「神武以来の天才」花開く 加藤一二三vs中原誠 1982年 第40期名人戦「十番勝負」 その2

2020年08月01日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1982年の第40期名人戦

 中原誠名人に挑戦したのは、加藤一二三十段だった。

 

 「神武以来の天才」

 

 と呼ばれ、加藤時代が来ることに、微塵も疑いを持たせなかったはずが、大山康晴中原誠という、新旧の壁にはばまれることに。

 これまで2度の挑戦はどちらも完敗だったが、「終わった」と思ったところに、もう一度チャンスが舞いこんだ。

 そもそも棋士もファンも、その好き嫌いはあれ(加藤はそのキャラクターから将棋界でも浮いた存在で、昔の記事だと「ヒール」と書かれたりしている)加藤一二三が

 

 「一度は名人になるべき男」

 

 と認めているのは間違いない。

 しかも、このころ中原は棋士人生初にして、最大ともいえる不調にあえいでいたこともあり(最大で五冠王だったのが、この後無冠に転落している)、シリーズはまれに見る大混戦になるのだ。

 まず、開幕戦がいきなり持将棋

 これだけでも風雲急を告げる雰囲気が伝わるが、その後は中原勝ち、加藤勝ち、中原勝ち、加藤勝ちと星を分け合って、第6局千日手

 この指し直し局で、加藤が力を見せる。

 相矢倉から、後手の中原が△43金左と上がる、今なら高見泰地七段が得意とする形から先行しペースを握る。

 加藤は懸命に受けるが、中原がそのまま押しつぶしそうにも見える。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 

 △69馬とすり寄られて、先手玉は絶対絶命。

 次、△88角成から△79馬一手スキを受けようにも、駒を打つスペースがない。

 後手勝ちに見えるが、ここでうまいしのぎがあった。

 

 

 

 

 

 ▲19飛と引くのが、視野の広い妙手だった。

 遊んでいた駒を活用し、△88角成、▲同玉、△79馬には▲同飛という手を作っている。

 後手もトン死の筋があるから、うかつに駒は渡せない。

 ただし、局面自体はまだ中原の勝ちで、以下△88角成▲同玉△79歩成▲69飛△78金▲98玉△69と▲96歩

 加藤も懸命の防戦だが、先手玉は風前の灯に見える。

 だが、ここで中原にミスが出た。

 

 

 

 △82香と打ったのが、王様の脱出路を消して自然に見えたが、敗着になってしまった。

 ここでは△86歩や、△75飛を補充する筋をからめていけば、まだむずかしかった。

 この次の手を、中原は見えていなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ▲97角と放つのが、見事な切り返し。

 これが自玉の詰みを防ぎながら、遠く後手玉をにらんだ攻防手。

 放置すると、▲41銀△同玉▲52角△32玉▲43角成△同玉▲42金△同玉▲74銀と、空き王手で飛車を取って詰むという「詰めろ逃れの詰めろ」になっている。

 それを察知した中原は、とっさに△81飛と、詰めろ逃れの詰めろのお返しをするが、▲41銀(!)というタダ捨てのカッコイイ手があった。

 △同飛と詰めろを解除してから、▲74銀で勝ち。悲願の名人位にあと1勝とせまる。

 ただし、中原の名人10連覇(!)にかける執念もすさまじく、カド番の第7局をはね返し、決戦になった第8局はまたも千日手に。

 もつれにもつれたシリーズは、ついに「第10局」に突入。

 まさかの再々延長戦に、スケジュール調整がむずかしくなりすぎ、最終局は東京将棋会館で行われることになったが、ともかくも、今度こそ勝負をつけるときがきた。

 指し直し第8局は、加藤が先手から、両者おなじみの相矢倉

 中盤で中原がリードを奪うも、やはり調子があがらないままなのか、明快に優勢にする順を逃し混沌としてくる。

 そして最終盤が、あまりにも有名な局面。

 

 

 難解な戦いが続いていたが、検討していた加藤治郎名誉九段が、

 


 「ちょっと待て、詰むぞ!」


 

 さけんだそうだ。なら、ここで▲52同角成と取れば、先手が勝ちである。

 以下、△同金▲32銀成と取って、△同玉▲52飛成で詰みだから、△12玉と逃げて、▲22金△同銀▲同成銀△同玉

 

 

 

 次の一手が好手で、見事な詰みだ。

 当時の観戦記によると、詰みを見つけた加藤が奇声を発したとあるが、その気持ちは痛いほどわかる。

 

 

 

 

 

 ▲31銀と打って、ついに「加藤名人」が誕生した。

 ここで単に▲52飛成は、△32金で詰まない。

 から入って、△同玉▲32金として、王様を一路ずらせば「一間竜」の筋で簡単だ。

 これで初挑戦から苦節22年。ついに歴史の針は、正しい位置に戻った。

 ただ、実はこの裏には、知られざるドラマもあった。

 のちの取材で、加藤は相手玉の詰みが見えておらず、なんと自陣を受ける手をずっと考えていたと語っている。

 それがどうしても見つからず、しょうがないと「99%負け」を覚悟で「詰まないと思って」敵陣を見たら、なんと偶然に詰みがあったのだ。

 本人も認めるように、加藤はがよかった。

 名人獲得を決める詰みが、まさか形作りの「思い出王手」だったとは……。

 もしここで、なまじ「そこそこ長引かせられそうな手」を発見してしまっていたら、詰みどころか、王手をかける発想すらなく、

 

 「詰んでたのに……」

 

 となった可能性はだ。

 「結果」なんて、必然のように見えて、本当に紙一重の儚いものに過ぎない。

 こうして加藤はギリギリで試練を乗り越えたが、もうひとつのドラマは中原ともうひとり、この結果に呆然としていた青年がいたこと。

 それがその年、A級にあがったばかりの谷川浩司八段だった。

 谷川は子供のころから名人を、それも「中原名人」から奪うことを夢見ていたからだ。

 それが、目の前でひっくり返ってしまった。

 

 「中原誠が名人でなければならないのに!」

 

 悲願の名人位についた加藤一二三と、

 「なにしてくれてるねん!」

 といった新名人からすれば「知らんがな」な憤りを感じていた谷川は、翌年導かれるように七番勝負の舞台で相対する。

 結果は若い谷川勝利。

 「加藤名人」はわずか1年の短命だった。

 同じような速さで、山をかけ登ってきた2人だが、谷川は加藤が22年かかった道程を一瞬で乗り越えてしまった。

 同じ「天才」なのに、その差はなんだったんだろうか。

 それは特に理由などない人生のもつれや、うねりが生む不条理で、あえて言葉にすれば「たまたま」としか、言いようがないものなのだろう。

 私が「結果がすべて」という意見を、軽視こそしないが

 「それだけじゃないよね」

 と感じてしまうのは、こういう「差なんてわずか」なのに生まれてしまう、理屈では説明できない「結果」のせいなのかもしれない。

 

 

 (「ミス四間飛車」斎田晴子のさばき編に続く→こちら

 (谷川浩司「21歳名人」への道は→こちら

 

 

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