羽生善治と竜王戦 「19歳2か月 羽生竜王」への道 その2 

2019年05月02日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編
 前回(→こちら)の続き。
 
 若手時代の羽生善治は単に強いだけでなく、盤上盤外での読み筋でも質量ともに周囲を圧倒し、その力を見せつけていた。
 
 その例のひとつが、1987年の棋王戦。
 
 相手はプロ筋でも実力者と評価されている強敵、小野敦生五段
 
 
 
 
 
 
 
 小野の振り飛車に▲62銀△同金▲71銀の教科書通りの「美濃くずし」でせまる先手の羽生。
 
 △92玉▲62銀不成と取った図は、次に▲81飛成からの詰めろが受けにくく(△同玉には▲82金から▲71角△同銀▲93金から▲85桂)、先手玉に詰みはないため羽生が勝ちに見える。
 
 小野は△85桂と、先手からの桂打ちを消しながら迫るが、これが詰めろになっていなかった。
 
 羽生はしっかりと読み切って▲82金、△93玉、▲72金必至をかけ、そこで後手投了
 
 居飛車の順当勝ちだと思いきや、感想戦で羽生はこの局面はまだ難しいのではと語りだして、周囲をおどろかせる。
 
 受けても一手一手に見える後手玉は、△82銀と打てばしのいでいるというのだ。
 
 そんなもの、▲71銀不成と入って全然意味がないではないか、と検討している棋士たちが指摘するが、羽生は、
 
 
 「△93玉と逃げて詰みはない」
 
 
 そう、この先手勝ちに見える局面で、並みいる棋士たちを押さえて羽生だけが「後手勝ちでは」と感じていた。
 
 具体的には、図から△79角▲78玉△41歩▲同飛成(これで▲39歩の受けを消している)と下ごしらえをしてから、△82銀と打つ。
 
 ▲71銀不成で受けがないようだが、かまわず△47と、と取って、▲82銀成△93玉とかわすと、後手玉は詰まず、先手玉は受けなしで「オワ」。
 
 
 
 
 
 
 
 これを指摘されたとき、小野はどんな気持ちだったろう。
 
 ひと回りも下の少年に負かされたうえに、自分が読んでない手を次々指摘され
 
 
 「投了するの、ちょっと早かったんじゃないですか?」
 
 
 とおさまられたら。
 
 私なら「そうでっか……」としか言いようがない。
 
 こういうのを対局感想戦で「2度負かす」というが、やられたほうはたまったものではあるまい。
 
 羽生の強さは、ただ勝つだけではなかった。
 
 盤上だけでなく盤外でも、こういう「の違い」を見せつけ、周囲に特別の存在だと思わせる「羽生ブランド」を築きあげたことにあるのだ。
 
 この時期、羽生の将棋を観た中原誠名人が、こう言ったそうだ。
 
 
 「谷川君の時代も長くないね」
 
 
 名人は軽い気持ちで言ったのかもしれないが、こういう一言が伝説に彩りをそえるわけで、
 
 
 「レジェンドが認めた」
 
 「羽生の強さは本物」
 
 
 ますます注目を集めることとなる。
 
 このように、プロになるなり早くも「実力最強」の評価を得た羽生善治だが、意外なことにタイトル戦にはなかなかがなかった。
 
 王将リーグ王位リーグにも入っていないし、本戦トーナメントでは安定してベスト8くらいには行くものの、そのをなかなか破れない。
 
 挑戦者決定戦にも出たことがないのは、当時の勝ちっぷりとくらべると歯がゆいところがあった。
 
 なもんで、若手時代の羽生は「無駄勝ちが多い」と言われ、
 
 
 「実は勝負弱いのではないか」
 
 
 なんて、今考えればありえないような推測も呼んだりしたが(だから「今の評価」なんて案外アテにならないものです)、これもまた羽生への期待値が高いゆえのことであろう。
 
 ふつうの棋士は、デビュー時に「タイトル戦に出ない」ことを不満材料にされないものだ。
 
 そんな羽生がようやっと大舞台に登場したのが、1989年の第2期竜王戦
 
 予選3組優勝すると、決勝トーナメントでも強豪の南芳一王将を破るなど、快進撃でベスト4に進出。
 
 いよいよ羽生のタイトル戦が見られるかと期待は高まるが、続く準決勝では大山康晴十五世名人が待っていた。
 
 この2人はのちに
 
 
 「どちらが最強か」
 
 
 で将棋ファンの議論の永遠のテーマになるのだが、この時期はそれ以上にある「因縁」がからむ対決となったのであった。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
コメント
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