前回(→こちら)の続き。
若手時代の羽生善治は単に強いだけでなく、盤上盤外での読み筋でも質量ともに周囲を圧倒し、その力を見せつけていた。
その例のひとつが、1987年の棋王戦。
相手はプロ筋でも実力者と評価されている強敵、小野敦生五段。
小野の振り飛車に▲62銀、△同金、▲71銀の教科書通りの「美濃くずし」でせまる先手の羽生。
△92玉に▲62銀不成と取った図は、次に▲81飛成からの詰めろが受けにくく(△同玉には▲82金から▲71角、△同銀は▲93金から▲85桂)、先手玉に詰みはないため羽生が勝ちに見える。
小野は△85桂と、先手からの桂打ちを消しながら迫るが、これが詰めろになっていなかった。
羽生はしっかりと読み切って▲82金、△93玉、▲72金と必至をかけ、そこで後手投了。
居飛車の順当勝ちだと思いきや、感想戦で羽生はこの局面はまだ難しいのではと語りだして、周囲をおどろかせる。
受けても一手一手に見える後手玉は、△82銀と打てばしのいでいるというのだ。
そんなもの、▲71銀不成と入って全然意味がないではないか、と検討している棋士たちが指摘するが、羽生は、
「△93玉と逃げて詰みはない」
そう、この先手勝ちに見える局面で、並みいる棋士たちを押さえて羽生だけが「後手勝ちでは」と感じていた。
具体的には、図から△79角、▲78玉、△41歩、▲同飛成(これで▲39歩の受けを消している)と下ごしらえをしてから、△82銀と打つ。
▲71銀不成で受けがないようだが、かまわず△47と、と取って、▲82銀成に△93玉とかわすと、後手玉は詰まず、先手玉は受けなしで「オワ」。
これを指摘されたとき、小野はどんな気持ちだったろう。
ひと回りも下の少年に負かされたうえに、自分が読んでない手を次々指摘され
「投了するの、ちょっと早かったんじゃないですか?」
とおさまられたら。
私なら「そうでっか……」としか言いようがない。
こういうのを対局と感想戦で「2度負かす」というが、やられたほうはたまったものではあるまい。
羽生の強さは、ただ勝つだけではなかった。
盤上だけでなく盤外でも、こういう「格の違い」を見せつけ、周囲に特別の存在だと思わせる「羽生ブランド」を築きあげたことにあるのだ。
この時期、羽生の将棋を観た中原誠名人が、こう言ったそうだ。
「谷川君の時代も長くないね」
名人は軽い気持ちで言ったのかもしれないが、こういう一言が伝説に彩りをそえるわけで、
「レジェンドが認めた」
「羽生の強さは本物」
ますます注目を集めることとなる。
このように、プロになるなり早くも「実力最強」の評価を得た羽生善治だが、意外なことにタイトル戦にはなかなか縁がなかった。
王将リーグや王位リーグにも入っていないし、本戦トーナメントでは安定してベスト8くらいには行くものの、その壁をなかなか破れない。
挑戦者決定戦にも出たことがないのは、当時の勝ちっぷりとくらべると歯がゆいところがあった。
なもんで、若手時代の羽生は「無駄勝ちが多い」と言われ、
「実は勝負弱いのではないか」
なんて、今考えればありえないような推測も呼んだりしたが(だから「今の評価」なんて案外アテにならないものです)、これもまた羽生への期待値が高いゆえのことであろう。
ふつうの棋士は、デビュー時に「タイトル戦に出ない」ことを不満材料にされないものだ。
そんな羽生がようやっと大舞台に登場したのが、1989年の第2期竜王戦。
予選3組で優勝すると、決勝トーナメントでも強豪の南芳一王将を破るなど、快進撃でベスト4に進出。
いよいよ羽生のタイトル戦が見られるかと期待は高まるが、続く準決勝では大山康晴十五世名人が待っていた。
この2人はのちに
「どちらが最強か」
で将棋ファンの議論の永遠のテーマになるのだが、この時期はそれ以上にある「因縁」がからむ対決となったのであった。
(続く→こちら)