古山菖蒲池【市場寺】は、国の宝がいっぱい

2020-06-30 01:00:47 | つれづれ思うまま
「凄くいい仏像がたくさんあるよ、見に来る??」との嬉しいお誘い、
何を拒むことがあろうか…喜んで伺ったのは、2020年5月25日のこと。
古山地区は、ほんと宝の山だなぁ…

勇んで行ったものの、難しいんです、仏様の撮影は…しかも「旧国宝」ですよ、お相手は。
ワタシよりはるかに撮影の上手い知人を連れ再度伺うことにしました。(再訪問日:6/27)

 正面から

阿弥陀如来様は「※定印」されています

(※阿弥陀如来が瞑想している時の印相のことを言うそうです)
穏やかな仏様です…

 「榊 莫山書」

「四天王」の面々
※生前の釈迦の教えを聞いていた四天王は、釈迦が亡くなった後に仏法を守護するように託された精鋭の用心棒
 
阿弥陀如来様を見守る四天王たち(本来の並び順です、仏様に向かって右が「持国天」、左が「増長天」)


増長天の後ろは「広目天」
(四天王の中で唯一武器を持っていません! 武器を持っていないがゆえのこのやさしい指の動き、何とも言えません)

持国天の後ろは「多聞天」
 
ざっと「お宝」☟を書けば、こんな感じですが、なかなかの見ごたえある作品ばかりなんです。
≪廃長福寺の遺像といわれる平安後期作の仏像を安置(⇒本堂ではなく、コンクリート製の重文収蔵庫)
木造阿弥陀如来坐像」と「木造四天王立像」は国指定重要文化財、
石造五輪塔」は伊賀市指定文化財≫です。

市場寺を訪問すると、本堂が二つあるように見えますが、
これは、重要文化財の木造阿弥陀如来坐像と木造四天王立像を安置するための※収蔵庫で、防犯設備はバッチリ!!
 ※昭和28年建築

 「重文仏像説明書」

芭蕉とその弟子の句碑
 

もう一つ、公民館と共用の建物(いわゆる「市場寺・本堂」)があります。
重要文化財の仏像は、普段は公開されていないのでお世話役の方に依頼する方法がベスト
拝観料、もちろん必要。
今回、この仏像を見せていただくチャンスをくれた友人と地区の世話役の方々に感謝です

せっかくなので、もう少しアップで見ていただきたい、、、
 阿弥陀如来坐像(平安後期・行基作)

市場寺の四天王さんたちは、コワモテ系の顔で目線は下向き、なので迫力重文違う十分!
 

  多聞天

 
増長天の法衣の模様、獅子噛みといわれる装飾、木目もうっすら見えます…


広目天とその邪鬼

ワタシは鬼町の人間なので「四天王の怖さ」は十分知っているつもり
(鬼行列を見に来た子どもたちが先ず泣くのは「四天王」で泣きますから(笑))
「上野天神祭」の四天王組とその他  ちょっとおまけ写真でした…

大人が感じるのは、怖さより威厳でしょうか…
ここでこの仏像を見た人たちの感想を読んでいると、「奈良の南都七大寺で安置されていても、誰も違和感を感じないすばらしさ」と評する方もいらっしゃいます。
これら市場寺四天王像の作者は、あの有名な【定朝】と言われています。

参考までに
≪四天王の見分け方としては、いずれも甲胄を身に付け武装していて、悪の象徴である邪鬼を踏みつけて立っています。
手にするものは持国天と増長天は武器、広目天は巻物と筆、多聞天は宝塔を持つ場合がほとんどです。
四尊は向かって右手前から時計回りに持国天、増長天、広目天、多聞天という順番で安置されることが基本
(持・増・広・多=ジゾウコウタと覚えるのがベターかも)≫とのこと。

見どころいっぱいの「市場寺」でした、、、


平成7年の過激台風により倒された杉の木の根元に、新しい木が育っています、、、

最後、見送ってくれたのは この子
 
人懐っこい子でした

本日(6/30)二度目の投稿
まだまだ伝えきれていないところも多く、目覚めてから気になること多々
以前5/25に伺った時のことを写真で少々ご紹介
「重文収蔵庫」の隣にあるのが「安養山・市場寺」の本堂になります。
  

屋根には「龍虎瓦」 

地区の公民館との併用ですが、驚くなかれこのお堂の中にも立派な仏様たち

「薬師三尊・薬師如来と日光月光」

 「不動明王」

 「文殊菩薩」

 「地蔵菩薩」

 「役行者」

すごいでしょ、小さいながらも地域の人たちに敬れつつ残っている仏様たちの数々です。

外に出れば(先にも書いた)台風で折れた大杉の直径がわかる…この時はまだ紫陽花は咲いていなかったのです(笑)。


最後に、「安養山・市場寺」の説明書です。

一部読みづらいところがあるかもしれませんので、
「市場寺の由来」を転書しておきます。
≪当寺の創建年代は定かではないが、古く鎌倉期にさかのぼるとおもわれる。「伊水温故」(1687)によれば「市場寺長福寺」
と配され、三国地誌では「安養山市場寺」となっている。これは現在地の東300mのところにあった長福寺(鎌倉期の
布目瓦出土)が天正の兵乱に焼失したので、焼失をまぬがれた仏像を移し、長福寺所在の地名をとって市場寺と名付けたと
想定される。旧寺址には市場寺の坊官であった、法橋宥敦道慶の墓石等があり「庵の本」と呼ばれている。
天正の兵乱後建立した長福寺(現在の市場寺)は再び明治9年伊勢暴動(農民一揆)により焼失したので、猪田にあった
大庄屋(森田氏)宅を現在地に移築したのが現在の建物であり、中央に巾1間の中廊下をとり2本の大柱に支えられた
重厚な柱組は一見に値するものである。なお寺宗は真言宗の寺院で、京嵯峨大覚寺派上野愛宕大福寺末(江戸中期)で
あったが現在は豊山派となっている。なお国重文である 阿弥陀如来、四天王は昭和28年収蔵庫が作られ、この中に
収められている。≫




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猪田神社 近くに二つ

2020-06-29 00:34:09 | 神社仏閣など
猪田神社・猪田
本殿は旧国宝・現在は国指定重要文化財です。
≪※昭和25年の文化財保護法施行に伴い、国宝保存法時代の「国宝」は、
文化財保護法の規定による重要文化財に指定したものとされた。
文化財保護法の規定による国宝との混同を避けるため「旧国宝」といわれる場合がある。
また、 第二次世界大戦以前には「国宝」であったものが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤り≫ ですと…

余談から入りましたが、
田んぼの中の長い参道を車で走り抜けたら駐車場がありました。
お参りする前に左側に

「天真名井」(アメノマナイ)鳥居、奥に進むのはちょっと怖かったのでパス。
勇気をもって進めば、この先に小さな泉があり、「尽きることのない清水がたたえられている」とのこと。
旧猪田小学校の校歌にも歌われているそうです。大旱(おおひでり)の時にも水が涸れないとか…
勇気を出して、行けば良かったかも。


猪田神社の鳥居ですが、(おっ、工事中らしい、ワタシが行くところ工事中が多い なんでだろう?)
珍しく横から上がります、正面に拝殿があるのではない。
  
祭神は多いです…


この猪田神社の本殿は三重県内最古とのこと。
裏山の方へ回ると本殿の後姿が見られそうです。(ワクワクドキドキします)
見に行く前に、伊賀市指定文化財の「四角形石灯篭」
 
この神社付近には「古墳」があちこちにあるみたいです。

おぉっ、綺麗!!
 後方右側から

 後方左側から


桧皮葺きの屋根ですが、修理してもらったおかげで、陽の光がまぶしいです。

そして「文化財を守る」

防火設備はバッチリ!です。

別資料として、
三重県教育委員会社会教育・文化財保護課FBから
≪平成31年9月から行っていた、重要文化財・猪田神社本殿の修理が終わりました!
今回の修理では、檜皮の吹き替えとともに、社殿の塗装を一部塗り直しており、鮮やかな色彩が蘇っています。≫
  
これら3枚の写真は、修理直後の本殿ですので、普段現地ではこの角度では見られません、あしからず。
(しかし、こんなかわいい子がここにいたなんて…)

確かに綺麗です、昔の人たちはすごい技術を持っていて、こんな極彩色で神殿を作っていたのですね。
ワタシごときが拙い説明をしても無理ですので、現地で見ていただくのが一番いいかと思います、はい。

最後に「行者堂・役行者(小天狗清蔵)」
(やはり、ここも誰かによって焼き払われてしまった その多くの神社仏閣を再建した伝説の人。)
 
『役行者』と聞くと、やはり反応してしまいます。
(上野天神祭の鬼行列担当町に住まわせていただいてるからこその感覚です…)

次なる神社は、ここから車で3・4分、田んぼの中のあぜ道を走ると着きます、駐車場もあります。
猪田神社(下郡)
真っ赤な鳥居に瓦葺き屋根…なかなか立派です。
 

 
左右から手水龍さん撮りました、景色が違うので面白いです…

 
「拝殿」と「本殿説明書」

拝殿から左に進むと「満雨石祠」と「満珠石」(=雨乞石)があります、
 
昔 、この石を持ち出し矢田川の水に浸けると、必ず雨が降った…という言い伝えがあるようです。

その「祠」横の石段を登ろうと…
やっぱり花のある風景は落ち着きますね
   
訪れたのは、6/24です、あしからず。
というのも、行ったときに見ごろだった花も、少し時が過ぎれば姿は変わってしまうので…

☟は、同じ場所で次の日 知人が撮った写真を拝借


石段を登りきると「本殿」を横から見ることができます、やっぱり美しいです。
 
三重県指定重要文化財です。

いいものをたくさん見せていただきました、そしてそこに季節の花。
これが見たくて、、、

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忍者回廊巡り真っ最中! その6(悲しい浪漫の話:式部塚)

2020-06-28 00:15:14 | 伊賀忍者回廊巡り
百地砦をあとにして、この標識
  
かなり丁寧な案内があります、もひとつ

一人で行くには、かなり勇気がいるのですが…
そこへ多くの誰かが訪れる!という「何か」があるんですね。

【式部(しきぶ)塚(=樒塚・しきみづかともいう)】
≪百地丹波守と恋愛関係になったため、嫉妬に狂った本妻に殺された女性を弔った塚。
この女性が式部の官職にあったため式部塚と呼ばれ、はさみを供えると夫や恋人との悪縁が切れるといわれています≫
また、
≪塚に、鋏を供えると悪縁が切れるとの伝承があり各地から
縁切りの象徴「はさみ」が奉納され所狭しと置かれています。ほとんどが新しいものです。
最近話題の不倫の典型としてそれを裁ち切るために増えているのでしょうか≫という話もあります、、、

因みに、これは2020/6/22に撮影したものです、新しそうな鋏 ありますねぇ~~
「縁切り塚」とも言われ、今もこの塚にお参りする人は、鋏を置いて帰るそうですよ~~
知る人ぞ知る「浪漫!?」の話。(ワタシは写真を撮っただけですけど…) 

あれっ? 本当はそんなことはその時代には、まっ、多々あることかもしれなくて…(古文の教科書にも載ってたよ)
今の世の中に「縁を切りたい!」と思い、ここまで出向く女がいる、その心は?  と、問いたい

ここに立つと、
う~~ん、この場所を選んだわけがわからなくもないか!という怨な雰囲気… おっ、こわっ


※三大上忍の一人・百地丹波守の愛妾・式部に嫉妬した本妻は、丹波の弟子に命じて、式部を井戸に投げ入れさせ、
後に本妻も同井戸に身を投げました。
それを知った丹波が、井戸を埋め塚を造り、樒(しきみ)を植えて二人を弔った事から「しきみ塚」とも呼ばれています。
ここに剃刀やハサミを供えると悪縁が切れるという云い伝えがあります。
また、この近くには多数の夫婦地蔵がありますので、悪縁を断ち切り、良縁を結んでみてはいかがでしょうか? ※
と、「伊賀ぶらり旅・忍者にまつわるスポット」には書かれております。
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忍者回廊巡り、真っ最中! その5(上忍の砦:百地砦)

2020-06-27 00:39:28 | 伊賀忍者回廊巡り
さて、道案内通りに進んで行くと迷うことなく「砦」に着くのですが、
(ワタシはおそらく普通の探検コースの逆を行っているかもしれない…と、ここで気付く

この道の先に
 階段
登ると、土塁に囲まれてはいますが、視界が広がります、
おっ、まさに昔 連れて来てもらった「砦跡」だ!!
(ワタシの経験値からすると、「連れられて来る!」のと、
「自ら行く!」のでは学習能力が違うのではないかと…最近思います(笑))

 百地丹波守砦由来記


百地城跡周辺案内図
(ここで悩ましいのが、2種類の呼び名がある!ということ。統一はムリかな!?)

【百地砦跡】(ご朱印には全く関係ありません!が、「忍者三大上忍」の一人ですから大切な人です)
≪百地丹波守(三太夫のこと)は戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪として知られており、
この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山寄りの郭(くるわ)から
現在の青雲禅寺まで含めると長さ250m、幅は最も広い所で60mで市内でも有数の規模≫とのこと。
≪この砦近くには式部塚と百地家菩提寺の青雲禅寺、そして永保寺があります≫。
と、観光協会の説明にはあるのに(予習してるつもりでもダメなワタシ)、やっぱり逆コースだ!、、、
まっ、そんなことはどうでも良くて、この土塁や虎口と言われる要塞の数々

北東虎口、真ん中の奥の方に喰代の田園が垣間見える


南虎口、階段で登ってきたところが右端に見えます


土塁の一部

視点を変えるとこの景色です

おっ、いきなり現在に戻る…わけではなく、「昔、ここに砦があった!」という証(あかし)の場所です。
現在!というのは、ちゃんと案内板が用意されているということで

「砦」の説明
さて、クイズ


答:

昔、確かに ここに城(=砦)があった!

資料によりますと
≪土塀で囲まれたこの城の広さは約300坪(990㎡)あり、この中に三太夫の館、忍者の集会所、家人の住居が建てられていた≫
≪織田信長が伊賀を攻略した天正9年(1581年)の天正伊賀の乱の際に焼失し、当時を偲ぶものは土塁の残骸のみ≫とのこと。

さて、この砦から50mほど離れたところに
「南部女官式部之塚」と刻まれた塚がある!のをご存知でしょうか??
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「夏越の祓」上野天神宮にて

2020-06-26 18:10:10 | つれづれ思うまま
ちょっと忍者回廊中断しまして…
半年分のケガレを落として、後半の半年の健康と厄除けを祈願して参りました。


手水で浄めて(茅の輪と龍さんと牛さん)


3回周りまして
周り方は☟


そして、前に進んでお参りしました(2拝2拍手1拝)。

  
祭神の使者である牛さん撫でる(「撫牛」という…)のに忙しい、3頭もいらしたのね(笑)。

皆様もどうぞ

2020/06/30追記
本日のお天気は残念な☂
6/29に伺った「岡八幡宮」(白樫)の茅の輪ご紹介
立派な茅の輪が作られていますが、当日までくぐることはかないません
  

ご神田もあります


蓮のつぼみもいっぱい

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忍者回廊巡り、真っ最中! その4 (伊賀忍者の核心に近づくかな…)永保寺・青雲禅寺

2020-06-26 00:12:52 | 伊賀忍者回廊巡り
6月22日、午前の部。
まさに、「忍者」の生まれ出ずる里、伊賀流忍者の頭領(=上忍)百地三太夫の影を追います、、、
所は、伊賀市喰代(ほおじろ)にある百地砦(ももじとりで)界隈
そして、上野の東南の端、大山田地区と接する場所でもあります。(比自岐~大山田に続くコリドール道路が通っています)

先ずは、喰代バス停近くに駐車場とおぼしき場所があるので車を止め(周囲に迷惑のかからぬように気をつけ…)、
目の前に案内板見っけ
「忍者回廊」ののぼりと共に「百地砦」と書いてありますが(ずっと昔行った時と何かが違うなぁ…ちょっと心細い )、
でもれっつごー  
まぁ、せっかくのぼりで案内してくれてるんだから行きましょう~~ということです。

実はここは【永保寺
百地氏ゆかりの寺院で百地砦と隣接するお寺です。(実は、隣接するお寺が二つあるという、ややこしいとこです)

石段を登ると、そこには広い境内。
昔(50年ほど前でしょうか?)、まだ子どもが多かった頃、このお寺は分校だったそうで境内はグラウンドのように整えられ、
開けた感じがします。
きっと、子どもたちはここでのびのびと勉強に遊びに励んでいたんだろうなと思わずにはいられません。

  
大きな釣鐘があり、六角堂もあります。
この六角堂は、「本四国霊場」全てのお寺の砂と「高野山奥山の院」の砂が納められているとのことです。

この日、誰もいませんでしたが、今も子どもたちはここで遊ぶんだろうか?
それとも、じいちゃんばあちゃんたちが何かしらのスポーツをしているんだろうか?

六角堂から奥に続く道を進むと、なぜか石仏が多い。
   
ここは、お寺の裏山。
「四国八十八カ所」と「西国三十三カ所」の石仏がおられるのだそう、ちゃんとした「お参りの道」です…と、言われても
だんだん薄暗い中を進んでいくとやっぱり不安、、、
「百地砦」はどこ??
道は続いているのだけれど、怖いと思った時は戻る! これはワタシの鉄則!

元来た道を戻り、永保寺石段を下り、しばらく東に(田んぼの景色を左に見ながら)進むと

百地砦周辺案内図がありました、ずいぶん古くなってますが、位置関係はよくわかります。
でも、案内板は親切すぎるくらいあって、ちょっと悩ましい、、、
 ワタシは、この案内をスルーしてしまった
(後で思うに、この道を上った方がお寺には近く分かりやすかったかもしれない、、、)

その先に、また案内
 なんとなく、上の方を見ると建物が見えるので、それを目指すことにしました…
急坂ですけど、すぐ着きます(笑)。
その坂を上る前に見た喰代の田園風景


坂の先、なんと次なる目的地【龍王山・青雲禅寺】です。
≪百地氏の菩提寺で代々の墓があり百地砦と隣接≫しており、また
≪戦国時代には、忍者の集会所として使われていた≫のでは、、、ということです。
(おぉっ、いよいよ百地砦も間近、、、)
 青雲禅寺本堂

この時期、庭には紫陽花、地域の人たちの手入れのおかげかとても綺麗でしたよ。
  丁度見ごろだったように思います。

寺を降りたところに「池」

忍者が修行したと言われる「丸形池」の一部だと思います。
その池の横を通ると、紫陽花の乱舞!

いよいよ、ですよ。


つづく






















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忍者回廊巡り、真っ最中! その3 春日神社・手力神社・正覚寺・小宮神社

2020-06-25 00:06:20 | 伊賀忍者回廊巡り
行き始めたら、止まらない!
それもお天気のおかげ、6/21(日)も6/22(月)もご朱印蒐集にはもってこい。
そんなわけで、行くところが多すぎてリアルタイム報告ができません、あしからず

城下町内の忍者回廊巡りは午前中で一旦終わり、午後改めて車でのお出かけとなります。
目指すは、旧伊賀町川東・春日神社~旧阿山町東湯舟・手力神社、正覚寺へ。

伊賀市内からなので、名阪国道壬生野IC降りて右折、名阪くぐって道なりにほぼ真っ直ぐ、途中にこの案内


【川東・春日神社
実は、行ってビックリ

拝殿大修理中!!
解体して、一から組み直すほどの大がかりな修理のようです。
工期は、平成29年9月21日~平成35年3月31日(ということは令和5年・2023年に出来上がります)とのこと。
拝殿を見ることができなくても、めげずにご朱印は確かに頂戴いたしました。


生きてる木も建物を支える一部です


龍さんの後ろには鹿さんもいます、和みます…

さて、クイズに挑戦!!
  

答:

この近くには、こんな所も…壬生野城跡案内板

一人では不安だったので、目的地までは行きませんでしたが、
途中見えた風景は、のどかな田園風景


でも、遠い昔「があって…このての話について、ワタシは苦手なので触れずにしておきますが、
伊賀の寺社仏閣巡りしていると必ずどこかで織田軍との戦いで焼き払われたという歴史が出てくるんです、
一体、何をしてくれたんや!!と思わずにいられないのは事実です……

さて、次なる「忍者回廊」行く先は東湯舟です。

最近は、車のナビゲーターをちょっと使えるようになったのと、
いざという時、スマホのGoogle naviを使ってほぼ迷うことなく行けるようになった!
これがワタシの成長 (但し、道が狭いこと多々

ここから、やや北に向かって10数分進むと…
伊賀忍者の大家「藤林長門守」ゆかりの手力神社に着きますが、
車を止めたところのすぐ傍に小さい祠 見っけ!

可愛い仏様が寄り添っている風に見えて可愛い

入口です

おっ、神様にお参りする前に案内看板

詳しい内容とクイズは後程にします、、、

手力神社
≪祭神は天手力雄命(あめのてじからおうのみこと)を祀り、天の岩戸を開き給うた力もちで剛勇な神様として尊び、
暗い世の中を明るくし、平和で五穀豊穣と郷の繁栄をお守りくださる鎮守様≫で
≪忍者の里とも関係深く、戸隠の忍法、山本勘助の流儀を秘伝した忍術の達人藤林長門守、忍者藤井、藤崎、藤森、藤沢氏と
火術、火筒、忍者と狼煙(のろし)は奉納煙火(花火)と結びついており、古くは忍者の守護神としての歴史も語り継がれています≫とのこと。


鳥居から御神木?と拝殿と大きなおおきな鐘の「緒」(見えるかな?)
周り4m、高さ3m、重さ2tって、、、皆さんの願いが重なって、だんだん重くなっていったそうです。


ここの手水は、いつも誰かが綺麗にお掃除してくれているんですね、たわし付き龍さんです。

さて、


クイズ


答:

ここから、2・3分のところに
藤林長門守墓所(菩提寺)」である【浄土宗本誓山・正覚寺
≪創設は確かではありませんが、永久3年(1115)東大寺解案に『興福寺末寺正覚寺領七丁……』の文章が残っており、
古い歴史のある寺院です。御本尊は、阿弥陀如来坐像で、他に観音菩薩立像、大勢至菩薩立像が安置されています。
本堂西側の墓地に藤林長門守一族の墓所があります≫
「長門守」の三代目藤林保武は、あの有名な(ブラタモリでもタモリさんが説明を受けていた)忍者の秘伝書「萬川蒐海」)の著者でもあります。

  

さぁ、これで家に帰ろう・・・と思っての帰り道、
丁度、通り道沿いにもひとつ「忍者回廊」に因む神社があった。

服部町にある【小宮神社(おみやじんじゃ)】
≪伊賀国二之宮。服部氏の氏神。服部氏の祖呉服比売命(くれはとりひめのみこと)が主祭神≫
(※一之宮は敢国神社)
地元では「こみや」と呼ばれているそうで、≪養蚕・機織の技術を持った呉服部を服部氏が監督する立場から
この地に住み着き、服部氏の祖先神「秦酒公」(はたの さけ の きみ)を祀ったと伝わっている≫そうです。
(※服部(はとりべ)は、大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた組織。「機織部」(はたおりべ)がなまったもの。)

 
なかなかに、由緒ある神社なのです。

遥拝所もあります
橿原神宮 

皇大神宮 
もう少し角度を変えて撮れば、伊賀の小富士「南宮山」が撮れたのに…残念
※南宮山(伊賀小富士)は敢国神社の御神体山です

お家に着いたのは夕刻になりました…
本日のご朱印 8枚ゲット

忍者回廊、もう少しつづく、、、


追記
 2021/7/28付 中日記事より
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忍者回廊巡り、真っ最中! その2 松本院・萬福寺

2020-06-24 00:09:07 | 伊賀忍者回廊巡り
愛宕神社から北上

数分も歩けば西日南町【松本院
≪真言宗醍醐派寺院、伊賀唯一の修験道根本道場≫
   


岩にかじりついてるような龍さんです

さて、クイズ

答:撮るの忘れた

松本院の斜め向かいに、昔「料理旅館・九重」が≪登録有形文化財≫としてそのまま残っています。
遠い昔、我が子が小学校へ通っていた頃、PTAの関係で「宴会」をした記憶があるのですが……
立派な和風建築で、2階に大広間があったような、
今は、(多分、朽ちさせないための配慮もあってか)軽めのお食事処(昼間限定)になっています。
  


寺町【真言宗豊山派・萬福寺
≪伊賀惣国一揆の評定所であった平楽寺を継承、鍵屋ノ辻決闘河合又五郎の墓所≫とのこと。
また≪平安の昔、後白河法王の勅願にして平清盛の建立であり、現在の上野城東方の所にあったと伝えられている。
当時は上野山平楽寺と号し、諸堂及び子院三十六坊を有したが天正の兵火にあい、焼失…≫
  

石亀もいます、

ワンちゃんもきっといます(鳴き声が聞こえてきました(笑))…


6/21・午前の部終了
午後の部につづく






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忍者回廊巡り、真っ最中! 忍之社(愛宕町)・西念寺(万町)

2020-06-23 00:16:04 | 伊賀忍者回廊巡り
あれもしたい、ここも行きたい…
「欲」ばかりが多くて、≪あなたは一体何をしたいの?≫と自問自答する日々。

手元に「伊賀忍者回廊」なるご朱印帳がある(2年ほど前に入手したもの)のを最近見っけ
最初に【西田原・弥勒寺】(平成30年6月14日)に伺ったきり……(紫陽花のご紹介はココ
さっぱり進まぬご朱印集め(こんな表現でいいのか??神様・仏様に失礼ではないのか??)、
ちょっと頑張ってみようか と、先ずは城下町辺りを周ってみることに~~

但し、ワタシの行動範囲は上記にあらず、手あたり次第! 行き当たりばったり!
先ずは、お散歩圏内~~
いきなり、「忍者回廊」ではなく、
【徳居町・広禅寺】の手水場の「龍と花」に惚れる…
  

徳居町・広禅寺からすぐ隣の万町に【西方山極楽院・西念寺】(ここは、忍者回廊参加寺です)

いただいた解説書によりますと≪『萬川集海』の著者である藤林左武次保武をはじめ、藤林氏の墓所。
本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、佐那具の西方寺へ移されたといわれ、この西方寺こそが当寺の発祥とされる…≫
その後、いろんな事情で「西念寺」と改名されたとか、、、
ご朱印は、300円をお賽銭箱に入れ、頂く形になっております。


さてそのまま、南へ向かい、木興町にある【桶子(おけご)神社】
(ここもまた忍者回廊ではないが…)
ワタシの気まぐれ散歩コースに入っているところなので寄ってみる。
城下町の中でこんもりした森(「林」という表現の方がいいかな)が見え、大きな木が目に入ると、
そこには「神社」があります。
   

そして、最初に浄める所には

今は、空ですけど、眼がキラリと光る龍さんです…目力を感じます。

ここから数分歩けば【愛宕神社(忍之杜)】に着きます。
愛宕さんの手水は二段構え
 

 
三重県指定文化財の「社殿」、桃山時代の極彩色の建築様式でなかなかの見ごたえです。


愛宕神社鳥居から拝殿(西から東を見ています)

こちらは、北向き中之立町通りが見えます…


こちらが愛宕神社隣の「忍之杜」(忍者回廊参加)
 

つづきます、この日(2020/6/21)はあと「松本院」と「萬福寺」へ










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垂園森や哀園森辺りの田園風景

2020-06-22 00:15:14 | つれづれ思うまま
水が入って、田植えがされたばかりの頃(5月中旬)に訪れた…
水田に浮かぶ「小さな森」に、心がおどった

垂園森】入口から鳥居を望む

 
5月22日に訪れた時、ここから見る風景は麦畑でした。

違う場所から見ると


【垂園森】を背にしてゆめが丘辺りを見る


 
【哀園森】の田園風景


手前の森が哀園、向こうが垂園

そして、約1か月経ちました…

垂園森の辺りには紫陽花

中に入って

紀貫之歌碑

森の中から田園を



以前麦畑だったところは、水田に変身、凄い早業!


哀園森辺り、稲が育ってきましたねぇ~~

ワクワクします




 

コメント
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