勇気ある戦い 井上慶太vs島朗 1998年 第56期A級順位戦

2023年05月23日 | 将棋・名局

 前回の続き。

 1998年の第56期A級順位戦

 ラス前で、米長邦雄九段との3勝同士の血戦を制したのは井上慶太八段だった。

 これで4勝目を挙げると同時に井上は、最終戦を自力残留の権利を持って戦えることになった。

 ここで残留できるか、それとも降級して「日帰り、お疲れ様でした」となるかは後の井上のキャリアにとって、とてつもなく大きなとなる。

 最後の試練に待ち受けるのは、竜王のタイトルも経験している島朗八段
 
 ここに勝てば文句なしでA級残留となるが、敗れると米長が勝って4勝で並ばれた場合、順位の差で降級となってしまう。
 
 井上からすれば、自身の勝負もさることながら、人気棋士で名人経験もある米長が陥落となれば「現役引退」もあり得るところから、


 
 「米長がんばれ!」


 
 という世論の声とも戦わなければならず、そのプレッシャーは大変なものだったろう。

 そんな井上が決戦に用意してきた作戦は、得意の矢倉ではなく、横歩取りだった。
 
 前年、中座真四段がはじめて披露し、野月浩貴四段がその優秀性に気づいた「△85飛車戦法」だ。

 
 
 

 


 井上自身、なんと公式戦で指すのははじめてだったそうで、そもそもこの「中座飛車」自体、まださほど市民権を得るほどには知られていなかった。
 
 そこをこのシビれる一番にぶつけてきたということで、この選択は当時話題になったが、未知の新戦法を井上は見事に乗りこなして戦う。

 とその前に、ちょっと競争相手である米長の将棋も見てみたい。

 順位戦というもののおもしろいところは、こういう「勝てば残留(もしくは昇級)」というケースに加えて、星や順位の差によって

 

 「自分が負けても、ライバルが負ければ残留(昇級)」

 

 また逆に自分が勝っても、相手にも勝たれたら報われないなどあり、この場合は前者井上後者米長だが、こういうところに心理のアヤがある。

 今回の場合、米長は勝たないとどうしようもないが「他力」であるため、なかば覚悟を決めているところもあるだろう。

 ただそれが、かえって開き直りを生んで、手が伸びて戦えるということもあり、実際この将棋の米長はそんな感じだったのだ。

 

 

 

 「他力」で戦う米長は、加藤一二三九段と対決。

 両者おなじみの相矢倉から、米長が前局に続き果敢な踏みこみを見せる。

 

 

 

 

 

 ▲75銀と出るのが、勢いのいいぶつけ。

 △同銀でタダに見えるが、そこで▲76歩と打って取り返せる。

 そこから、△34歩▲75歩△54金▲74歩△72歩と、あやまらせて好調子。

 さらに▲55歩△45金として、角取りにかまわず▲54歩が勢いある手で、米長の優勢がハッキリしてきた。

 

 

 

 加藤も再度△52歩と辛抱しチャンスを待つが、▲53歩成が軽妙な手で、△同歩角筋を2重に止めてから▲57角と転進。

 △65歩▲37桂と気持ちよく活用し、△55金▲84角と角までさばいて、△63飛▲25桂と華麗な跳躍。

 

 

 

 見事な手順というか、こんなので勝てたら将棋はやめられないのではという、気持ちよすぎる攻め方なのだった。

 この棋譜を並べながら、しみじみと思ったものだ。

 ラス前の「決戦」では暴発となった積極性が、「他力」の将棋だとこんなにも、うまくハマるのだから、まことプレッシャーというものが指し手にあたえる影響のすさまじさよ。

 これで井上は勝つしかなくなった。

 もちろん、井上はそんなこと知るよしもなく、もともと

 「負けて助かるなんて、虫のいいことは考えないぞ」

 とは腹をくくっていたろうが、「もしかしたらワンチャン……」という気も、なかったとはいえないだろう。

 とはいえ、このときの井上は、そんなことを微塵も感じさせない戦いぶりを見せたのだから、立派なものだ。

  
  
 
 

 

 難解なねじり合いから島に一矢あり、井上優勢となっている。

 図は△38歩とタタいたところに、島が▲55角に当てたところだが、ここから井上が怒涛の寄り身を見せる。

 

 


 
 
 
 
 
 
 △46桂と打つのが、うまい切り返し。
 
 ▲同歩角道を遮断して、飛車取りを解除してから△39歩成と取る。
 
 受けのなくなった島は▲23歩成と攻め合うが、△49と▲29歩△48と▲同玉△75飛▲33歩成△18竜▲28金

 


 
 
 後手玉も相当に危険だが「中原囲い」は、こういう場面から意外と耐久力があるもの。
 
 ここが決め所で、△55飛を取る。
 
 先手は▲43とと詰めろをかけるが、そこで一回△42金と受けるのが落ち着いた手。
 
 これで先手から後続がない。▲同と△同玉▲18金△69角と打って決まった。


  
 
 
 
 先手玉は必至で、後手玉は▲32飛から追っても詰みはない。
 
 以下、いくばくもなく島が投了。井上が初のA級で見事に残留。しかも勝ち越しで決めたのだった。

 降級した米長は、ちょっとめんどくさいやり取り(新聞社の偉い人が頼んでくれば引退しない、みたいな)があった末にフリークラスを宣言。事実上、引退をすることとなる。

 こうして波乱のリーグは終わったが、それにしても井上の戦いぶりは見事だった。
 
 負ければお終いという2局を、下を見る戦いとは思えないほど積極的に戦っていた。
 
 全体的に手が伸びていた。見ていて気持ちの良い棋譜だ。
 
 最高峰のリーグ戦、しかも最大級にプレッシャーがかかる状況でこれだけの将棋が指せたのだから、この2局は井上の棋士人生における、語られるべき傑作と言ってもいいのではあるまいか。
 

 

 (10年後、井上のA級復帰への戦いへ続く)

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