前回の続き。
1998年の第56期A級順位戦。
ラス前で、米長邦雄九段との3勝同士の血戦を制したのは井上慶太八段だった。
これで4勝目を挙げると同時に井上は、最終戦を自力残留の権利を持って戦えることになった。
ここで残留できるか、それとも降級して「日帰り、お疲れ様でした」となるかは後の井上のキャリアにとって、とてつもなく大きな差となる。
最後の試練に待ち受けるのは、竜王のタイトルも経験している島朗八段。
ここに勝てば文句なしでA級残留となるが、敗れると米長が勝って4勝で並ばれた場合、順位の差で降級となってしまう。
井上からすれば、自身の勝負もさることながら、人気棋士で名人経験もある米長が陥落となれば「現役引退」もあり得るところから、
「米長がんばれ!」
という世論の声とも戦わなければならず、そのプレッシャーは大変なものだったろう。
そんな井上が決戦に用意してきた作戦は、得意の矢倉ではなく、横歩取りだった。
前年、中座真四段がはじめて披露し、野月浩貴四段がその優秀性に気づいた「△85飛車戦法」だ。
井上自身、なんと公式戦で指すのははじめてだったそうで、そもそもこの「中座飛車」自体、まださほど市民権を得るほどには知られていなかった。
そこをこのシビれる一番にぶつけてきたということで、この選択は当時話題になったが、未知の新戦法を井上は見事に乗りこなして戦う。
とその前に、ちょっと競争相手である米長の将棋も見てみたい。
順位戦というもののおもしろいところは、こういう「勝てば残留(もしくは昇級)」というケースに加えて、星や順位の差によって
「自分が負けても、ライバルが負ければ残留(昇級)」
また逆に自分が勝っても、相手にも勝たれたら報われないなどあり、この場合は前者が井上で後者は米長だが、こういうところに心理のアヤがある。
今回の場合、米長は勝たないとどうしようもないが「他力」であるため、なかば覚悟を決めているところもあるだろう。
ただそれが、かえって開き直りを生んで、手が伸びて戦えるということもあり、実際この将棋の米長はそんな感じだったのだ。
「他力」で戦う米長は、加藤一二三九段と対決。
両者おなじみの相矢倉から、米長が前局に続き果敢な踏みこみを見せる。
▲75銀と出るのが、勢いのいいぶつけ。
△同銀でタダに見えるが、そこで▲76歩と打って取り返せる。
そこから、△34歩、▲75歩、△54金、▲74歩、△72歩と、あやまらせて好調子。
さらに▲55歩、△45金として、角取りにかまわず▲54歩が勢いある手で、米長の優勢がハッキリしてきた。
加藤も再度△52歩と辛抱しチャンスを待つが、▲53歩成が軽妙な手で、△同歩と角筋を2重に止めてから▲57角と転進。
△65歩に▲37桂と気持ちよく活用し、△55金に▲84角と角までさばいて、△63飛に▲25桂と華麗な跳躍。
見事な手順というか、こんなので勝てたら将棋はやめられないのではという、気持ちよすぎる攻め方なのだった。
この棋譜を並べながら、しみじみと思ったものだ。
ラス前の「決戦」では暴発となった積極性が、「他力」の将棋だとこんなにも、うまくハマるのだから、まことプレッシャーというものが指し手にあたえる影響のすさまじさよ。
これで井上は勝つしかなくなった。
もちろん、井上はそんなこと知るよしもなく、もともと
「負けて助かるなんて、虫のいいことは考えないぞ」
とは腹をくくっていたろうが、「もしかしたらワンチャン……」という気も、なかったとはいえないだろう。
とはいえ、このときの井上は、そんなことを微塵も感じさせない戦いぶりを見せたのだから、立派なものだ。
難解なねじり合いから島に一矢あり、井上が優勢となっている。
図は△38歩とタタいたところに、島が▲55角と竜に当てたところだが、ここから井上が怒涛の寄り身を見せる。
△46桂と打つのが、うまい切り返し。
▲同歩で角道を遮断して、飛車取りを解除してから△39歩成と取る。
受けのなくなった島は▲23歩成と攻め合うが、△49と、▲29歩、△48と、▲同玉、△75飛、▲33歩成、△18竜、▲28金。
後手玉も相当に危険だが「中原囲い」は、こういう場面から意外と耐久力があるもの。
ここが決め所で、△55飛と角を取る。
先手は▲43とと詰めろをかけるが、そこで一回△42金と受けるのが落ち着いた手。
これで先手から後続がない。▲同と、△同玉、▲18金に△69角と打って決まった。
先手玉は必至で、後手玉は▲32飛から追っても詰みはない。
以下、いくばくもなく島が投了。井上が初のA級で見事に残留。しかも勝ち越しで決めたのだった。
降級した米長は、ちょっとめんどくさいやり取り(新聞社の偉い人が頼んでくれば引退しない、みたいな)があった末にフリークラスを宣言。事実上、引退をすることとなる。
こうして波乱のリーグは終わったが、それにしても井上の戦いぶりは見事だった。
負ければお終いという2局を、下を見る戦いとは思えないほど積極的に戦っていた。
全体的に手が伸びていた。見ていて気持ちの良い棋譜だ。
最高峰のリーグ戦、しかも最大級にプレッシャーがかかる状況でこれだけの将棋が指せたのだから、この2局は井上の棋士人生における、語られるべき傑作と言ってもいいのではあるまいか。
(10年後、井上のA級復帰への戦いへ続く)
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