「ここで1手、落ち着いた手を指せれば勝てましたね」
というのは、駒落ちの指導対局で負けたときなどに、よく聞く言葉である。
将棋で難しいと感じる場面は多々あって、定跡がおぼえられないという人もいれば、終盤の詰むや詰まざるやが、読めないという人もいるだろう。
その中で、やや地味なものでは、こういうのもある。
「中盤から終盤の入口あたりで、ハッキリ優勢だけど、それをどうキープして勝ちに結びつけるか見えにくい」。
将棋というのは
「優勢なところから勝ち切る」
というのが大変なゲーム。
「はい、この局面は、あなたがリードしています。では、ここからそれをキープして、ゴールまで走ってください」
突きつけられると、具体的な手が見えないし、
「勝たないといけない」
「これで負けたら恥だぞ」
なんていう、いらんプレッシャーも感じるし、相手は一度死んだ身だから捨て身の勝負手や特攻をかけてくるしで、もう頭はクラクラ。
「野球のピッチャーは1-0でリードしているときが苦しい」
「サッカーは2-0で勝っているときが危ない」
なんて、よく言われるけど、その気持ちはよくわかるのだった。
私も、「逃げ切り」は苦手なんだよなあ……。
そうやって手こずっていると、早く勝ちたいもんだから単調な直接手に頼ってしまい、ついには逆転。
ガックリ肩を落としながら、
「ここで1手、落ち着いた手を指していたら……」
前回は、大山康晴十五世名人の冷静な勝負術を紹介したが(→こちら)、今回もそういうときに、参考になる将棋をご紹介。
2011年のA級順位戦最終戦。
高橋道雄九段と藤井猛九段の一戦。
ここまで4勝4敗の高橋は、すでに残留を決めているが、藤井は3勝5敗で敗れると降級。
勝っても、丸山忠久九段が勝つと、やはり10期守ってきたAクラスの座を失うことになる。
苦しい立場の藤井だが、とにかくまずは勝つしかない。
磨きあげた、角交換四間飛車にすべてを託すが、高橋の腰の重い指しまわしに苦戦を強いられる。
むかえた、この局面。
駒の損得こそほぼないが、先手陣は手厚く、手持ちの飛車に、9筋の位も大きく、高橋が優勢だ。
負ければおしまいの藤井は、△15歩と打って、次に△14桂で、飛車を捕獲しようとねらっている。
先手がリードこそしているが、まだ後手の美濃囲いも健在で、ここから勝ちに結びつけるとなると、これが一仕事。
そこで見習いたいのが、こういう手なのだ。
▲19歩と打つのが、落ち着いた1手。
△同馬と取らせて、▲28歩とフタをすれば、後手にとって攻防の要駒だった馬が、完全に無力化されてしまった。
指し手に窮した藤井は△43銀と引くが、▲23成香、△34桂の飛車取りに、かまわず▲33成香と踏みこむのが、
「終盤は駒の損得よりもスピード」
△26桂と取られても、▲43成香、△同金に▲41飛の攻めの方が早い。
ここで、一連の手順の効果が出ており、もし馬が△64にいれば、△42金と飛車に当ててから、△41歩の底歩などでねばれるが、あわれ頼みの馬は僻地で箱詰めにされている。
泣きの涙で△53金とよろけるしかないが、▲62香、△71金の「美濃くずし」の手筋を入れてからの▲94歩と突くのが、急所中のド急所。
△同歩は、▲92歩、△同香、▲91銀が、お手本通りの手筋で、△同玉に▲71飛成まで寄り。
後手は右辺にある、4枚の角桂がヒドイことになって、もう泣きたくなる。
すぐに飛車をおろすような手より、こちらのほうが、結局は速いことがおわかりいただけるだろう。
もうひとつ、急がない勝ち方で思い出すのが、この将棋。
渡辺明棋王に佐藤天彦八段が挑戦した、2016年の第41期棋王戦五番勝負。
1勝1敗でむかえた第3局。
渡辺が当時、後手番でたまに指していたゴキゲン中飛車から、相穴熊の戦いに。
双方、大きく駒をさばきあって、むかえたこの局面。
佐藤天彦が▲21飛成と、桂馬を取ったところ。
▲28の飛車取りを無視してのことだから、おどろくところだが、続く渡辺の手が落ち着いた好手だった。
△83銀打と、ここを埋めるのが穴熊の感覚。
△85歩と突いた形(渡辺はこの形をよく指していた印象がある)は△86歩など攻撃力がある反面、▲84に桂や香を打たれて反撃されると、一発でガタガタになるリスクもある。
そこをしっかりケアするこの銀打は、いかにも穴熊党というか、指しなれている感がバリバリ。
囲碁でいう「大場より急場」で、この場合は△28と、と飛車を取るよりも、こっちのほうが最優先事項なのだ。
佐藤は▲29飛と逃げるが、△56角で後手の攻めが続く。
以下、堅陣を頼りに攻めまくり、渡辺が圧倒。
図は佐藤の穴熊が、上から押しつぶされる形で陥落寸前。
こうなると、後手陣が固すぎる上に、△83に打たれた銀の厚みが頼もしすぎる。
劣勢の佐藤天彦も、この後ねばりにねばりまくり、70手(!)近く持ちこたえたが、最後は渡辺の軍門に下った。
熱戦の多いシリーズだったが、最後は3勝1敗で、渡辺が棋王防衛を果たしたのだった。
(羽生善治によるスピード勝負編に続く→こちら)