の風が激しく庭の芭蕉の葉を吹き荒らしている夜、雨が打ちつけている。
家の中では雨漏りがしていて盥(たらい)に落ちる雨の音を聞く、そんな夜であるなあ※

芭蕉は風流を詠んでいますが、
伊賀では野分(=台風)はとても恐ろしいものです、
それを忘れないための「自然災害伝承碑」かもしれません。
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伊賀の「自然災害伝承碑」その2、島ケ原:正月堂・野間:慶明寺(ノマケイミョウジ)へ

2021-06-13 09:41:09 | 伊賀自然災害伝承地
せっかく登録された国土地理院の「自然災害伝承碑(伊賀版)」なので、
6/12の午後、確認のため走りました(笑)🚙

島ケ原・正月堂前【山津波災害記念碑】(ヤマツナミサイガイキネンヒ)
 正月堂正面にサツキと共に

 
伊勢湾台風より6年も前(昭和28年/1953年/8/14)に起きた大豪雨により
山崩れや土石流が各所で発生し、土砂が濁流のごとく奔流し、
一瞬にして多数の人命を奪った…
その記憶を残すための「災害伝承碑」です。

 
観菩提寺正月堂の山門と本堂(国重文)、
ここにおられる『観菩提寺正月堂御本尊「木造十一面観音立像」』は、
33年に一度御開帳されています。
次は、多分2048年だと思います。
(前回の御開帳時から換算すると…)
 ぶんと通信より

 広報いがしより

島ケ原から西山※に抜け、JR関西線を跨いで北上。
旧上野市西山地区の土石流について
≪三重県上野市では、1953年8 月15日午前0 時を過ぎた頃から激しい豪雨となり、
1 時間最大雨量81mm、総雨量287mm に達した(上野市史・自然編,2004)。
この豪雨により,木津川断層帯の急斜面地帯である上野市西山で土石流が頻発し、
死者・行方不明14名の被害を被った、
島ヶ原村史(1983)によれば、15名の死者を出している。≫とのことです。
まさに、その一帯を通りましたが、ワタシが生まれる前の事で(ハハのお腹の中にはいたけれど)、
こうやって話を聞いたり、記録を読むことでしか知ることのできない
災害の歴史がそこここにある…

さて、次なる「自然災害伝承碑」を訪ねたのは、
野間・慶明寺【安政伊賀上野地震供養塔】(アンセイイガウエノジシンクヨウトウ)
慶明寺さんの駐車場に車を止め、
  慶明寺と六地蔵様

はて?石碑はどこにあるものかとgoogleさんの航空写真で探す…
(新聞記事ではたしか「墓地」にあるとのこと)
google navi の仰せの通り歩いて進むと、、、
 説明版がありました…


googleさんのテキストコピーによると…

『市指定有形文化財(歴史資料)
安政伊賀上野地震供養塔 (伊賀市野間)
 この塔は、嘉永七(一八五四)年六月十四日に発生した伊賀上野地震
における野間村の横死者を埋葬した場所に、安政七(一八六〇)年三月
に七回忌追善法要として建てられた供養塔です。
 当時野間村には浄土宗の空照山慶明寺と、天台真盛宗の平楽山西雲
寺の二か寺があり、慶明寺の檀徒二十六人と西雲寺の檀徒九人が横死
し、合わせて三十五人がこの地に埋葬されました。
 二段積みの花崗岩製の基礎石(高さ五十二㎝)の上に、三層の台石(計
六十四㎝)を重ねていて、三層のうち、下二層は四角柱の石材を組み合
わせていますが、最上層は一石積みとなっています。その上に高さ八十
一cmの石碑を載せていて、総高は百九十七㎝です。
 石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と陰刻され、他の三面には横死者三
十五人の戒名が陰刻されています。三層の台石のうち、最上段のものに
は、三面にわたって建碑の由緒が刻まれています。
 安政伊賀上野地震の供養塔
として「法華経塔」(服部町)が ありますが、
本供養塔も地震による災害を今に伝える貴重 な資料です。』

『建碑の由緒
(南面) 嘉永七寅 六月十四日の夜
大地震に家潰れ 当色に死者三十五人
此処にこれを葬
(西面) ことし七回忌に当れば 横死菩提の
為にこれを建て 追善を営むもの也
(北面) 安政七庚申三月発起 善三郎
世話人 周吉 住僧 戴誉
(平成二十四年三月二十八日指定) 伊賀市教育委員会』

 
≪供養塔そのものは、江戸末期/1860年(安政7)に造られ、
2段積みの花崗岩製の基礎石の上に、3層の台石(計64㎝)を重ねている。
下2層は四角柱の石材を組み合わせている≫(文化遺産オンラインHPより)

※安政伊賀上野地震:参考資料として
「blog:三重県伊賀地域の情景」
をリンクさせていただきます

では、「避水徒民碑」(小田・平井神社)へつづく
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伊賀の「自然災害伝承碑」その1、「法華経塔」(服部町:ホケキョウトウ)

2021-06-12 12:17:27 | 伊賀自然災害伝承地
2021/6/7の朝刊の記事から

三重版でも伊賀版でもないところに掲載されていたので(何のページだったかは忘れた )、
江戸時代からちゃんと記録って残してあるもんだぁ~と感心して読んでいたのです。

しかも、今回は「国土地理院の自然災害伝承碑」に登録されたとか…


 (中日新聞2021/6/12付)
身近で見ていたのですが、意外とスッと通り過ぎていた自分、反省。
過去の写真から思い出せるものを引っ張ってみました。

法華経塔】(くれは水辺公園・春の広場付近)
 

  
矢谷川という小さな川の両岸が水辺公園になっており、
「春の広場」東屋があるその傍に供養塔はあります。
昔は「服部川河川敷にあった」と家人は記憶しているらしい…
それがここに移設されたそうな。

  
「法華経塔」表と裏、追悼記念碑など

またいずれ、他の記念碑も訪れることにします。

追記(you tube CBCTV)
【災とSeeing3 伊賀上野城(三重県伊賀市)】

『忍者の里として知られる三重県伊賀市。
中心部の高台に立つ伊賀上野城は、白く美しい三層の天守閣から「白鳳城」とも呼ばれる。
築城の名手として知られる藤堂高虎が本丸西に築いた「高石垣」が有名で、
大阪城と日本一、二を競う高さ約30mを誇る。
「実はこの城内や城下町は、1854年に起きた『伊賀上野地震』で大きな被害を受けたんです」。
今回案内役を務めてくれた名古屋大減災連携研究センター特任准教授の菅沼淳さん(54)が教えてくれた。』

今度から公園へお散歩に行ったら、石垣をよく見てみよう~~っと、
江戸時代初期なのか幕末なのか…わかるかも、です。

再追記(2021/6/18)
いろいろ探してたら
 服部川河原(にあった)法華経塔の写真
出てきました、どこやろねぇ?

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