「初夏の栴檀(センダン)」、花は満開!

2022-05-31 22:31:56 | 花や風景など
冬の栴檀、阿山小にて」、
初めて見た「栴檀」は「実」のみでした(笑)。
「実」になる前には「花が咲く!」はず…
咲くのはきっと「今」。
その兆候を「くれは水辺公園」で見つけました!
 
ほぅ、こういう花だったのね、この花を目に焼き付け…
阿山小の校庭」へ🚙

行ってビックリ!
青々とした巨樹に薄っすらと「紫の羽衣」。

放課後の運動場の端っこに入らせていただきます、
  

こんな風に花が咲く、栴檀(センダン)、見惚れてました…

栴檀の花の色」=楝色(オウチイロ)というそうです。

 ≪淡く、やや青みがかった紫色。「おうち」はセンダン科センダンの古名で、
 初夏に淡い紫色の花を咲かせることから、この名がついた。
 藤色よりは濃く、菖蒲しょうぶ色に近い。紫が至上であった平安時代の文学作品などにも登場する。
 襲(カサネ)の色目(イロメ)の名でもあり、表は薄い紫、裏は青。≫

なんか納得の色合いです、栴檀おそるべし!
ではまた
(上野公園ニモアルラシイ、マダ見ツケラレナイワタシ、チャレンジシマス)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「平氏発祥の地(忠盛塚)」(津市産品ウブシナ) de 「梛(ナギ)の葉」のご縁。

2022-05-30 13:33:41 | 神社仏閣など
柘植地区ウォーキングに参加したり、研修で歩いた折々、
いろんな話を聞いていると、「平家」もしくは「平氏」の話が出てきます。
その歴史を紐解くほど深くは勉強していないので詳しくは書けません、
が、気になるのは好奇心によるところが大きい。

例えば、芭蕉さんの祖先は「平 宗清(ムネキヨ)」という人であるらしく、
この人物は「清盛の(曾?)祖父、平 正度(マサノリ)」の「次男、貞季の末裔」だとか…
頭の中で家系図を書こうと思っても所詮無理なことは承知。

そこで「平 正度」さんってだれ?
「宗清」さんって?
ネットで検索すれば「平氏の系図」みたいなのはたくさん出てきますが、
自分の目で何か証拠を見てみたい、「好奇心という名のビョウキ」みたいなもんですかね(笑)。

研修時の資料で
「長野峠を越えて、東に15kmの所に『平家発祥の地』がある」と教えられ、
google mapを頼りにしつつ、行きなれた道をどんどん東へ~~
このまま右方面に行けば「かざはやの里」だなぁ、
目の前に「伊勢自動車道」が見えるなぁ、という所まで来ました。
ここは「津市産品地区」、🚥左折すればすぐ、
そこには「平氏発祥伝説地」の案内があります。
  

石碑やら説明版、そして「平氏の系図」。
  
 ≪三重県指定史跡 時代 平安時代 所有者津市
  指定 昭和14年3月25日
 「平氏発祥伝説地
 一般に「忠盛塚(タダモリヅカ)」と呼ばれるこの地は、正式には「平氏発祥伝説地」といいます。
 この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(エナ)を埋めた「胞衣塚」 ともいわれ、
 忠盛が産湯を使ったとされる産湯池も残っています。
 桓武天皇の曾孫高望王(ソウソン タカモチオウ)を祖とする平氏は、初め東国に土着し勢力を張っていました。
 しかし、平将門の乱(939年)や平忠常の乱(1028年)以後、東国は源氏の地盤となり、
 貞盛(サダモリ)の子維衡(コレヒラ)の時に伊勢・伊賀を本拠地とするようになり、
 寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任じられています。
 「平家物語」には、眇め(スガメ)田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(ヘイシ)は素甕(スガメ)なり」とはやし、
 あざけったとあります。 維衡の曾孫正盛は白河法王の信任を得て中央政界に進出し、
 その子忠盛は正四位下但馬守(ショウシイゲタジマノカミ)に進み、武士として最初の昇殿を許され※
 平氏繁栄の基礎をつくりました。
 ところで、伊勢平氏とは維衡系のことで、「尊卑分脈(ソンピブンミャク)」(※日本の初期の系図集)には維衡の孫貞衡と
 その子貞清は安濃津三郎、貞清の子清綱は桑名富津二郎と傍注され、北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
 貞衡の弟正衡(マサヒラ)の流れの正盛・忠盛は、伊勢平氏の中では傍系にあたります(※伊賀平氏ともいわれる)が、
 忠盛の昇殿、清盛の活躍により、伊勢平氏=忠盛と理解されるようになったと考えられます。
 そして、貞衡系の伊勢平氏は、いつしか忠盛・清盛の郎従(ロウジュウ)となり、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。
   津市教育委員会 ≫

伊賀での研修時資料では、
「『平 忠盛』(1096~1153)は、検非違使(ケビイシ:京の平和を守る特殊部隊)や国司(コクシ:現在の知事のようなもの)などでの活躍が認められ、
武家出身者として初めて「院の昇殿」を許された、と。
これは伊賀阿拝郡鞆田(トモダ)村の所領荘園を白河上皇に差し出したことによる」とか。

要するに・・・「父・正盛」が京に役職を得、
「子・忠盛」は「検非違使として『御所』の北側を守り、その功で『昇殿』を許される」。
それは「北面の武士」という名誉ある役職。
(何故か心地よいカッコいい言葉だなぁ…個人的感想です、あしからず)
しかも彼は、和歌や舞、宮廷人としての素養もあり、大きな足跡を残した人らしい…

公園として残されている一角には「伊勢平氏発祥地産品見取図」も。
 なるほど…

周りを見渡せば、のどかな田園風景ですが、その先には「伊勢自動車道」。
 

そして、「忠盛産湯池」と杜若(撮影日2022/5/18)
 

その隣に説明書きのある一本の木を見つけ、
(ナギ)と伊勢平氏」、「梛」の葉っぱ一枚頂きました。
見れば、不思議なことに葉脈が「タテ」、ここに書かれているように、
引っ張ってもちぎれません!=男女の縁が切れない!…らしい。
 
 ≪かって、熊野三山造営奉行であった平重盛(※清盛の長男) 平治元年(1159)に速玉大社社殿落成の記念に、
 ナギを霊力のある木として植えている。 重盛は忠盛の孫にあたる。
 その後、このナギ は大木に育ち御神木となった。
 古くから、この御神木は熊野詣の人々の目をひきつけ、これにあやかろうと、各地に植えられた。
 特に、「権現さん」と「平氏」ゆかりの地にはよく植栽されている。
 ナギは風や海の「凪(なぎ)」に通じると、 航海の安全を願って植えられたり、
 葉の脈が 縦に多くあって、葉の両端を引っ張っても、簡単にはちぎれないので
 男女の縁が切れないようにと願って、この葉をお守りにも用いられた。
 一方、個人庭園でも「モクセイ、モッコク、ナギ、ナンテンに松竹梅」と
 語呂合わせにいわれるようによく植えられてきた。
  平成10年5月21日
   津市大字産品407番地 小林(傅右衛門) 傅一 ≫

梛(なぎ)の木は熊野のご神木」なんですね。
*「熊野大社梛の葉」のこと、
「源頼朝と北条政子も一枚ずつ大切に持っていたと伝えれています。」とのことです。

*「熊野権現

結局、中途半端な訪問記録になりましたが、「芭蕉さん絡みの平氏」のことはまだまだこれから学習するとして、
今日は「」でお別れ…

ではまた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「花」なのに…めしべおしべは「どこ?」ニチニチソウ

2022-05-29 22:35:02 | 花や風景など
やっぱり夏にはこの花がほしいなぁ、と家人。
苗を仕入れて「摘花」して、次に備えます…


切られた花は生かします(笑)、
食卓上で目で楽しむ一品になります。

ところが、じ~っと眺めていて
「この花のめしべやおしべは一体どこに?」
さて、「ガクはどこにあるの?」か。
花の真ん中には「穴」のようなものしか見えなくて


もう、こうなったら「小学生の理科の時間」ですね、
「つぼみ」を一つ、実験材料とさせていただき、ナイフで…
 
「ガク」は筒の下の方にありました!

「おしべとめしべ」はね、筒の中に仲良く納まっていましたよ。
やれ…

ニチニチソウ超マクロ写真を見つけましたよ(見てね)。

ではまた、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

往古川(オモガワ)土手にて「桔梗草(キキョウソウ)」、「藪虱(ヤブジラミ)」って名前にビックリ!

2022-05-28 15:10:20 | 花や風景など
今回は「木興の田園の雑草たち」の出番です。
ハルジオンやシロツメクサは堂々と一面に咲き誇る田園地帯。
田植えの終わった畔道でまだまだ水が必要な時期、
水路を流れる水の音を聞きつつ、雑草を見ながら歩くのもなかなか妙。

国道368号線の横に往古川(オモガワ=木津川支流)という川があります。
市街地の生活雑排水が流れ込む川ですが、地域住民の努力によりきれいな流れになりました。
昔は濁っていたし、悪臭もあり、何故か泡立ち、色も着いていたとか、聞いたことがあります。
随分前に、生活排水も「台所から綺麗に流そう!」とゴミネットを使い、
「往古川クリーン作戦」のおかげもあって、気持ちよく歩ける土手になりました。
今は、まったく匂わず、橋を渡る時に川を覗きますがほんと綺麗です。
いつ行っても散歩の人に出会い、なかにはワンちゃんと一緒の方も…

この「往古川の土手」伝いに歩いて田園風景を眺めつつ、
時折、そのまま「長田橋」まで歩くこともあります(笑)。
雑草の宝庫なので…

その「往古川土手」で、見つけた雑草のはなし。
ワタシにとっての「新種2種」、今まで見たことがなく(多分、見落としていたかな?)、
名前もわからない
ひとつは「紫」の花。色に惹かれ、何かの花に似ているなぁと、
 車内で撮影
この時点で「桔梗の花」に似ているな、とは思いましたけど…
「雑草図鑑」で調べます。(正しくは「美しき小さな雑草の花図鑑」全2巻
桔梗草:キキョウソウ」キキョウ科キキョウソウ属
5~7月、1年草のようです。

 ≪秋の七草のキキョウに似て小さな花が段になってだんだん咲きます
 故郷の北アメリカから観賞用に連れてこられて日本各地に住み着きました。
 かわいい花をよく見ると、表情が途中で変化しています。
 咲き始めはめしべの先が閉じていて、そのあと3つに開くのです。
 なぜこんなことをと思いますが、 これは自分の花粉で受粉しないため。
 虫が運んでくるほかの花の花粉を積極的に受け取ることで、
 近親交配を避けているのです。≫
  「めしべ閉じ」状態 

 「めしべ3つに開く」
 ≪花が咲くとまずおしべが花粉を出します。このときめしべは閉じています。
 花粉がなくなるころにめしべが開いて受粉します。≫
 
直径2cm前後の可愛小さな桔梗です。

もひとつは、白くてレース模様のようで、めっちゃ小さい花の集合体。
小さすぎて焦点がなかなか合いません
うまく撮れないので鉛筆を置いてみました…(苦肉の策)
 

 (説明入り)
この「実」になるところ、細かい毛がびっしり!
「実」になったとき、小さなトゲトゲになって、
ひっつき虫」になるんですって
こんなに可愛い花なのに、なんでこんな名前がつけられたのか?
古くは「牧野日本植物図鑑」にも掲載されているのですが、やっぱりこの名前(当たり前ヤケド)
その名は「藪虱:ヤブジラミ」セリ科ヤブジラミ属
6~7月、越年草

 ≪セリ科の花は、小さな花が多数集まって円陣を組み、
 遠目にも目立つ美しい花の文様をつくります。
 白い花に惹かれて、甲虫やハナアブ、ハエなど、多種多様な虫が集まります。
 1個の花から2個の実ができるのもセリ科の花の特徴です。
 ヤブジラミの実はトゲトゲの2個セットで、真夏に熟し、人や動物にくっついて運ばれ※ます。
 なかまのオヤブジラミは春に咲き、花や実に長めの柄があります。≫

名前の由来はやっぱり「ひっつき虫」といわれるこの「実」が、
(見たことないけど)「シラミ」のように見えるからかしらん??(我が家の会話より)
もう一度載せますが、花びらは💛型5枚組。

 ≪小さな花が寄り集まり、幾何学でいう『フラクタル構造』※を作って、
 虫にアピール≫するんですって。
一つの小さな集合体で約1cm~1.5cmくらいの大きさなので、
たった一つの花ならミリ単位の大きさになります。

ワタシ「同じ形の花がいくつか集まってるらしい、幾何学にあるって…」
 (咄嗟に名前が出てこない )
長女「あぁ、フラクタルね。そういえばそう見えるねぇ」とアッサリ撃沈されるワタシ。

また、数学用語が出てきました、「ふぃぼなっち」やら「ふらくたる」やら、
知らないことだらけの「野の花」でした。始まりは「狗尾草」(笑)。
昨夏ごろから「雑草」に魅入られて、探す楽しみが増え、
持って帰ってしまった「ひっつき虫」取りに苦労しつつも、
それでもまた、探しに行くんだろうなぁ…

ではまた

追記「ひっつき虫」のこと、「変ダネ!すごいんダネ!」って…載ってました!

植物たちが「なかまを増やす」ために、ワタシら人間も使われていたのね
もとい「協働作業」してたのね(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今が旬「アザミ」&「ウツギ(空木)」、そこここで…

2022-05-27 18:14:22 | 花や風景など
昨日、「西山の棚田」訪問中、とあるところで見つけた「ウツギ」。
崖地や林縁とか土手など「今が旬でしょ!」みたく咲いています、
山肌など縫うように走っているとよく見かけます(笑)…名阪国道も多い。
そんなところで「白い花」を見つけたらそれは「ウツギかと。
他にも白い花はあるのですが、新緑に映える「白」なのでとくに目立ちます。

山野に生えていたので頂戴してきた我が家の「ウツギ」。
  

「ウツギ」にもいろいろ種類がありまして、素人にはコレがソレだとは説明できませんが、
似ているなぁと感したものは「ウツギ」として書いています。
間違いもあるかもしれませんが、ご笑覧ください ⇒ (当blog)ウツギ集

こちらは、小川のせせらぎの土手、毎年楽しみに訪れる場所で群生しています。
その名は「アザミ」。
彼女たちも必死でね、痛いトゲトゲの葉っぱ、採られまいという花なりの策かな…
触ろうものならチクっと痛いのなんのって、ね。
でもめげずに花鋏持参で数本頂きました。
  
たまたまポンポンみたいに可愛いので撮り、
これも一つずつの「花」なんだよなぁ、と分解し観察。ふわっふわの綿毛に包まれています。
そして、「花」は外から内側へと順に咲いていくその様子、

真ん中はよく見ると、やっぱり「ふぃぼなっち」かな(笑)、規則正しく綺麗です。

次回は、ワタシにとっての新種発見!
ではまた

2022/6/2追記
その後のアザミちゃん
 
もふもふの毛が出てきて、さてどこへ飛んでいくのかな…
このまま家の中で飛ばれても困るので、裏庭にそっと置きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西山の棚田(棚田100選)」、「垂園森」&「依名古神社」辺りで「忍者電車」に会う。

2022-05-26 23:24:32 | 花や風景など
ここんとこ少々籠り気味だったので、何やら「出かけたいムシ」が騒ぐ…
定番地ですけど、この時期の「水田」は原風景として心に残しておきたいし、
「麦はどうだっ?」と気になりますし…
田園地帯で「忍者電車(ブルー)」の「くノ一」の目はキラッと輝く し、
色々な風景を見ることができた嬉しい半日でした。

*西山の棚田
 

棚田の前には
 「西山の十三仏尊」、手書きの案内です

 「棚田100選」正式選出!

「窓からの棚田」風に見えるので(私的に)好きだなぁ…
(「展望台」にしては邪魔だという声もあるのですが、
「教室の窓」からすぐそこに「棚田」あるように見えるココは
 

 

岩倉の六地蔵摩崖仏経由で
西山から戻るとき西出川経由で(参照「西出川」沿い桜並木)のアザミを見たくて寄り道、
本流の木津川を上り岩倉に抜けて初めて立ち寄ったお地蔵さんです。
  
お顔が見えないのが残念ですけど…

ここから一路「猪田方面」を目指します。
猪田道駅踏切」でスゴイ目力のくノ一に出会う…
  
「電車」乗るのもいいけど、こうやって「見る」のもいいなぁ…

*「依名古神社」で麦たわわに戯れる図
 

参道は「クローバー道」、「マツバウンランと麦」等など
  
収穫は間近でしょうか…

最後に
*「垂園森」界隈にて
久々の森の中、神々しい光に惹きこまれる図、
 

垂園森と水田」
 

遠くに見える左側(麦畑)の向こうは「哀園森」、
右側「水田」に見えるのは「第三の森?」、
 

最後に、さっきの電車が再登場の図。


ではまた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じっくり卒アル。「人生 何事か 修養ならざる」…

2022-05-25 23:50:41 | 上野高校明治校舎改修工事編
滅多にアルバムなど見ない、
流石に「明治校舎」に触れた今、隅から隅までずずいーっと「読んで、見て」みた。

卒業時の校長先生のお言葉、

今頃になって、そういうことだったんですね…

『「高校生活」それは長い一生のうちの
 ほんの一部分にしか過ぎない
 しかしこの間に得た経験は諸君の生涯に
 大きい方向を与えるであろう
 またそこで芽生えた友情は諸君の将来に
 大きい役割を果すであろう
 この経験や友情を今後大きく育てて
 いってほしい
 最後に諸君に次の言席を送る 
 人生 何事か 修養ならざる
  昭和四十七年三月 永野由太郎 』

「上野高等学校校歌」


景色が見えますねぇ、
校舎の裏側を歩きつつ、お城に登って石垣の上から遠くの山々を見る、
 (再掲、北側の山々)
その四方を囲む山々を越えて、外に出よと教えられたな…と。

一「伊賀の平(イガノタイラ)の 道遠く
  通ひ来りて 丘の上の (カヨイキタリテ オカノエノ)
  学び舎ここに 寄り集ふ
  高き教(オシエ)を 仰ぐため」
二「城の石垣 底深く
  濠に据ゑたる さまを見る
  崇廣堂を 庭つゞき
  学のしづけき さまを見る」
三「四方(ヨモ)を囲める 山々も
  丘に登れば 低く見ゆ
  我等の望み 山々を 
  越えて溢れて 外に出ん」(山口誓子作詞)

外から見る「伊賀」は、どうでしょうか?
「伊賀」の中は、どうなっていくんでしょうか?

「明治校舎耐震工事に関する記事」を最後に
 2022/5/24付、中日記事

 2022/5/25付、毎日記事

「完」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの「明治校舎」耐震工事内部潜入!③ 「文化財」使えるものは使いつつ、残す。

2022-05-24 16:12:31 | 上野高校明治校舎改修工事編
「屋根工事現場」から降りて、一階部分へ。
長~い「廊下」、そういえば天井が高い分暗かったなぁ…という記憶。
 (再掲)
昨日ラスト3行から
「廊下」東側を見る、長かったですよね、図面で見ると「東西間、約68m」です。
確か「走ってはいけない!廊下」でした…
この教室、現在は「文庫展示室『横光利一資料』」となっており、いよいよ潜入!
(その隣だったかもしれない、ゴメンあやふや

教室内潜入!の前に、

廊下側から「窓ガラス」を見る、といっても透明だし、
撮影技術もイマイチなのでわからないと思いますが、実は「ユラユラ(してる)ガラス」。
校舎が建てられた明治後期はガラスの加工技術もそれほど進んでおらず、
バチっと平面だったわけではなく、何となくユラユラ揺れて見えるガラスも残っているわけ。
なんとなく酔いそうな気分とさすが年代モノ!って感じで見ていましたが、
皆さんに遅れてはいけないので先を急ぎます。

ここからは、第一グラウンド内に設置されている仮設倉庫?の様子も一緒に組み入れて行きます。
というのも、解体された部材取り外した「建具」の保管、
及び壁の構造などがわかるように展示されているのです。

では、
教室内「漆喰壁※」の様子
 
教室内東西方向にある「漆喰壁」ですが、両方向を一気に剥がすわけではなく、
片面ずつ作業していくらしい。
↓ 「施工されていた古い漆喰壁見本」
  
3枚目、「明治校舎」教室内の黒板
これは、黒大津』仕様と。
「白」でなく、わざわざ「黒く?」してたんかなぁ…

漆喰は、もともとは防火性の高さや明光性が評価され「お城や武家屋敷の壁」に使われてきたと言われています。
 現代では、優れた調湿機能などが着目され室内壁として広く使用される壁材となっている。
 古くから、現在に至るまで、不燃性・明光性、調湿性など、漆喰そのものが持つ高い機能性から様々な建物に使用されてきた、とのこと。

「室内壁解体」&「腰板床下土台下礎石」の様子
   
※「土台下礎石」(土の塊に見える部分)と「束石」は、既設のまま残す、とのこと。(配布資料より)

倉庫に保管されている部材など
  床の説明

 
下部には虫食いの跡であったり、腐食部分も見られますが、
傷んだ部分は取り除き極力「元の部材を使う!
それが「文化財修理修復の一番大事な所」、
新しいものを使う方が時間もコストも軽いのですが、それでは
古き良きものは残って行かない」、これぞ『遺産』なのかと感じた次第。
↓ 「床板」「大引(オオビキ)」など
 

ぼちぼち潜入ルポも終盤です、
遠い昔のこととはいえ、屋根や天井、床下のことなど知るすべもありません。
唯一残像として残っているのは「建具」といわれる「ドア」や「窓」など、
これを見て思わず「そうそう、大きくて重いこんなドアを開け閉めしてたよね…」
↓ (筆者注意書き入り)
 

そして、これは記念写真よりトリミングした「窓部分」ですが、
知ってた??回転窓」と「上げ下げ式窓」だったんだよ~~
  
上部の回転窓は「換気用」だったそうです。

最後に、「天井の様子」と「玄関上部の飾り窓?」
 

外に出て、「瓦」「雨どい類」
   
「鬼瓦」はかなり傷んでおり、使えないかもしれないけれど、
「屋根瓦」は既設のものと新しい三州瓦とのmixで、
「雨どい類」はステンレス製になるとのこと。

約1時間、みっちり説明していただき、各部署見て回り、
気の遠くなるような緻密な作業をしていることがわかりました。
壊して建て直すほうがきっと楽、でもねそれをしてはいけない大切なもの。
そんな存在の明治校舎です。
三重県内の旧制中学校の建築物では唯一伊賀にしか残っていない「たからもの」です。
見学に行けて良かったし、同窓生のみなさんの目に触れることがあれば幸いかなぁ。
拙いレポートにお付き合いいただきありがとうございました。

では、「校訓『自彊不息」でお別れ…
 
また。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの「明治校舎」耐震工事内部潜入!② こうなっていたのか…

2022-05-23 12:52:28 | 上野高校明治校舎改修工事編

専門的な知識は一切ない、ただ骨組みのみ状態であろうことは想像できる。
危うい足場を進んで思ったこと、ヘルメットを被っていても頭は打つ!
(いくら注意喚起されても、上を見ることに慣れていないので…)
その衝撃は半端ではない!ということ、いかに大切な防具であることか!
先ず、それを学習しました

ちょっと前後しますが、
  
現場事務所でモロモロの説明を受け、
「文化財としての耐震工事」の重要目的として
 ①耐震補強材の設置
 ②基礎の補強
 ③屋根の軽量化(瓦葺替) 
他に
 ・雨漏り修理 
 ・外壁塗装
 ・建具の調整 もあるとのこと。

 
「いざ出陣!」みたいな気分で、あれもこれも、どれもが興味の的。
A班・B班に分かれて10人ずつが各ルートを進みます。

「明治校舎」の中央、正面玄関の一段高い門をくぐり、昇降口から入ります。
(遠い昔の)在学中には「玄関」といえども、出入りのためにあまり利用した記憶はないのです。
帰宅後、卒業アルバムを引っ張り出して見てみたら…
 「半世紀前の明治校舎玄関前」
「植栽」が随分成長したね…って思いませんか(笑)。
全10クラスの中で、この「明治校舎」前での撮影はこのクラスだけ。
あとは、「お城」であったり、「俳聖殿」前であったり、滅茶苦茶懐かしいです。
 

話は逸れましたが、「柱」こんなにボロボロになってたのね、という現実に戻る。
  
左右3本ずつの柱で支えられています、初めて見上げてみて、
これは綺麗に塗り直して頂きたいと切に願う

 
この写真は「外壁」と右奥は通路部分と上から見た「外壁」
教室の窓枠と「外壁」を撮りました、ここは歩いた記憶があるので懐かしさいっぱいです。
「外壁」は今後「ケレン作業」を行い、塗り替えられるはず。
 ※英語の「クリーン」が訛って「ケレン」になったといわれています。
  つまり、キレイにすることが、ケレンだとか。

順路は、「屋根工事部分」へ
耐震工事の中でも重要な部分で、「瓦の解体」が終わり、
「杉皮」、「屋根土」が撤去され、「木舞(コマイ)」という屋根の下地部分も撤去。
専門用語ばかりなのですが、要するに屋根の「丸裸状態」。
見たことのない光景です…
  
↑ 真ん中辺りと「西側の梁」など
↓ 「東方面全体」と張り出した部分からも見学できます。
  
さて、ここで「墨書」という札があります、
これは、建設当時の覚書やらなんやらかんやらが「墨」で書かれていたという「印」。
  
文化財的価値があるとはいえないまでも、当初(明治時代)の貴重な「跡」です。
ここで、説明者の方が
「大体は『文字』が多いです、何らかの「目印」のような。
ただ、中には、面白い『絵』もあり、おそらく大工さんが描いたと思われる
『エロ画』(女性の裸の絵)もあります、いつどんな時に描いたものかはわかりませんが、
緊張が連続する現場での唯一の息抜きだったかもしれない…」とか。
まさか、今の世にこんな形で「見られる」とは思っていなかったでしょうねぇ…
ずっと隠されていると思って描いたんだろうと思うと、
なんだかちょっとホッとする話でした。

新旧のボルトも使い、筋交いなども施され、これもやがて「野地板」※で隠され、
瓦が葺かれていくと思われます、二度と見ることはない景色でした。
 ※屋根本体を保持させるための重要な建材だそうです。

では、再び下に降りますが、この隙間を覗くと微妙にコワい…


 
「廊下」東側を見る、長かったですよね、図面で見ると「東西間、約68m」です。
確か「走ってはいけない!廊下」でした…
この教室、現在は「文庫展示室『横光利一資料』」となっており、いよいよ潜入!

では、つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの「明治校舎」耐震工事内部潜入!① その前に「旧藤堂藩武器庫」…

2022-05-22 15:12:00 | 上野高校明治校舎改修工事編
正式には、
三重県指定有形文化財 (建造物)  旧三重県第三中学校校舎
(三重県立上野高等学校旧管理棟 「明治校舎」) 耐震改修工事現場
公開」です。

これは、今後ワタシが生きているうちに絶対に見ることが出来ないはず!
という気合がこもる「見学会」だと思ったので、申し込みました…

長い名前には、それなりの歴史が籠っているわけで、
明治32年(1899)に「三重県第三中学校」として開校しており、
この時点の校舎(教室)は『旧藤堂藩武器庫(伊賀市指定文化財)』だったそう。
そういえば、「現・図書館」の横に倉庫か?講堂か?という古い建物があった微かな記憶…

思えば、今年の2月23日に「上野高校」の前を散歩していて、
「上高がガンダム化してるよ!」と同級生(東京在住の仲間含めて)たちにLineしました。
   
早速返信があり、
「工事期間がけっこう長いんだね」とか
「思い出の詰まった校舎の今の姿を見れて良かった」とか、
反応はすこぶる良かった記憶。
これは、伊賀に残っている者として何か伝える義務があるんじゃないかと…

今回、工事現場に潜入できるというチャンスに巡りあえて(抽選に当たったお陰で)、
懐かしの(正門は撤去中ですが)第一グラウンド内で受付、
工事現場管理棟へ案内されました。
そこで、(略して)「明治校舎」が「三重県指定有形文化財」として、
どんな立ち位置にあるのかの再確認。(これは卒業生として何より心地良い響きでもある)
*「明治校舎」は、学問・文化の象徴として、 同窓生や地域の人のみならず広く県民に親し まれている。
 また、当初の建築地にいまも残る明治建築 (明治33年竣工) として貴重な歴史的遺産であり、
 この地域における歴史的景観の中心的存在となっている。


*耐震改修工事を行うことにより、地震時における人的被害の発生防止および建物の被害軽減を図る。
 同時に、可能な限り、 劣化損傷部位において保存修理を行うことにより、
 文化財にふさわしい保存・活用を図る。


*工期 令和3年11月4日~令和4年12月28日 ( 420日間)

さて、工事現場なので準備された「軍手」「ヘルメット」着用でいざ潜入!
その前に、本日これを書いていて思い立ちました、
「旧藤堂藩武器庫」って、ほんまにあるんやろか?って気になり出して、
これは自分の目で確かめておかないと、という嫌な懐疑心が邪魔をするので…
すみませんが、工事見学の様子アップの前に探しに行きます。

旧藩校崇廣堂横の道から、いわゆる「上高西門」を入る、すぐに見えました、
   
奥へ進みます
 「旧藤堂藩武器庫」案内
説明版から
 『同窓会館 旧藤堂藩の武器庫の一部である。
 1899年(明治32年)、三重県第三尋常中学校が発足したとき、
 明治校舎が 完成するまでの間、教室として使用された。
 以後、倉庫などとして使用されてきた。
 1959年(昭和34年)、創立六十周年記念事業として、
 卒業生からの浄財により、同窓会記念館として改修し
 使用されてきたが、百周年記念を機に、
  同窓会館として再改修された。
  揮毫者 同窓会長 関田 庄司(上中三十五回) 』

その奥へ行って、高校生に戻った気分で「堀」でも見ようかと…
そこにはなぜか「古墳」?
  
↑ 「奥城寺一号古墳」、もちろん移築。
1973年のことだそうです、知ってた??

↓ 懐かしい風景「堀」と、「武器庫裏」、
 

表に戻り、「武器庫」前から図書館横へ、
その通路に何故か「石仏さま」(合掌)…そして「堀」
    

校舎裏側ではどこからでも「堀と石垣」が見えます、
思えば歴史と共に歩んできたはずなのに、
み~んな忘却の彼方にすっ飛んでいってました。
とても贅沢な空間で学んでいたのに、なんてもったいない時間を過ごしていたのかと、
卒業して半世紀が経って、やっとそんな大切なことに気が付いた次第。
せっかくなので、校舎の裏から「上野公園」に繋がる「石垣」をどうぞ~~
(これはね、日曜日だから見学できたと思います、普段は✖かと)
  

  

「高石垣」の上から「旧藤堂藩武器庫」の屋根(だけ)
駐車場から垣間見る…
 

最後に、
高石垣と上高第2グラウンド」そしてお斎峠のある高旗の山並み


では、明日はいよいよ「工事現場潜入ルポ!」になるかどうか


※「伊賀市の文化財」から抜粋
藤堂藩旧武庫
 指定年月日 昭和33年11月22日
 所在地 上野丸之内107 (上野高等学校)
 木造、平家建、土蔵造 瓦葺の白壁塗の建造物です。
 藤堂藩旧武器庫の一部で、元禄年間の絵図にも御武具蔵との記載があり、
 廃藩置県後には阿拝山田郡役所として使用されていました。
 現在の上野高校敷地内に3つ所在した蔵の中で、現在も唯一残存するもの』でした。
 「元禄年間絵図」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする