「高校デビューの話って、なんやねん!」
先日、LINEにそんなメッセージを送ってきたのは、友人スミノドウ君であった。
なんでも友は、こないだ私が芥川龍之介の名作『羅生門』を、
「あれは【高校デビュー】がテーマの短編」
と紹介したところ(詳細は→こちら)、
「またアイツは、高尚な文学をつかまえて、なにをチョケとるんや」
あきれて連絡してきたというのだ。
たしかに、名作文学を称して「高校デビュー」は言葉が軽いとは思うが、これは決してヨタではなく、それこそ高名な作家の方がおっしゃっていること。
その名も、北村薫先生。
日本ミステリ界に「日常の謎」という新ジャンルを作り出し、直木賞も受賞した、私のようなミスヲタには神のごとき存在。
その北村先生が、「あれはそうなんですよ」と言っているんだから、こっちからすれば、文句あんのかアーン? という話なのだ。
言及されているのは、「円紫さんと私」シリーズの長編『六の宮の姫君』。
内容は、主人公の「私」が大学の卒論を書くのに、芥川や菊池寛を取り上げようとしたところ、ある謎の一言に出会う。
「私」はそれを解き明かすべく、過去の日本文学について資料を読み、考察していくという、ジョセフィン・ティ『時の娘』のような、「歴史さかのぼりミステリ」て、そこで取り上げられる作品のひとつが『羅生門』なのである。
どう「高校デビュー」なのかは、本文を実際に読んでもらうとして、ここでザックリとだけ説明してみるならば、『羅生門』のラストについて。
あの教科書にも載っている、有名すぎる一文、
「下人の行方は、誰も知らない」
わずか一行なのに、底知れぬ深い闇と余韻を残す、文学史上に残る名文と呼ばれているが、これがもともとは違う内容だったのも、これまた有名なお話。
「下人は、既に、雨を冐して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた」
だれも知らんどころか「無敵の人」になって、京の都で大暴れ。
「完全版」とくらべて、こちらの評判がすこぶる悪いというのは、日本文学の世界ではおなじみで、
「通俗的で、つまんないよねー」
「書き直して、芥川マジ正解」
「最初のバージョンやと、絶対スベってたよな、危ない危ない」
ボロッカスに言われまくりなのは、本編でもブツブツ文句を言う海外の研究者の文章などで引用されている。
ではなぜ、芥川は最初、その評判の悪い「通俗的」なラストを書きこんだのか。
北村先生の考察では、このシーンこそが『羅生門』で、本当に書きたかった部分だというのだ。
「私」の調査で、『羅生門』執筆当時の芥川が、ダメダメでドツボにハマっていたことが判明する。
なんでも、自分たちが出した本で、芥川が不義理を働いたどころか、その売り上げを着服したなど中傷を受けていたのだ。
もちろん、それは誤解なのだが、もともと神経の細い芥川はそれを気に病んで、クヨクヨと悩む日々。
それを見かねた、友人の菊池寛が、
「ブツブツいうてるくらいやったら、それネタにして、なんかスカッとする小説でも、書いてみたらどないや」
そのアドバイス受けて書かれたのが『羅生門』のあのラスト。
そう、あのボツになった「京の町で大暴れ」は、なにを隠そう芥川自身の
「死ぬまでにやりたい100のこと」
このひとつだったわけなのだ。
「炎上」でムカついたから、オマエらやったるで!
オレの悪口を言うウザいヤツらは、あの髪泥棒のババアみたいに、ボッコボコにしてやるだわさヒャッハー!
中2病というか、ボンクラ青年の意趣返しというか、『ボーリング・フォー・コロンバイン』というか、とにかくそういう、
「死刑! 死刑! オレ様をイヤな気分にさせたヤツら、全員死刑!」
という、楽しすぎる「願望成就小説」。
いわば、流行りを超えてジャンルとして定着した、
「異世界に転生して無双」
のような、「京の街に転生して、やりたい放題」とでもいう「なろう小説」だったのだ。
そりゃまあ、強盗することを「勇気」とかいっちゃてるしねえ。
ここを読んだとき、私はもう感動しましたね。
「はー、これって勉強できて、おとなしい男の子が、急に不良になる【高校デビュー】がテーマの小説やったんやあ」
なんかええよなあ。底が抜けてるよなあ。
文学というと、なんだか敷居が高いけど、こう説明されれば親近感もわくというか、人の考えることなんてインテリもスカタン高校生も、案外変わらんもんです。
しかも、やりかたも正しい。
なんぼ腹立っても、暴力はいけませんが、
「なら小説書いて、その中でブッ殺したったらええねん!」
というのは、映画『桐島、部活やめるってよ』の神木隆之介君による、
「コイツら全員、喰い殺せ!」
と同じく、まったく「正しい芸術の使い方」であるわけだし。
春休みに遊びまくる、チャラチャラしたアメリカの学生を見て
「なんだ、あのバカどもは。殺すしかねーな」
とばかりに魚に食い殺させた(監督がちゃんと自分でそう言ってます)、『ピラニア 3D』とかね。
そう、最初の『羅生門』って、『ピラニア』なんスよ。B級ホラー。下人はジェイソン。
ではなぜ、せっかく、あんな「なりたいオレ」を書けたのに、「だれも知らない」という、自分は関係ないバージョンに直したのかと問うならば、それこそが芥川の「文学性」。
龍之介からすれば、書きたいことは書いたけど、そんなんホンマは文学ちゃうんちゃう?
そこをマジメに考えてしまうわけだ。
彼にとって書きたいのは、「京の都で大暴れ」だが、それが「小説」としてダメなのは、だれだってわかるもの。
しかも芥川はなまじ「誰も知らない」という、見事なシメを思いついてしまう才能(ここがただの「中2病」とちがうところだ)があっただけに、これが迷うタネに。
「大暴れ」は書きたいことだし、負の願望を物語に昇華させるという意味では、れっきとした「文学」である。
ただし、そうすると「小説」としての格は落ちてしまう。
「誰も知らない」はさすがの着地だが、でもこれだと、そもそもこの物語を書いた意味がなくなってしまう。
『羅生門』は「オレ様ヒャッハー」ありきのもので、芥川が本来得意とする『今昔物語』などをベースとした、
「格調高い、風雅な小説」
など、ハナからお呼びでないのだから。
自我vs客ウケ。
お笑いで言う「やりたいネタ」か「ウケるネタ」か。
新海誠監督なら、「中学生の妄想で原液100%」な『秒速5センチメートル』か、ちゃんと一般ウケしてメジャーになれた『君の名は。』か。
みたいなことで芥川は悩んで、最後は自分の「文学的理性」が勝ってしまい、修正しましたと。
要するに、「はじけられなかった」わけで、菊池師匠はそれを見て、
「だから、お前はアカンねや。気ィ小さいのう」
ガッチリとダメ出しをしたそうだが、後年の「ぼんやりした不安」にる自殺も、こういうところにあったのではというのが、菊池と、北村先生もまた考えるところなのだ。
いわば、『桐島』における神木君がラストの屋上で、
「ゾンビ映画で、この腐った世界を破壊するなんて、そんな考えはよくないよな。子供じゃないんだから、もっと健全な、先生とか大人がよろこんでくれる、さわやか映画でも撮ろう!」
なんて言い出したようなもの。
そら、菊地からすれば「おい!」てなものであり、腰砕けなことはなはだしい。
町山智浩さんが、『映画秘宝』片手に「テメー、コノヤロー! ふざけんじゃねえぞ!」と暴れまわる姿が、目に浮かぶようである。
「盗んだバイクで走り出す」
と歌った尾崎豊が、そのあと反省して、
「盗むのはよくないから、バイトして買ったバイクで走ったよ! あと学校の窓ガラスを割ると迷惑だから、ちゃんと弁償しようね!」
なんて歌詞を書き直したら、そりゃそっちが「正しい」かしらんけど、「なんだかなあ」ではないか。
そう聞かされれば私など断然、最初に書かれた「大暴れ」バージョンを推したいわけである。
あれは「貴族趣味」と言われた芥川が、そのイメージを破ってでも書きたかった、まさにドラゴン渾身の『マッドマックス 怒りの平安京』なのだ。
創作の本質が、「書きたいことを書く」なら、たとえそれが稚拙でも、真の「文学」でないのかい?
なので、同じボンクラ仲間の私としては、ここに堂々と、
「『羅生門』は高校デビューをあつかった、『ピラニア3D』である」
そう宣言したい。苦情は文藝春秋と東京創元社まで。