「卒業式が無くなって悲しい」
という意見に、全然ピンとこない。
昨今、コロナウィルスのせいで、各地の学校が休みになっている。
そのせいで、卒業式もなくなるため、そのことを残念に思う生徒が、多いんだとか。
これには、
「あー、そっちがふつうの感覚なんやー」
と、わが身を振り返ってしまった。
私はといえばこれに関して、
「別にええやん」
としか、思わなかったからだ。
いやあ、どうでもよかったなあ、卒業式とか。
別に学校で、イジめられたとかではない。
そりゃクラスに友達がいない時期や、担任の先生と反りが合わなかったこともあるけど、まあ、その程度は、だれでも似たような経験はあるだろう。
楽しい思い出も、それなりにあるわけで、単に「嫌だったから」卒業式が、どうでもいいということでもない。
たぶん、根本的に学校という場所が好きではないため(「強制収容所」くらいに思ってるからかな?)、そこでいい思い出があろうが無かろうが、それを「慈しむ」という感覚が希薄なのだ。
昔『将棋世界』か『将棋マガジン』だったかを読んでいるとき、まだ若手バリバリだった真田圭一八段が、高校時代の思い出を書いていたことがあった。
その内容というのが、とにかく学校が楽しくて、仲間が最高で、先生も素晴らしく、ちょっと甘酸っぱい恋のドラマとかもあって。
あのころは、なにもかもが輝いていたから今でも思い出す、とかそういったものだった。
真田八段がみなに好かれる、陽性さわやかアニキであることは聞いていたが(団鬼六先生も本でそう書いていた)、その肯定感200%の思い出話を読んで、ずいぶんと不思議な気持ちにさせられたものだ。
「世の中には、こんな、さわやかな青春時代を送っている人が、本当にいるんだなあ」
そんなのは、マンガかドラマの世界の話だと、思いこんでいたのだ。
私はもともと能天気で、あんまし青春の蹉跌的な悩みもなかった。
高校時代といえば、学校はよくサボっていたし、高2高3のときはクラスになじめなかったけど(明るいイケイケの子が多かったから話が合わなかった)、部活もやって、友達もいて恋もあって、それなりに楽しくはやっていた。
でも振り返ったとき、あんな真田八段の書く、洗いたてのシャツをはおるみたいな、お日様のにおいがする肯定感はないよなあ、と。
なんか、もうちょっとウェットというか。
先生とかヤな奴多いし、第一、朝からずっと同じ方向を向いて、どうでもいい授業を聞いてるのを強制されるとか、まともな人間のやることじゃないよ。
なので、
「学校というものにポジティブなイメージを持つ」
という感覚には、どうしてもなじめいなところがある。
「ゲットーが好き」
「刑務所が楽しい」
「アパルトヘイトの時代に戻りたい」
とか、言わないじゃん、ふつうは。
修学旅行とか体育祭とかも、全然おぼえてないなー。
文化祭は部活をやってたから、楽しかったけど。
おそらくだけど、私と真田八段のような人では「青春の定義」が違うんだろう。
真田八段たちにとってのそれは、
「そのときあるもの、そのものすべてが青春の輝き」
であって、私の場合は
「そのお仕着せから、いかに脱却するか奮闘する」
こそが、若さの出しどころだった。
根本が違うわけだが、振り返ってみると、案外そういう子同士が友達にはなるケースもあって、そこがまた、おもしろいところだけど。
またこういう「さわやか」な人でも、たまに
「自分がいかに変なヤツか」
をアピールしてくることがあって、意味不明だったけど、どうも、そういう人は人で自分が、
「世間的に見て健全である」
このことに、ちょっと不満があったりするケースもあるよう。
今でも覚えているのが、20代のころ、当時よく遊んでた、ある「さわやか」グループのリーダーだった友人から、
「シャロン君はオレのこと《さわやか》とか言うけど、ホンマは変人なんやで。そこをもっと見てくれよ。ガンダムとか好きやし」
とか、うったえられたことあったなあ。
いやいや、今の時代にガンダム好きなのは、まごうことなき「ふつう」ですよ!
オレなんか友人にオウム真理教の道場連れていかされて、尊師が空中浮遊するアニメ見せられてるよ!
セリフ棒読みで、周りに信者がいたけど、笑いこらえるの大変だったよ!
コンサートも行かされて、そこでシンセサイザーで作った、アニソンみたいな歌も聞かされたなあ。
歌手の女の子はかわいかったけど、「変なヤツ」って、そういうイベント持ってくるヤカラのことや!(おい、テラダ、おまえのことやぞ)
あと、本当に変な人は、自分で変とは言いません。
人に指摘されると、ちょっとムッとしますから! あれホント、頭くるんだよなあ(←おまえのことかよ!)。
男女問わずやさしくて、みんなに慕われて、立派な家庭も築いてるけど、案外そんなところに悩み(というほどでもないでしょうが)があるんやなあと、ほほえましくもなったもの。
そんな人間なので、
「卒業式に出られないのが悲しい」
という声には今でも、
「そういうもんなんやー」
というマヌケな感想しか出てこないわけなのだ。
ただ、世間のヤングたちが、それを「悲しい」と感じること自体はきっと、真田圭一さん的な良きことなので、混乱が収まったら、何らかの形で式をしてあげてほしいとは思う。