池内紀先生が亡くなった。
ドイツ文学者であり、フランツ・カフカやギュンター・グラス、カール・クラウスの翻訳や、エッセイなど文筆の世界でも活躍された方。
私も学生時代にドイツ文学を学んでいたことと、また読書と銭湯、それにお酒と山登りと旅を愛する自由な作風に大きな影響を受けたこともあって、このニュースには少なからぬショックを受けたのであった。
池内先生の著作に初めて触れたのは、まだ高校生のころだった。
エルンスト・フーケ―『水妖記』や、ショーペンハウエル『読書について』。
ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々 精霊物語』、E・T・ホフマンの『黄金の壺』にエーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
などを読んで、ドイツ文学科に進学することを決意していた私は、なにかそれに関連する本をもっと、と本屋で見つけたのが先生のものだった。
それが、池内紀『ぼくのドイツ文学講義』。
池内流のカフカ解釈
「『変身』は良質のシチュエーション・コメディである」
をはじめ、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク、ヨアヒム・リンゲルナッツ、ヴァルター・ベンヤミンなど、多くの魅力的な作家や詩人をこの本で知ることができたが、それにもまして魅了されたのが、池内先生の文章自体だった。
独特の乾いたような、それでいて飄々としたところもある文体は、妙にユーモラスでもあり、先生の紹介するドイツの偉人に勝るともおとらぬ魅力があった。
『遊園地の木馬』『出ふるさと記』『悪魔の話』『幻獣の話』『モーツァルト考』『カフカのかなたへ』『ゲーテさんこんばんは』『町角ものがたり』『姿の消し方 幻想人物コレクション』etc.
特にお気に入りだったのが、『恋文物語』と池内訳のヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』。
ロートの『四月、ある愛の物語』は、なんてことない小品だが、こんな美しい小説があるのかと、その訳文のすばらしさもあいまって魂にズドンと来た。
当時の私は気に入った作家の文章をノートに筆写するクセのようなものがったが、坂口安吾『風博士』や中島らも「サヨナラにサヨナラ」と並んで、ロートの小説もそのラインアップに入ったのである。
池内先生の言葉に、こういうものがある。
「わたしは実際の生活よりも、本の中のほうからより多くの友人を得た」
私は金もないし、出世や名誉に縁もないし、たいしてモテもしない。
それでも自分では「そこそこ楽しく」やっているように思えるのは、たとえボンクラだろうがスカタンだろうが、先生と同じく書物を愛し、そこから「多くの友人」を得ているからだろう。
だから今夜は池内紀の本を読みながら過ごすことにしたい。
最初の一冊をどれにするかは、すでに決めている。それは、
『戦争よりも本がいい』
ロートやツヴァイク、ヘッセにマン兄弟らを故郷から追い出したような、人種差別、ヘイト、国家主義民族主義的思想が可視化され「良し」とされる世相の中、この「友人」たちのことを忘れないようにすること。
それこそが私の人生に多くのものをあたえてくれた、池内先生への「返歌」だと考えているからだ。