名張川納涼花火大会2024 クライマックス1分間(名張市広報チャンネルより)

2024-07-31 12:12:41 | つれづれ思うまま


昼間はこんな感じの場所です✋


以前、街道歩きした時に…『名張初瀬街道「やなせ宿」界隈偵察しておきました(笑)。
その時の写真です。


地図で見るとこんな場所、宇陀川と名張川の合流地点ですね。

いつかはきっと見に行きたいと思っています。
大山田平田の植木神社祇園祭と被っちゃうんですよね💦

ではまた
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植木神社の祇園さん、宵宮祭~遷幸祭。

2024-07-28 11:30:36 | 祭り
20240727植木神社祇園祭宵宮でだんじり巡行の様子です。


(※視聴は限定)

「宵宮祭」7/27:土曜日午後7時30分~の様子
  

 
知人FBより拝借。

「遷幸祭」(センコウサイ)7/28:日曜日午前3時30分~ 植木神社~西の御旅所まで
東京から帰省の同級生、早朝からお手伝いしてたそうです。
 

詳しいことはコチラのリンクでどうぞ。「伊賀ぶらり旅/植木神社祇園祭」です。

去年の様子はコチラ→「当blog/平田宿

本日午後はいよいよ「本祭」。
正式には「還幸祭」(カンコウサイ)。午後3時~ 御旅所~植木神社へ

そうそう、知人情報によると
「今年で二基の神輿が廻るのは最後です!真泥区で最後!
くねりの勝負が見られるのも今年で最後!
来年からは平田区の神輿のみ!」だそう…

ちょっとね、気合を入れて見学に行こうと思っています。
※「くねりの勝負」というのは、
「植木神社」の境内で2基の神輿が交互に「くねり技」を披露するということだそうです。

今年が最後って💦村の鎮守のお祭りも危機的状況になってきたということか、
しかと目に焼き付けたいものです。
つづきは、またあとで✋

追記。午後3時からの還幸祭での「くねり」


「くねり」だけが祭りではないのですが、なかなか圧巻の動きです。
これを見るために…という方々も多いですが、平田宿街道での様子です。

苦しい祭り事情が垣間見えます、Web朝日記事より「神輿の練習に熱・・・

祭は終わってしまいましたが、今年は植木神社境内へも行きましたので
またその様子は追々に…

2024/8/2 追記
 2024/7/30付中日新聞

 2024/7/30付毎日新聞
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美旗「新田水路」、加納大明神。そして江戸時代藤堂藩管理職エレジー…

2024-07-26 18:12:02 | つれづれ思うまま
美旗の「新田水路」のほんの一部を見学しただけでエラそうなことは書けませんし、
名張の方々の熱き思いを語るにはあまりにも何も知らなくて失礼なのですが、
高虎さんが赴任され、二代目三代目と続く初期の頃の「藤堂藩」。
国造り・土地造り真っ最中の頃、
養う士族は増えるわ、年貢は納めやなアカンわ、土地はないわ・・・
ナイナイ尽くしのなかで如何に土地を増やし、多くの米を作るか、
そのために一番大切なのは」が必要だったという話であると…
個人的には理解できました。

「秘蔵の国」の伊賀を与えられ、大阪西(豊臣)方を見張れとか、
大坂夏・冬の陣で勝てば今度は(東を守るには)「伊賀を最前線の拠点」にするぞ、とか言われてもなぁ…
伊賀上野の高石垣を見るたびに強く思うのがそこんところ。
太平の世?になったとはいえ、350~400年前の藤堂藩を思うと
外様とはいえ32万石何某かの禄高をもらっていた一大大名の高虎さん。
(ゲスな話、32万石って??
一石は:米2.5俵とか、現在に置換して、一俵:60㎏、2.5俵は約150㎏、金額にして30万円。
大人一人が一年間に食べる量が一石とも言われ、
藤堂藩三二万石=4千800万kg=96億円・・・メッチャ金持ちではないかとは知人の話)
詳しくはコチラ「石高ランキング

さてさて、そこで伊賀藤堂藩の「加判奉行/加納藤左ヱ門(直盛)」ってどこにお住まいだったのか…
伊賀ではあまり多くを語られていないのはなんでやろ?と素朴な疑問を持ちつつ、
福井健二氏著の「上野城と城下町」の古地図から
 慶安年間(1648-52)
「加判奉行/加納藤左ヱ門」のお住まいは城下東南隅。
その「下屋敷」は「忍町」に見つけました。
忍者データベースでは「伊賀加判奉行として1800石を有し『伊賀者』を創設した方のようですから、
「同じく石田清兵衛」さんもおられる。(地図では三郎左衛門ですが)

 元禄年間(1688-04)
加納名なくなる…


そして、加納さんの嗣子(跡取り息子)直堅さんの残念なお話は…
要するに「疑獄事件」に巻き込まれたとしか言いようのない歴史が書かれておりました。
以下、
岸宏子著「江戸管理職哀歌」藤堂藩伊賀城代家老の日誌より
大阪道頓堀の祖・銅山疑獄事件・汚職の責任のとり方、とらせ方
としてまとめてみました。
なぜこのような形になったかと言い訳をしますと、
先ず「岸宏子」さんの著書は大方が廃版もしくは絶版になっており、
読みたいと思っても図書館へ足を運ぶしかない状況でした。
これは何としても手に入れたいと思ったので、
最近のネット「古本屋」で探したわけです。
なんと運よく見つけることが出来、手配してもらったのが7/22、届いたのが7/24。
凄い早業だと有難く感謝しています。
  

届いてから気になる部分を読み出しますと、これがなかなか面白い。
なんというかまさに「管理職はツラいよ…」みたいな話がてんこ盛り。
岸さんの御本ってほんとうにおもしろい、もちろんテレビドラマでもいろいろ見た記憶もありますが、
遠に忘れていること多々。
そういえばこんなドラマもありましたよ、同じく「藤堂家城代家老の日誌より/不熟のとき」(NHKドラマスペシャルより)
あんなことこんなこと思い出す良い機会を与えてくれたのが…
「美旗新田水路」と「加納神社」見学だったわけです。

名張では大絶賛され「加納大明神」として祀られている加納藤左ヱ門さま、
伊賀では余程のことがない限り、一言「世俗ニ日請(いわくうけ)銅山事とハ是ナリ」です。
これは「備中石塔山の銅山開発事件にからまる一大疑獄事件であった」ということ。
顛末を読んでいるとこれはどうしても自分なりに岸さんの本を通じて記憶に留めておきたいし、
現在でもニュースなどをみていると「あるある事件」だなぁと、
背中がゾクゾクッとするお話、今も昔もよくある「トカゲのしっぽ切り話」だった…

まとめるのに、少々時間を要してしまいました。

最後に、偉大なる大仕事をやってのけた加納父子ですが、
ちゃんとお墓もあって、その隣には「顕彰板碑」もあります。
そこをお伝えして、この話は「完」とさせていただこうかと思います。
  

藤堂玄蕃さまの墓所でもあります。
 

ちなみに藤堂采女家歴代墓所」はココ

ではまた
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涼をお届け、大暑乗り切り。その2 (鈴鹿スカイラインへ)

2024-07-24 16:03:25 | 花や風景など

珍しい「青土(おおづち)ダム」の越流に梅雨末期の豪雨を思い出しました。
こうやって「自然越流」させることで安全を確保できているのかと…
以前もらった「ダムカード」から
 

こちらは「野洲川ダム湖」側からみた越流部とその流れ、
  

ダム下には親水公園、野洲川ダム説明版。
  
吸い込まれていく様はなかなか壮大な景色、
このダムもこうやって溢れそうな水が自然に流れ出ることで
大きな被害にならずに済んでいるのかな、と。
 

ダムの周遊路を歩いていると目線の下に「カラスザンショウ」(ミカン科!)か、
ネムノキかと思ったら全然違いました💦💦


山裾辺りで「マムシグサ」もぼちぼち緑の実を付け出してますね。(気を付けてね


ここからどんどん野洲川源流に向かって上っていきます、いわゆる
鈴鹿スカイライン」(Wikipediaより)ですね。昔有料、今無料、おまけに九十九折スリリングロード。
まっ、山越えは涼しかろうと絶景求めて?行ってみました。
県境越えたところの「展望台」往復ドライブですけどね(笑)。

では・・・
先ず往路は、どこら辺に駐車帯があって、どんな景色なんだろうと
想像しながら走るつもりで、運転手は初スカイラインなので慎重です。
ほぼ急カーブ、急上昇なのでスピードは出せません。
ほぼ減速帯ばかりと思った方がいい。
途中、滋賀県は山ばかり、駐車場は所々にあり。
滋賀側最初の大きな駐車場から、すでに遠目に四日市の景色です。🚙多し、流石夏休み!
  
遠いですが目の前に迫る感じの山並み、所々「巨岩」見え隠れ。
途中、眼下に野洲川源流も見え隠れ、峠「武平(ブヘイ)峠」はどこかと思っているとトンネルに遭遇。
そこにも駐車場がありますが、往路はスルー。
やがて「滋賀県/三重県」の県境を越え、やや走ると
口コミなどによく出てくる岩場の「展望台」。
  
数メートル上の岩場によじ登る、
そして見える景色、直下にやはり減速帯付急カーブ。
少し靄ってますが、四日市のコンビナートが薄っすらと見える、かな。
もっとよく晴れていたら「海」も見える、はず。
 展望台という名の岩場(笑)。

これ以上進んでしまうと菰野町に下りてしまうので、ココ迄。
遥か上方に「御在所ロープウェイ」かと思いましたが、建物の屋根が精いっぱい💦
写真は撮ってません。

復路、先ほどのトンネルを越えて登山者らしき人が多く見えたら、
そこには小さめの駐車場。
なるほどね、こういう登山者のための駐車場があちこちに点在しているんですね。
景色を見るためというよりは効率よく登山するための場所なんでしょう。
  

 

再び滋賀県側、ここも行きに気になったところ、
水着を着た子どもたちがいたので、一体どこで川遊びしてるんだろうと??
狭いけど、駐車場あり、橋も見え、そこを渡って下方見ると
 
なるほど、ここなら安心して水遊びもできるし、バーベキューもできる、
そんな隠れたスポットがあったんですね。
これはね、もう夏休み涼しく過ごすためにはぜひおススメしたいところですね。
わざわざ高いところまで行かなくても、この上流域の水穏やかで、
小石、砂地のここはサイコーなんじゃないかと

鮎河といい、このスカイラインといい、伊賀より遥かに涼しく、
ドライブも兼ね、魚も取りつつ、ゆったり山間の景色と水遊び、

いい場所を探せたなと、大人は景色を堪能すればいい。
日々の憂さも晴れますよ、きっと。

そして、帰り道、もひとつオマケの「白藤の滝」だったわけです。
 2024/7/21撮影

確か6月にも来た、その時の水量はこんなんでした、
ずい分と水の嵩が増してる気がしました。
  2024/6/2撮影

今回の行程、

越境しましたね(笑)。

ちなみに伊賀木津川系のダムですが
 青蓮寺ダム:2024/7/23撮影

 高山ダム:2024/7/13撮影

大変珍しい「高山ダム竣工4年目」(汽車が走った頃/moni5187様blog)
若々しい?ダムの様子を見せていただきました。
ワタシ自身も幾度となくドライブに行った大好きな場所です。

では、大暑も過ぎました。
ウナギなど高嶺の花です、何を食べてこの暑さ乗り切ろうか、悩む日々。
家族中が夏風邪やらコロナなどでダウンしている中、
「静養には努力も必要」と(移した本人のムスメから)言われて過ごした先週。
治ったらコレっとばかりに伊賀を飛び出してしまいました(笑)。えへっ…

では、予後は大事です、ご自愛くださいね。
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涼をお届け、大暑乗り切り。その1

2024-07-22 11:12:58 | 花や風景など
20240721 16時45分頃「白藤の滝 」で涼をお届け


20240721 12時30分頃 野洲川ダムの越流


青土ダムの越流も久々に、
 

そして亀さんの運命はいかに…
  2024/7/21 11:56

  同日11:58

土山町/鮎河は千本の桜だけではないよ…
夏の水遊びスポットでいかがでしょ、鈴鹿の山々を正面に見て~~
 

 

 

涼を求めて、続きます。(時系列不順)
ではまた

追記、桜の頃(2024/4/3)の「鮎河千本桜」、同じ場所辺り
  

 
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美旗で「新田水路」探検。その3

2024-07-20 00:51:05 | つれづれ思うまま
「美旗古墳群ハイキングマップ」の上部を見て、
今から「新田水路」と並行する「旧初瀬街道」を走ります。
実際に通る道はカラー舗装されているのでわかりやすい。


ここで、簡単に『新田水路』って…いろんな資料を読ませてもらって、
ザっと箇条書きで
*承応3年(1654)藤堂藩の政策として加判奉行であった加納藤左ヱ門直盛は同役の三浦少之介と共に、
 原野の開拓を立案し、藩主の藤堂高次の許可を得て、伊賀地方最大規模の開拓に着手。
*西島八兵衛の指導の元、大池を二つ造り村づくりが始まる。
*明暦4年(1658)頃、大阪の豪商:安井九兵衛が出資する。
*度重なる豪雨で被害甚大となる。延宝元年(1673)加判奉行直盛病死。
*直盛の嗣子直堅(ナオカタ)が加判奉行となり父の跡を継ぎ、池の修復ではなく、
*延宝3年(1675)、第二次計画として新しく「水路」の工事を始めた。
*青山の尼ヶ岳に発する前深瀬川等の水を引くため、約14kmの「水路」の築造。

 
※写真㊟美旗市民センター「歴史資料館」のジオラマより

*約2年を費やし、延宝5年(1678)頃完成したとのこと。
ざっとこんな歴史を持つ一大工事の末の「新田水路」です。

その水路のほんの一部でもいい、見てみたいと…
行程を現実の7/14に戻しまして、旧初瀬街道の途中で
『新田用水の日時計』なるものがありまして、新田水路の歴史の生き証人のようなものかと。
  
「水路」から引かれる水は農家にとっては大切なもので、
新田用水路から各農家の水田に水を入れる時間を決めるのに、
この「日時計」が使われていたそうです。

『歴史ある水路を未来へ』というお話の再掲です。


旧初瀬街道には
  
左)「提側庵ギャラリー」、中)登録文化財で茅葺の「住川家住宅、右)住川さんちのツバメの出入り口。
なんて優しい心遣いなんだろうってほこほこしてました
実際にツバメちゃんが入る様子を見たので余計です(笑)。撮れてませんが💦

さぁ、いよいよ交差点付近、
   

上の水路のある反対側の提に行くと、こちらも
「水路」があり当然水は流れています、そして「桜並木」、春の楽しみですね…
 
そして「旧初瀬街道の常夜燈」。
   

もう少し進むと
情報You記事にもあった猫型?「円形分水筒(工)」。
上から見ないとわかりませ~ん、実際目の前ではこんな感じです。
   
中を覗くとなるほどねこんな感じで水が流れている、これはぜひ実際に見ていただきたい。
「青蓮寺ダム」からの水と「前深瀬川」の水の供給を調節しているそうです。
1977年に設置されたそう。
 

もう一度「水路」や「桜並木」を
 

青山方面へ
 

もう一つ、名張で唯一湧水がこんこんと溢れるところ…
「竜王水」。湧水は1時間に3.4tってすごい量です。
もちろんとても気持ちよく、長くは浸けてられないほど冷たかったです。
  

ここから近くにある『滝川氏城跡』。


最後に、前方後円墳型の「美旗市民センター」に寄らせていただき、
資料館を見学、日曜日にもかかわらず見せていただけてとっても勉強になりました。
 

実は、加判奉行加納直盛さんのお墓参りもしてきました、次回そのことをもう一回だけ書こうかな…と。
ではまた
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美旗のひまわりと、「美波多神社」そして「新田水路」探検へ。その2

2024-07-18 16:19:28 | つれづれ思うまま
青山出合辺りの「前深瀬川」からの水がここを流れていると教えられ、
えぇっ、そんなんけっこう遠いじゃないですか、
江戸時代にそんな一大工事をしてたんですか?
重機などのない時代、果てのない工事であったことはわかりますが、
正直想像不可能に近い。ともかく一部でも見てみたい…
 
水路から西側、東側。

ここ「みはたメイハンランド」のある場所、実は『毘沙門塚古墳』(リンクは「美旗古墳群」)のあるところ。
多分上空から見たらそれなりによくわかるのでしょうが、
目の前の古墳を見て、まわりには「堀」があるんだなと…ということはわかりました。
解説を読めば
≪5世紀中頃築造、前方後円墳(造りだしあり)、竪穴式石室≫と。
 

同じくこの場所には
美波多神社』があります。中には「加納神社」もあるとか…
さて加納さんてだれ?
   
※≪加納直盛(ナオタダ)公
​慶長十五年(1610) 伊賀上野生まれ
藤堂藩に仕え、伊賀加判奉行職
当時、水の便悪く荒野原であった新田地区の開発に尽力し、用水家としても名を残す。
延寶元年(1673) 六十三歳で病死
現・伊賀市上野寺町の大超寺に墓所がある。≫
(お参りに行かねば…
また上野城下町絵図にもちゃんとお屋敷がございました。そして、
加納藤左ヱ門直盛)さま、なんと加判奉行として「伊賀者」の創設者だったとは…

   
中)これは『かけひ(樋)』というもの。詳しくは美波多神社/御案内ページで。
※新田水路と川が交差するところに使われたものだそう。

お参りも終わって、もう一度
「美旗古墳群ハイキングマップ」を眺め、
 
青山方面を見るも、曇天の中で「尼ヶ岳・大洞山」を探すのは難しいなぁ💦
 
と思っていたら、15時16分まさかのアーバンライナー通過、見えるかな?
撮り鉄ウーマンではないのでまったく上手く撮れませんが、
ここに一日いたらきっとたまにはいい写真が撮れるのではないかと思ったり(笑)。
電車が目的で来たわけではない、
たまたまの副産物が電車 だったというオマケみたいなものです。

一旦、ここで中休みを、というのも、
加納藤左ヱ門直盛・直堅父子を調べていたら、
いろいろ知らないことがたくさん出てきたので、ちょっと整理する必要があるなと…
中途半端でごめんなさいですが、
各種資料で誤魔化すワタシ・・・
※「美濃波多新田開発のあゆみ」(名張市史より)

※「広報なばり/2013/8月号」転記↓
 

※「美旗の新田開発」(みのりみのるプロジェクトより)

※「名張の沃野(よくや)をうるおす新田水路」(あおやま風土記より)

※「美旗地区の初瀬街道と新田水路」(なばり四季のブログより/教えてガイドさん)

ではつづく、暑さで頭が混乱してきたので中休みです💦
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美旗(名張市ミハタ)でひまわり、そのまま「新田水路」探検へ。その1

2024-07-16 15:16:34 | 花や風景など
情報You記事を目にしたので、これは今でしょ!
午後のお出かけでしたが、意外や意外の充実ミニ探検になりました。

まずは美旗駅近く「みはたメイハンランド」を目指して、その駐車場に車を止め、
遠景に黄色い層のようになっているところが見えるので、多分あれが「ひまわり」。


と、そこへ行く前にここの「広大な畑」になみなみと水が流れる「水路」がありました。
 
先ず、ここで「水路探検」が始まりますが、
歩きながらこの「水路の歴史」を聞いており、
江戸時代に遠く青山の「前深瀬川」から取水し、
ここまで水を流すための一大工事が行われていたと。
いやいやちょっと待って、そんな工事を誰がするねん?と
話は続きそうなので、まずはその水路の一部が「近鉄本線の上を通っている」とか。
は?それもまた奇怪なはなし、俄かには信じられませんが、その証拠があると…

おっと、アーバンライナーが通る…
 
左)大阪方面から、右)伊賀神戸方面へ
この写真を撮っている橋というか歩道というか、その下が見えないけど「水路」って
信じられないですよね。

  
この「水路」を少し離れた場所から撮ると…わかっていただけるかな?
電車の線路の方がはるかに新しいので昔は獣道のような道があったのか、
はてさてどんな経緯でこうなったのかは知る由もないのですが、
名張の語り部さんに聞いてみる必要はあるかもですね。

では、「ひまわり畑」へ
訪問日は2024/7/14の午後で、曇天。
青空でのリベンジが生るかどうかはわからない。
ひまわりは元気に咲いてくれているのでビタミンカラーに元気をもらいます。
 

 

  

  
14時50分ごろ、アーバンライナーか


「ひのとり」、14時51分通過。
一瞬のことなので「ひのとり&ひまわり」は撮れず💦

 
ここは「田園歴史文化/ミュージアムの里」(美旗まちづくり協議会)。

 
「段々のひまわり畑」だなぁと見ていたら、今度は快速電車か、14時56分通過。

さすが近鉄本線、忙しいのなんのって、
ひまわりと電車に大わらわでしたわ

追記記事
時系列ちょっと遡って…

近鉄本線上の水路からどれどれ?と覗いたら、すぐにやってきた電車があります。
これは、今日(7/16)になって調べた結果報告みたいなものですが、実は
近鉄電車ミャクミャクラッピング車』が一瞬のうちに通過していきました💦
そんな電車があるとは知らなかったし💦
スマホを構える間もなかった出来事。
多分、来年の万博に行くことはないけど、
珍しいもの見たな!という記憶は残るので
・水玉・近鉄」のキーワードで検索すると出てきたのが「ミャクミャクさん」だった(笑)。

伊賀鉄道界隈に住んでいて、最近近鉄電車に乗る機会のないワタシとしては、
必死に探したくなる強烈な色彩の電車でした。
緑の田園風景のなか、
もう一度見てみたい気はしています(どこまでもミーハー仕様なワタシなので)。

HPでは
「大阪・関西万博オリジナルデザインのラッピングトレイン」について
▽運行期間
2023年 11月 30日(木)から2025年10月13日(月)まで(予定)

▽運行区間
主に近鉄奈良駅 ~ 神戸三宮駅間
主に大阪上本町駅 ~ 伊勢中川駅間

▽対象列車
9820系 6両1編成
5820系 6両1編成


こんな電車を水路の上から見ました✋。
(2024年7月3日 4:00 Web日経記事から)

では続き「新田水路探検」はまた。
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梅雨のひととき、カエル三兄弟に出会い、木々の変化を愉しむ。

2024-07-14 00:41:30 | 上野森林公園
カエル三兄弟に出会い、
 

背中で語り、目を合わせ
 

こちら多分ニイニイゼミ、多分抜け殻。
でも、うるむ瞳に見えたのは気のせい?
  

色彩を楽しむより、花のカタチに驚く…
アカメガシワ雌花らしい。いずれ黒い実ができてくると思う。
 

新旧の「実」同時に成る、「ヒメヤシャブシ
 

「エゴノキの実」を食すヤマガラ(過去FB)
たまたま、落ちてた「エゴノキの実」の変遷


エゴノキの花はこんなん

今の時期、ネムノキは外せないなぁ、
でもボチボチ落花も多し。
川の傍の車道で大木があって、ピンクの花が咲いてて、
その下が汚れてるこ部分、多く見かけるようになってきました💦
ネムノキの花が大量に落ちてますね、花の命は短くて…かなぁ。
  

ビジターコテージ、ちょっと雰囲気変わった?


紫陽花の小道、


コブシに実が、
コブシの花
 

こちら「シデコブシ」系の実、
シデコブシの花


街路樹に多く植栽されてる「シマトネリコ」に花、いっぱい。
 

梅雨から初夏の木々の花々、こんな感じに咲いてます。

楽しいよ、見てると(笑)。

ではまた
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再び「神野山(コウノヤマ)」へ、羊に会い、ダム経由で残念石とは?

2024-07-10 18:07:37 | つれづれ思うまま
もう、ほぼ無鉄砲としかいいようがないのですが、
先般、大雨後にドライブした時の続編のような話です💦
あの時は「目の前の橋が流れにのみ込まれているサマ」に驚いたものです。
布引山地や青山高原・高見山地辺りの木津川の源流域から思うと、
流れ流れてずい分遠くまできたもんですが、
幾つもの川が合流して大河原・笠置辺りに来るので流域の方々にとっては、
大雨のたびに生活道路が封鎖され、さぞ大変な迂回なんだろうと想像していました。

そんな光景を興味本位ではなく、上流域の人間として怖いなぁと眺めていたのです。
まだ梅雨は開けていませんが、雨もさることながら
この激暑・酷暑をどう乗り切ったらいいのかと悩む今日この頃。
先日(6/21)の訪問先を少々並べてみます…もう、過去話です、すでに。

名阪国道山添インター下車、
コロナ禍、野外で人のいないところならいいだろうとあちこち出かけていた頃、
懐かしく思い出す光景ばかりです。

『塩瀬のお地蔵さん』(正式には「塩瀬地蔵坐像」山添村指定文化財)
 
雨後の巨樹に芸術を感じ、そのまま西へ

神野山鍋倉渓」、ここも自然の成せる風景に不思議を感じる。
奈良県景観資産でもあります。
  

   

岩の風景を壊さぬように「ボードウォーク」とでもいうのか、
「木道」があって、それを見ていると微妙なカーブの作り方などに「技」を見た思い。
  

駐車場では、てんまるたちがお出迎え。
 

もう少し先に行くと「雲海絶景スポット」、伊賀盆地を右手に見ゆる。
田んぼの真ん中にいる人、実は案山子です。
見事に騙されました、あまりにリアルで(笑)。

 
うふっ、いよいよ羊さんにご対面。
奥の駐車場から「大和高原一帯」を望む。
 
「めぇめぇ牧場(まきば)」で羊さんの大歓迎を受ける、
いやただただ雑草をムシャムシャハムハムしてるだけなんですが、人が近づくと…
網から顔を出してこの通り。
  


牧場内で場所を変えて、ここには「サフォーク種」の羊さん。自由奔放に駆け寄ってくれました。
いずれ羊肉になるコかなぁ💦
命をいただく。有難く。

場所を変えて、山添村桐山の「わんぱく動物園」にちょい寄り。※公式HPです。
  

近くには「首切り地蔵」とか…
目の前に「ネムノキの花」、まだまだ蕾多し!
  
ネムノキなんて大木が多く、まさかこんな近くで撮れるとは思ってもいなかったので「激写」。

走ること数分、「布引ダム管理事務所」近くで休憩。
腹ごしらえに必死で肝心のダム写真はなし、あれぇ?
振り返れどないものはなくて、ダムカードももちろんもらわなくて、
何やってんだか💦 ショック💦
 

ここでは奈良市内辺りからの小学中学年くらいの子たちの社会見学だったらしく
大きな観光バスで帰るところ、そのバスの後ろを走って途中まで(柳生辺り)同行。
もう少し時間が許せたので、せっかくならということで
「高虎さんの残念石」とやらを見に行くことに。

しかし、
以下の記事を知らなかったので、現場に行って「あれっない?」というトホホ。
「残念石移設のニュース」二題。(帰宅後調べたもの)
「再建に使われず放置400年…残念石移設」(京都新聞2021/1/25)

「大阪城に使うはずだった…」(朝日新聞2023/5/30)

  
本当ならこの場所に竹藪があって、ここに「残念石」が置かれていた・・・と。
変わり果てた景色をしばし眺めていた知人、
河原近くに下りて、対岸を見渡すと…
あったんですよ(笑)、やれ。
しかしデカいなぁ!

今の世ならクレーンなど使って運べますが、その昔どうやって??と考えると…
壮大な船運計画があったんだろうなぁと(想像するしかありませんが💦)

『残念石』とは・・・
≪大阪城の建築にあたって、使わなかった巨石を河原に置いていったものです。
放置したのは安土桃山〜江戸時代の大名の藤堂高虎。
巨石には切り出したクサビの跡がしっかり残っており、歴史的な価値はあります。
運ばなかったので、建設する側にすれば「運べず残念」ですが、
江戸時代の加茂の人にすれば「巨石を川原に置き去りにされて残念」。
今で言うここは京都ですが、伊勢藤堂藩の所領だったのでこんな物が残っていました。≫というお話です。

そして、実はこの巨石。こんな使われ方をするらしいと、お怒りの方々もおられます。
残念石の残念な使われ方」。(東京新聞/2024/1/19付)

最後は、高虎さん絡みでまとまっちゃいました。

 こんなコースで
「恭仁京跡」に印をしたのは、いずれ行きたいなという希望。

ではまた
コメント (6)
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