「駒得は裏切らない」
というのは、森下卓九段が若いころ、よく使っていた言葉である。
将棋の形勢判断には4つの指針があると言われ、それが
「駒の損得」
「駒の働き」
「玉の固さ」
「手番」
これらを比較していけば、おのずとどちらが有利か見えてくる、便利な考え方。
特に駒の損得は、直接的な戦力差につながるので、相当に重要なファクターである。
ところがときには、安易に駒を取らないことが好手になることもあり、
「終盤は駒の損得よりスピード」
という格言もあるほど。
ただ、その「取らない場面」の見極めがむずかしく、現実に「現ナマ」の魅力もあって、つい目先の駒得に走ってしまいがち。
前回は高橋道雄九段と渡辺明名人の、落ち着いた勝ち方を紹介したが(→こちら)、今回は「常識」のバーを軽く超える将棋を。
1993年開幕の第63期棋聖戦は、谷川浩司棋聖・王将に羽生善治竜王・棋王・王座が挑戦。
前年、谷川から竜王を奪って三冠王になった羽生は勢いに乗っており、開幕2連勝と早くも奪取に王手をかける。
このところ、羽生に押され気味な谷川からすれば、ここですんなり奪取をゆるすと、「四冠」と「一冠」になってしまい、ナンバーワン争いで大きく水をあけられてしまうこととなる。
それはゆるさじと、なんとそこから2度の千日手をはさんで、今度は谷川が2連勝し、2勝2敗のタイに押し戻すという激戦に。
むかえた最終局は、羽生の先手で(このころの羽生は振り駒でことごとく先手番を引いていた)相矢倉に。
先手が端から攻めかかると、後手も馬を作っていなしにかかる。
図は後手が、△14香と玉頭にせまる銀をはずしたところ。
形勢はまだわからないが、先手は一瞬だが銀2枚損なので、とりあえずは▲54竜と、金を取り返しておきたいところ。
先手陣は▲57の金がはなれ駒になっており、かなり薄い形で、△86歩などの反撃も気になるところだが、駒損を回復しておくのも自然に見える。
ということで、やはり反射的に金を取ってしまいそうなところだが、羽生の思考はその先を行っているのだ。
▲72竜と入るのが、なかなか見えない、いや見えても指せない手。
ただでさえ駒損が気になる局面なのに、それを取り返す手を無視して、逆方向に竜を使う。
なんでやねんという話だが、これがだれも気づかなかった妙手で、先手が優勢なのだ。
たしかによく見ると、ここで後手は飛車のいい逃げ場所がない。
自然なのは△31飛だが、それには▲43桂と打つのが痛打。
△41飛など逃げると、▲11角、△同玉、▲32竜が、詰めろ飛車取りでおしまい。
なので、本譜の△41飛くらいしかないが、それにもやはり▲11角が効いて、△31玉に▲63歩、△61歩の交換をソツなく入れてから、▲13歩とタラして攻めがつながっている。
△同桂は▲33角成で、取れば▲22銀で詰み。
まともには受からないとみて、後手は△71香という緊急避難のような犠打を放つ。
▲同竜に△22銀として、▲12歩成、に△11銀と、角をはずしてがんばる。
▲同とに、△93角と両取りに打って、相当に見える。
一瞬、後手の反撃が急所に入ったようだが、羽生は冷静に▲72竜。
△57角成に▲21と、△同玉、▲33桂がまたも痛烈な王手飛車で、△同金は詰みだから、△22玉とし、▲41桂成。
飛車をボロっと取りながらの詰めろで、先手の一手勝ちと思いきや、そこで△62金と打つのがハッとするねばり。
ウッカリ▲同歩成は後手玉の一手スキが解除され、△69銀で一瞬にして後手が勝ちになる。
将棋の終盤戦のおそろしさである。
ただ、金打ち自体は意表の勝負手だが、この場面は局面そのものはサッパリしていて読みやすく、あまり相手を間違わせるようなドロドロした雰囲気はない。
先手は、とにかく詰めろの連続でせまればいいのだから、ここで▲33香と放りこむのが寄せの手筋。
△同金と取らせてから、▲62歩成が手順の妙で、やはり先手勝ちは動かない。
……というと、
「あれ? その局面は後手玉が一手スキじゃないから、△69銀と詰めろをかけられたら、先手負けじゃね?」
そう感じる腕自慢の方はおられるかもしれないが、それはかなりスルドイ意見である。
たしかに、先手玉は受けがむずかしく、一方後手玉は▲61と、と王手しても△32香で、▲31銀と追って△13玉。
以下、▲12飛、△同玉、▲22金には再度の△13玉で、あと1枚金が足らず不詰。
なら逆転かと言えば、これがそうはならず、そこがこの局面の「わかりやすさ」につながる。
後手玉が詰まないのはハッキリしているが、あるトリックを使えば、それをクリアできるのだ。
「金はトドメに残せ」
という格言があるが、今、先手が一番ほしい駒はそれではない。
▲61と、△32香に▲68金打と、一回受けるのが好手。
これには△78銀成、▲同金に△69銀とおかわりして、なんら変わってないじゃないかと思われるかもしれないが、ひとつちがうのが、先手の持駒。
このやりとりで、先手の持駒は金から銀に代わった。
この両替がものを言って、後手玉には▲31銀からの簡単な詰めろがかかっているのだ。
詰みがなかったはずの王様が、駒を1枚、クルンと入れ替えしただけで必至になっている。
実にきれいな収束で、羽生の見事な読み切りが証明された。
2度目の△69銀に、▲31銀まで谷川投了。
これで羽生は「第7局」を勝利して、初の棋聖を獲得。
同時に、やはり初の四冠王にもなり、「七冠王」への大きな足場を作ることとなったのだ。
関西将棋ファンの英雄(と言っていいのかわかりませんが)、坂田三吉翁の将棋の解説を見たいと思います。泣き銀とか初手94歩など面白い将棋だけでなく、生き様も魅力的です。ぜひ取り上げていただきたいと思います。
>坂田三吉翁の将棋の解説を見たいと思います。
実は関根金次郎八段との「銀が泣いている」の将棋は、もともとここで取り上げる予定だったんですよ!
真部一男九段が『将棋世界』で連載してた『将棋論考』で取り上げられたのと、あと「イメージと読みの将棋観」で、この将棋について豊島将之竜王が独特の手を指摘していて、おもしろいと思ってたんです。
ところが、棋譜がいつもお世話になってる「棋譜DB」にないことと(駒落ちだからかな?)、スクラップしておいた、真部九段による詳細な解説の記事が見つからない(泣)!
間違って捨てちゃったのかなあ。
でも、リクエストはすごくうれしいので、解説の記事が見つかるか、『将棋論考』が手に入ったら取り上げたいです。
>泣き銀とか初手94歩など面白い将棋だけでなく、生き様も魅力的です
ここでは、升田大山時代から藤井聡太三冠まで、幅広く将棋を取り上げたいと思ってるんですが、実は昭和初期の将棋については不勉強で、よく知らないんです(苦笑)。
そもそも資料が少ないし、升田大山の時代は平成になってもなにかと語られる機会が多かったのですが、坂田三吉をはじめ、木村義雄、塚田正夫となると知識がゴッソリ抜けてしまう。
あと坂田については、「南禅寺の決戦」「天龍寺の決戦」など、ドラマチックに取り上げられる将棋のころは、すでに盛りを過ぎていて棋譜も凡局と言われており、語り方がむずかしいのもあります。
なんかいい本ないかなあ。坂口安吾や織田作之助が当時の将棋を書いた文が「青空文庫」で読めるんですけど、文豪でも指し手の解説はさすがにできませんからねえ。
羽生さんは将棋史上で最大の棋士であることに論を俟つことはありませんがやはり谷川森内佐藤郷田丸山等綺羅星のようなライバルとの激闘の果てに高みへ昇っていったわけで、その点で今度の竜王戦には豊島に本当に期待しています。パソコンの前で秘策を練っていると思いますが、ここも藤井の前に陥落するとなるともう藤井聡太という棋士は無人のブルーオーシャンをただ突き進むだけで8冠を制圧して何十年も防衛して、全ての記録を塗り替えてそれが面白いとは到底思えません。豊島もわかっているでしょう…ここを落とすともうタイトル戦で勝つことなど殆どないと…藤井聡太という将棋史上最も将棋の神様に近づいている棋士に勝つことは容易ではありませんがなんとか立ちはだかって欲しいですね。
本については不勉強にも知りませんでした。
豊島竜王には将棋界を盛り上げるために、がんばってほしいですね。