藤井聡太「二冠」って、どうすごいの? 「21歳名人」谷川浩司二冠までの道

2020年08月22日 | 将棋・雑談

 藤井聡太棋聖王位も獲得した。

 昨年度、悲願の初タイトルを獲得した木村一基王位から4連勝での奪取で、これで史上最年少の二冠達成。

 最近は、皆様もそうでしょうけど、もはや藤井王位棋聖がなにを成し遂げようが、おどろきもしなくなってしまった。

 ここからどんな記録を打ち立てようと、

 

 「ま、藤井聡太なら、それくらいは」

 

 とか、おさまってしまうのだろう。

 そういや、羽生さんも、そんな感じだったなあ。

 なんて、すっかり偉業にマヒしているというか、「それが日常」になってる感もある藤井フィーバーだが、けど、やっぱり改めて見ると思うわけなのだ。

 いやいや二冠って、そんな簡単になれるもん、ちゃうっちゅーねん!

 ということで、前回は若き日の羽生善治九段の、ビックリするようなポカを紹介したが(→こちら)、今回はそんな羽生九段でも大変だった「二冠」への道について。

 

 藤井聡太二冠のように、若くしてタイトルを取る棋士は、もちろん過去にもいた。

 が、これが複数冠となると、調べてみたら、これが結構皆さん苦労されてることが、よくわかる。

 たとえば、谷川浩司九段がそう。

 谷川といえば、藤井二冠と同じ「中学生棋士」としてデビューし、

 

 「21歳名人」

 

 という冗談みたいなことをやってのけた男だが、「二冠」となると、これがかなり手こずっている。

 まず、そもそも、名人を獲得してのタイトル戦に、なかなか出られなかった。

 当時の谷川といえば、才能に関しては一級品だったが、まだ荒けずりな段階だったと言われている。

 勝率も高いは高いが、羽生や佐藤康光、藤井聡太のような「8割」勝つほどでもなかった。

 それはネットなどない時代、情報がほとんどなく、勉強方法も少なかったせいで、どうしても今の棋士より洗練度を上げるのに不利なところがあったからだ。

 なんと言っても、棋譜を調べるには、わざわざ連盟まで出向かなければならなかったころなうえに、関西所属というハンディもあった(昔は西と東には絶望的な情報格差があったのだ)。

 まあ、これは後に述べる羽生や、渡辺明にも共通しており、渡辺をはじめ、

 

 「昔は良かったなあ、棋譜を並べるくらいしかないから、研究はそれでよかったもん」

 

 といった内容の発言をする棋士も多いが、ともかくも次の名人防衛戦まで、挑戦者になれなかったのはファンのみならず、本人も不本意だったろう。

 1年たって、とりあえず名人戦は、同じ「神戸組」の森安秀光八段の挑戦を退けて現状キープ。

 

 

1984年の第42期名人戦七番勝負。谷川が3勝1敗で防衛に王手をかけての第5局。

谷川が序盤でうまく指していたが、森安も「だるま流」のしぶとさを発揮してくずれず、ここではかなり盛り返している。

△75桂がきびしく先手が受けにくいが、ここでじっと▲33角成としたのが、落ち着いた手だった。

以下、△73桂に▲79玉とかわして、先手玉は意外とねばっている。

「前進流」「光速の寄せ」が売りの谷川だが、実はこういう地味な手に本領があるのではと言われている。

 

 

 足場を固め直して、今度こそ二冠目を目指すぞと、1984年前期、第44期棋聖戦で、ようやっと名人戦以外の挑戦権をつかむ。

 相手は当時、棋聖に加えて王将棋王のタイトルを保持し、

 

 「世界一将棋の強い男」

 

 と称された米長邦雄三冠

 名人と三冠王の対決ということで、かなり注目度は高かったそうだが、結果は3連勝で米長があっさり防衛

 将棋の内容も、米長が「前進流」で強く踏みこんでくる谷川の切っ先をヒラリとかわす戦い方に終始しており、スコア的にも作戦的にも先輩にいなされた格好だった。

 

 

 名人と三冠王の「最強者対決」第1局。

 相矢倉から、谷川の猛攻をしのいで、反撃の手筋一閃。

 先手は4枚矢倉の堅陣だが、この一撃からあっという間に崩壊してしまう。

 

 

 こうして二冠の夢を断たれた谷川は、その後はタイトル獲得どころか、中原誠王座名人を奪われてしまい無冠に。

 同年度の1985年、第11期棋王戦桐山清澄棋王に勝利し、名人以外のタイトルを初めて手にするも、翌年、高橋道雄王位に敗れて、またも無冠

 トップに立つどころか、なんと後ろから追ってくる立場だった高橋に、追い抜かれる形になってしまった。

 高橋道雄王位棋王と、谷川浩司九段

 私が将棋に興味を持ったのが、ちょうど「谷川棋王」のころ。

 もちろん名人経験者であることも知ってたから、そんな人が「九段」表記になったのには、メチャクチャ違和感があったものだ。

 まあ、このときの高橋道雄はのように強かったから、別におかしくはないんだけどさ……。

 このくらいまでの谷川は、まだ安定感に欠けていた印象もあったが、たくましくなってきたのは、このあたりからだったろうか。

 ゼロから再スタートになったが、心境の変化などもあり、ほどなくスランプを脱出。

 翌年の王位戦で挑戦者になり、苦戦していた高橋道雄相手に、

 

 「全局、違う戦法で戦う」

 

 と宣言。振り飛車穴熊を採用するなど遊び心も発揮し、4勝1敗のスコアで奪取。無冠を返上する(→そのときの模様はこちら)。

 返す刀で棋王戦でも挑戦者になり、やはり高橋を破り、棋王も獲得(→そのときのハプニングはこちら)。

 これでようやっと、念願だった複数冠達成だ。

 谷川はその後、中原から名人を奪い返し三冠王になるが、ここまでの道のりは、その実力を考えればかなり長かった。

 それだけタイトルホルダーになるということが、むずかしいという証明でもある。

 あの谷川浩司ですら、二冠獲得に初タイトルから4年、デビューからは11年もかかったのだ。

 18歳で二冠になった藤井聡太が、いかにスゴいことをやってのけたか、実によくわかるではないか。

 

 (羽生善治「二冠」への道編に続く→こちら

 

コメント (2)
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