「《現代アート》とはお笑いのボケである」とパオロ・マッツァリーノは言った

2020年07月13日 | うだ話
 「現代アートというのは、お笑いでいう『ボケ』なんですよ」
 
 そう喝破したのは、日本文化史研究家で『反社会学講座』『昔はよかった病』などの著作でも有名なパオロ・マッツァリーノさんであった。
 
 なんてはじめてみたきっかけは、少し前に地元の焼き鳥屋で一杯やっているとき、後輩アビコ君がこんなことをたずねてきたからだ。
 
 「現代アートって、どうやって鑑賞したらいいんですか?」。
 
 はて面妖な。アビコ君はふだん、スポーツとギャンブルを愛するガテンなタイプで、そういった文化系の趣味など縁が遠い男。
 
 それが唐突に芸術とか、ははーん、さては女の影響だなとアタリをつけてみたところ、
 
 「そうなんすよ、先輩。彼女が現代アートとかいうのにハマってて、困ってるんスよ」。
 
 ビンゴであった。彼は最近、彼女ができたのだが、くだんの女性が友人に誘われて「現代アート展」なるものを観に行ってから、話題の中心がもっぱらそこになっているのだという。
 
 それ自体は優雅な話であり、芸術で心を豊かにするというのはいいことだとは思うのだが、いかんせんアビコ君は、そういう素養がゼロ。
 
 なんといっても我が後輩は、アート系の友人と話していて、レンブラントやフェルメールを
 
 「日本ハムファイターズの助っ人外国人」
 
 とカン違いし、「ゴッホといえばさあ」と、流れでだれかがいったとき、
 
 「龍角散か」
 
 と答えた伝説の男である。アートなど、引越センターしか浮かばないのだ。
 
 そんな男が、彼女と「アート展」なるものに行って困惑するのも無理はなかろう。
 
 アートとのつき合い方といえば、私は大阪芸術大学に通っていた友人が多いから、その手のイベントには、いくつか行ったことはある。
 
 そこは実に多種多様な「アート」で埋めつくされており、絵画あり、彫刻あり、オブジェありと、なんともにぎやか。
 
 もちろん、まったく理解などできない。
 
 なめられてはいかんので、そこは渋面を作り、いかにも芸術を堪能しているようなふりを、仲代達矢並の演技力で周囲にアピールしているが、内実は、
 
 「これの、どこがおもろいねん」
 
 頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
 
 そりゃそうであろう。こわれた自転車の上にコーヒーカップを置いて「英雄の凱旋」。
 
 空き缶でピラミッドを作って「苦悩する静物」とか言われても、こっちはチンプンカンプンである。
 
 「そうでしょ、あんなん全然わからんでしょ。さすが先輩、話が合いますねえ」
 
 龍角散に、そこを「合う」といわれるのも、私としても不本意だが、まあ言いたいことはわかる。
 
 わけのわからん会場に連れていかれて、ちっとも理解できないうえに、横では彼女が、
 
 「ステキね。こういう才能って、なんだか、あたしをちがう世界へと連れて行ってくれる気がするの」
 
 などとほざい……もとい、ウットリ語っているのを見せられた日には、どうも反応しようもない。「そうでっか……」と。もちろん、
 
 「おまえ、そんなん言うてるけど、ホンマにわかってるんか?」
 
 なんてセリフは、ぐっとのどの奥に押し戻さなければならないのだ。えらいぞ、男の子。
 
 そこでこう、難敵「現代アート」にどう対処すればいいのか、アビコ君ならずとも悩むところであるが、そのひとつの回答をたたき出してくれたのが、冒頭のパオロさんである。
 
 「現代アート」=「お笑いの『ボケ』」
 
 この方程式からはじき出される答えとは?
 
 
 (続く→こちら
 
 
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