美旗の「新田水路」のほんの一部を見学しただけでエラそうなことは書けませんし、
名張の方々の熱き思いを語るにはあまりにも何も知らなくて失礼なのですが、
高虎さんが赴任され、二代目三代目と続く初期の頃の「藤堂藩」。
国造り・土地造り真っ最中の頃、
養う士族は増えるわ、年貢は納めやなアカンわ、土地はないわ・・・
ナイナイ尽くしのなかで如何に土地を増やし、多くの米を作るか、
そのために一番大切なのは
「水」が必要だったという話であると…
個人的には理解できました。
「秘蔵の国」の伊賀を与えられ、大阪西(豊臣)方を見張れとか、
大坂夏・冬の陣で勝てば今度は(東を守るには)「伊賀を最前線の拠点」にするぞ、とか言われてもなぁ…
伊賀上野の高石垣を見るたびに強く思うのがそこんところ。
太平の世?になったとはいえ、350~400年前の藤堂藩を思うと
外様とはいえ32万石何某かの禄高をもらっていた一大大名の高虎さん。
(ゲスな話、32万石って??
一石は:米2.5俵とか、現在に置換して、一俵:60㎏、2.5俵は約150㎏、金額にして30万円。
大人一人が一年間に食べる量が一石とも言われ、
藤堂藩三二万石=4千800万kg=96億円・・・メッチャ金持ちではないかとは知人の話)
※
詳しくはコチラ「石高ランキング」
さてさて、そこで伊賀藤堂藩の「加判奉行/加納藤左ヱ門(直盛)」ってどこにお住まいだったのか…
伊賀ではあまり多くを語られていないのはなんでやろ?と素朴な疑問を持ちつつ、
福井健二氏著の「上野城と城下町」の古地図から
慶安年間(1648-52)
「加判奉行/加納藤左ヱ門」のお住まいは城下東南隅。
その「下屋敷」は「忍町」に見つけました。
忍者データベースでは「伊賀加判奉行として1800石を有し『伊賀者』を創設した方のようですから、
「同じく石田清兵衛」さんもおられる。(地図では三郎左衛門ですが)
元禄年間(1688-04)
加納名なくなる…
そして、加納さんの嗣子(跡取り息子)直堅さんの残念なお話は…
要するに
「疑獄事件」に巻き込まれたとしか言いようのない歴史が書かれておりました。
以下、
岸宏子著「江戸管理職哀歌」藤堂藩伊賀城代家老の日誌より
「
大阪道頓堀の祖・銅山疑獄事件・汚職の責任のとり方、とらせ方」
としてまとめてみました。
なぜこのような形になったかと言い訳をしますと、
先ず「岸宏子」さんの著書は大方が廃版もしくは絶版になっており、
読みたいと思っても図書館へ足を運ぶしかない状況でした。
これは何としても手に入れたいと思ったので、
最近のネット「古本屋」で探したわけです。
なんと運よく見つけることが出来、手配してもらったのが7/22、届いたのが7/24。
凄い早業だと有難く感謝しています。
届いてから気になる部分を読み出しますと、これがなかなか面白い。
なんというかまさに「管理職はツラいよ…」みたいな話がてんこ盛り。
岸さんの御本ってほんとうにおもしろい、もちろんテレビドラマでもいろいろ見た記憶もありますが、
遠に忘れていること多々。
そういえばこんなドラマもありましたよ、同じく「
藤堂家城代家老の日誌より/不熟のとき」(NHKドラマスペシャルより)
あんなことこんなこと思い出す良い機会を与えてくれたのが…
「美旗新田水路」と「加納神社」見学だったわけです。
名張では大絶賛され「加納大明神」として祀られている加納藤左ヱ門さま、
伊賀では余程のことがない限り、一言「
世俗ニ日請(いわくうけ)銅山事とハ是ナリ」です。
これは「備中石塔山の銅山開発事件にからまる一大疑獄事件であった」ということ。
顛末を読んでいるとこれはどうしても自分なりに岸さんの本を通じて記憶に留めておきたいし、
現在でもニュースなどをみていると「あるある事件」だなぁと、
背中がゾクゾクッとするお話、今も昔もよくある「トカゲのしっぽ切り話」だった…
まとめるのに、少々時間を要してしまいました。
最後に、偉大なる大仕事をやってのけた加納父子ですが、
ちゃんとお墓もあって、その隣には「顕彰板碑」もあります。
そこをお伝えして、この話は「完」とさせていただこうかと思います。
藤堂玄蕃さまの墓所でもあります。
ちなみに
「藤堂采女家歴代墓所」はココ。
ではまた