「現代アートというのは、お笑いでいう『ボケ』なんですよ」
そう喝破したのは、日本文化史研究家で『反社会学講座』『昔はよかった病』などの著作でも有名なパオロ・マッツァリーノさんであった。
なんてはじめてみたきっかけは、少し前に地元の焼き鳥屋で一杯やっているとき、後輩アビコ君がこんなことをたずねてきたからだ。
「現代アートって、どうやって鑑賞したらいいんですか?」。
はて面妖な。アビコ君はふだん、スポーツとギャンブルを愛するガテンなタイプで、そういった文化系の趣味など縁が遠い男。
それが唐突に芸術とか、ははーん、さては女の影響だなとアタリをつけてみたところ、
「そうなんすよ、先輩。彼女が現代アートとかいうのにハマってて、困ってるんスよ」。
ビンゴであった。彼は最近、彼女ができたのだが、くだんの女性が友人に誘われて「現代アート展」なるものを観に行ってから、話題の中心がもっぱらそこになっているのだという。
それ自体は優雅な話であり、芸術で心を豊かにするというのはいいことだとは思うのだが、いかんせんアビコ君は、そういう素養がゼロ。
なんといっても我が後輩は、アート系の友人と話していて、レンブラントやフェルメールを
「日本ハムファイターズの助っ人外国人」
とカン違いし、「ゴッホといえばさあ」と、流れでだれかがいったとき、
「龍角散か」
と答えた伝説の男である。アートなど、引越センターしか浮かばないのだ。
そんな男が、彼女と「アート展」なるものに行って困惑するのも無理はなかろう。
アートとのつき合い方といえば、私は大阪芸術大学に通っていた友人が多いから、その手のイベントには、いくつか行ったことはある。
そこは実に多種多様な「アート」で埋めつくされており、絵画あり、彫刻あり、オブジェありと、なんともにぎやか。
もちろん、まったく理解などできない。
なめられてはいかんので、そこは渋面を作り、いかにも芸術を堪能しているようなふりを、仲代達矢並の演技力で周囲にアピールしているが、内実は、
「これの、どこがおもろいねん」
頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
そりゃそうであろう。こわれた自転車の上にコーヒーカップを置いて「英雄の凱旋」。
空き缶でピラミッドを作って「苦悩する静物」とか言われても、こっちはチンプンカンプンである。
「そうでしょ、あんなん全然わからんでしょ。さすが先輩、話が合いますねえ」
龍角散に、そこを「合う」といわれるのも、私としても不本意だが、まあ言いたいことはわかる。
わけのわからん会場に連れていかれて、ちっとも理解できないうえに、横では彼女が、
「ステキね。こういう才能って、なんだか、あたしをちがう世界へと連れて行ってくれる気がするの」
などとほざい……もとい、ウットリ語っているのを見せられた日には、どうも反応しようもない。「そうでっか……」と。もちろん、
「おまえ、そんなん言うてるけど、ホンマにわかってるんか?」
なんてセリフは、ぐっとのどの奥に押し戻さなければならないのだ。えらいぞ、男の子。
そこでこう、難敵「現代アート」にどう対処すればいいのか、アビコ君ならずとも悩むところであるが、そのひとつの回答をたたき出してくれたのが、冒頭のパオロさんである。
「現代アート」=「お笑いの『ボケ』」
この方程式からはじき出される答えとは?
(続く→こちら)