黒岩涙香先生の書斎に、超あこがれる。
黒岩涙香。
明治時代に活躍した作家で翻訳家、ジャーナリストなど、多彩な顔を持つ偉大な人。
原作を大胆に改編する「翻案小説」でも有名だ。
名前は知らなくても、先生のものした
『鉄仮面』
『巌窟王』
『ああ無情』
などといったタイトルならば、聞いたことがある、という人はおられるのではないか。
作家というのはもともとにして本好きなわけだが、この涙香先生もご多分にもれず、すごい読書家。
鴻巣友季子さんの『明治大正翻訳ワンダーランド』という本によると、なんと洋書だけでも3000冊を読んだそうである。
3000冊といわれると、そのへんの読書ジャンキーなら、
「まあ、それくらいは」
といったところで、さして自慢にもならないが、洋書「だけ」でそれというのは、さすがであろう。
そんな先生の口癖といえば、
「紹介するにたる外国小説を一冊見つけるには、百冊は読まなければならない」。
ということは、先生の作品ひとつにつき、その裏にはボツになった物語が100冊近く存在するということ。
すごいものだ。作家というの大変な仕事であるり、作品によっては、それ以外の資料なども、読みこまなければならないそうな。
そうなると1冊の本ができるのに、どれほどのものを読まなければならないのかと、めまいがしそうになる。
そんな先生の家は当然本だらけで、自室を「読破書斎」と名付けていたそうである。
読破書斎。
か、かーっこいいぃぃ!!!!! 本好きならシビレるようなネーミングだ。
さすがは玄人、なにかこう自分の仕事への自負すら感じる、気風のいい言いきりではないか。
同じく読書をこよなく愛する私は、そんな偉大な涙香先生に少しでも近づこうとすぐさま本棚を購入。
若かりしころ買った本を、そこにずらりと並べた。
私は学生時代、ドイツ文学を専攻していたので、そのラインアップは、
トーマス・マン『魔の山』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』
ライナー・マリーア・リルケ『マルテの手記』
エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』
フランツ・カフカ『審判』。
かつて対峙した重厚な書物を収めてみると、私の知性のほどが顕著にあらわされ、実に壮観である。
ただ、ひとつ気になることがなくもない。
こうして並べられた書物をじっとながめていると、どうもこれは「読破書斎」というよりも「挫折書斎」と命名した方がいい気がしてならない。
かつてゲーテの名作『ファウスト』を読んだとき、合わせて上下巻あったのだが、グレートヒェンの第一部はともかく、後半の第二部はとにかく長かった。
しかもこれが、おもしろければともかく、読んでも読んでも書いてあることが意味不明。
何度も泣きそうになった。つまんねーのなんの。
そんな冬山登山みたいな2冊をなんとか読破し、まあ中身はサッパリであったが、こんな歴史に残るような文学作品なのだから、私のような阿呆にはわからぬ深淵なメッセージがきっとあるのだろう。
と解説書をひもとくと、そこには、
「えー、第二部に関しては特に意味とかないんで、めんどかったら、ぶっちゃけ別に飛ばしてもいいって感じッス」
そんな意味のことが書いてあり、これには文庫本を壁にぶん投げそうになったものだ。
なぐったろか、このぼけなす!
ちなみに、上記の本の挫折理由は、上から順に
「長いから」
「長いから」
「辛気臭いから」
「辛気臭いから」
「カフカって合わねー」
となっており、私の知性のほどが顕著にあらわされ、これまた実に壮観である。
ということもあったので、長い小説はよほどリーダビリティーが高くないかぎり、相当なる警戒が必要である。
これではさすがに「読破書斎」の看板にいつわりありということで、本当にちゃんと最後まで読んだ本をチョイスしようと、
杉作J太郎『ボンクラ映画魂』
中岡俊哉『世界の怪獣』
中村省三『宇宙人の死体写真集』
『河崎実大全』
はぬまあん『超絶プラモ道〈2〉アオシマプラモの世界』
などを並べてみた。
が、こちらは本当に読破したにもかかわらず、どうにも涙香先生のような文学的高貴というものが、今ひとつ感じられない雰囲気をかもしだしている。
なにかこう全体的に、
「オレが思ってたのと違う!」
といった雰囲気がバリバリであり、なぜそうなってしまうのか、謎は深まるばかりである。
(続く)