米長邦雄「大トガリ時代」の森下卓に弟子入りす 「史上最年長名人」への道 その2

2023年06月03日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回に続いて、30年後藤井聡太七冠が目指す「最年長名人」の話。

 過去6度名人戦に登場しながら、そのことごとくを敗れてきた米長邦雄九段

 

 「名人は神様に選ばれた者だけがなれる」

 

 という昭和将棋界の神話に、まさか自分が足を取られるとは思わず、単に勝てないだけでなく、

 

 「自分は選ばれし者ではないかもしれない」

 

 という苦悩にも、さいなまれることに。

 四冠王にまでなった男が「自分は凡人では」という妄想とも戦わなければならないのだから、勝負の世界というのはきびしいものだ。

 米長自身の筆によると、名人になれないこともさることながら、40歳近くになるころから、力がおとろえてきたことも悩みのタネだった。

 自分がずっと取れない名人21歳で獲得し「史上最年少名人」になった谷川浩司をはじめ、特に高橋道雄中村修南芳一といった「花の55年組」の若い感性が、棋界を席巻してきたのには危機感を感じたよう。

 そこで米長は対策として、さらに若い血を取りこもうと画策する。

 当時は羽生善治をはじめとする、佐藤康光森内俊之郷田真隆らがデビュー後すぐ暴れまわったり、まだ奨励会員でも、その評判がすでにとどろいたりしていたころだった。

 これには古参の棋士や評論家が困惑し、おどろくと同時に、

 

 「強いことは強いが、人間味がなくてつまらない」

 「彼らが勝つのは、将棋を【テレビゲーム感覚】で指しているからだ」

 「飲む打つ買うをやらないから、長く活躍できないだろう」

 

 などという、今見ればというか、当時からしてもトホホというか類型的すぎるというか、もうしわけないが

 

 「変化についていけず、新時代に取り残されることにおびえる人々」

 

 の分析が幅を利かしていた(の「評論家」もお気をつけあれ)。

 まあ人というのは

 

 「新しいものに自分の既得権が奪われる」

 

 というとき、ムキになっておかしなことを言い出すというのは歴史的パターンのひとつであり(学校で習った「ラッダイト運動」というやつですね)、それは将棋ソフトが登場したときも意味がないとか、価値がないとか、魂がないとか、ただの暗記ゲームとか、

 

 「人って、こうやって同じことをくり返していくんやなあ」

 

 とも感じたもので、もうしわけないが苦笑を禁じえなかった。

 もちろん、人はみな同じ穴のムジナだから、そこを責めるのはどこまで言っても「天に唾」だけど、年齢を重ねた今でも私が「大人の分析」というものが、いまひとつ信じられないのに、この昭和将棋界(今も?)の「醜態」を見たことは大きかった。

 そんな、自分の心を守る近視眼的「分析」に皆が血道を上げる中、米長邦雄の態度は少し違った。こう考えたのだ。

 今の若者は文句なく強い

 なら、自分が強くなるためには、教えを乞うべきではないか。

 米長ほどの大棋士が、どれだけの想いでそう結論付けたのかは不明だが、この意見は原則的にはたぶん「正しい」ものの感情的には「受け入れがたい」ものであることは想像できる。

 

 「プライド」「頭を下げる恥ずかしさ」「間違いや時代錯誤を認めたくない心理」

 

 こういったものが邪魔するせいで(わが身に照らし合わせても痛い記憶の数々が……)、人は愚かでなくとも「論理的」には考えられないし「正しい」行動はとれないのだ。

 現に、若手棋士の将棋に学ぼうという態度に、

 

 「ヨネさんは媚びている」

 「大御所のアンタがそんなんでは困る。ガツンと言ってやらんと、若いのが増長する」

 

 怒られたり、イヤミを言われたりしたそうだが、米長からすれば、

 

 「アンタら、そうやってイバってるけど現に若手と戦ったら、まったく歯が立たずにコロコロやられてますやん」

 

 それを「オレは先輩だ、尊敬して頭を下げろ。負けてるけど」なんて肩で風を切って歩くなど、滑稽きわまりないぞと。

 のちの「米長邦雄会長」と同一人物とは思えない明晰な態度で、自身の考えに間違いはないと確信した米長は、まず若手のリーダー格である森下卓五段に研究会に入れてくれるよう頼む。

 ここからは有名なエピソードだが、米長は当然のこと、二つ返事で参加OKがもらえると確信していた。

 これは決して傲慢ではない。米長はすでにタイトル17期でバリバリのA級棋士

 いわば「歴史に残る」ことが決定した、レジェンドなのである。

 そんなスターが「仲間に入りたそうにしている」なら普通はだれだって大歓迎

 それこそ今でいうなら「打倒藤井聡太」のために渡辺明九段伊藤匠五段の元にやってくるようなものだが、このときまだ20歳くらいだった森下の回答が振るっていた。

 


 「すぐには決定できません」


 

 まさかのいったん持ち帰りに、米長は「へ?」と動きも止まってしまった。

 そこに若き日の森下青年は、

 


 「研究会の参加には条件が2つあるからです。ひとつは自分たちより将棋が強いこと。もうひとつは、将棋に対して情熱があることです」


 

 今では「まっすー」こと増田康宏六段がデビューして間もないころ、

 


 「矢倉は終わった」

 「詰将棋は意味ない」



 
 などと発言して物議を醸していたが、その師匠の若いころは輪をかけて過激だった。

 いわば、新入社員が幹部クラスを「審査」すると。

 その勢いに感心すると同時に、「ヤベぇ、落ちるかも」とビビりもした米長は正面突破はむずかしいと、食事をおごるなど「からめ手」で攻めることに。

 この姿勢が「謙虚でいい」(!)ということで、なんとか入会をゆるされるが、森下のトガりっぷりがいっそさわやかで、私はこのエピソードが大好きである。

 単に態度が悪かったり失礼なだけなど論外だが、実力情熱に自信を持ち、先輩だろうがしっかり自分の意見を通す姿勢は将棋にかぎらず大事だろう。

 実際、別のA級経験もあるトップ棋士が、若手の研究会に入れてほしいと申し出たところ、

 

 「(われわれと)力のちがう人はちょっと……」

 

 マジで入会を断られたという、まことしやかな噂があったりしたのだから、まったく当時の若者の自意識実力はオソロシイものであった。

 

 (続く

 

 

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