桂馬というのは、ウッカリを呼びやすい駒かもしれない。
将棋におけるポカといえば、詰まないはずの玉が詰んでしまう「トン死」が代表的だが、われわれのようなアマチュアレベルだと、
「駒をタダで取られる」
こっちのほうが、よくお目にかかるもの。
遠くから飛車や角が利いてるのを見落としてしまう、というのが多いケースだと思うけど、時に桂馬がからんで「あれ?」となることもある。
桂という駒は他とくらべてトリッキーな動きをするので、特に数枚が交錯すると錯覚を起こしやすいのだが、それが大舞台でも飛び出したことがあるのだ。
前回は森内俊之九段の見せた、金銀6枚「鋼鉄の銀冠」を紹介したが(こちら)、今回は名人戦で飛び出した、桂馬のウッカリを見ていただきたい。
1990年、第48期名人戦。
谷川浩司名人・王位と中原誠棋聖・王座との七番勝負。
中原先勝でむかえた第2局。
先手の谷川が角換わりを選択すると、中原は棒銀で対抗。
先手が右玉から、角を打って後手玉のコビンを攻めると、後手も金をくり出して中央から圧迫しにかかる。
むかえたこの局面。後手が△76歩と取りこんだところ。
ふつうなら、何も考えることなく▲同銀。
それで、これからの将棋に見えるが、谷川浩司の思考はその先を行くのである。
▲14歩と、この瞬間に仕掛けるのが谷川「前進流」の将棋。
▲76同銀は△55歩と角筋を止められて、おもしろくないのだろう。そこで、この一瞬にパンチを放つ。
「端玉には端歩」の手筋で、後手もさすがに△同歩と取るしかないが、▲13歩、△同桂、▲14香、△25銀、▲同歩、△55歩に、そこで▲76銀と手を戻す。
銀桂交換の駒得で敵陣を乱し、先手満足に見えるが、後手も△26角と王手して▲37銀に△17角成。
こう、じっくりともたれておいて、形勢は意外と難しいというのだから、さすがトッププロ同士の対局である。
そこから、中盤戦の攻防を経て、この場面。
▲24歩と突いたのが好手で、先手の評判が良い。
ここでは▲16飛と寄る手が目につくが、△27馬、▲13香成、△21玉で二の矢がない。
ところが、▲24歩、△同歩が入っていると、そこで▲23歩とたらす手が詰めろで入るため、攻めが続くのだ。
控室の検討では、中原はこの手を軽視していたのではと言っていたそうだが、まだ決まってはいなかった。
▲24歩には△同歩と取って、▲16飛に△23玉とがんばる手があるのだ。
▲13香成は△同香で受かる。
▲18飛と馬をタダで取られてダメのようだが、そこで△17歩のたたきや、△25桂と跳ねて飛車をいじめる筋があって、けっこう大変なのだという。
大事な馬をボロっと取られて、それで指せるというのだから、将棋というのは奥が深いと感心することしきりだが、中原はこの手を選ばなかった。
そして、その代わりに指したのが、とんでもない一着だったのだ。
△25桂打が、ありえない大ポカ。
▲13香成、△同玉、▲25飛に△24歩として、桂馬を犠牲に先手を取ってしのごうとしたのだが、これがとんでもない尻抜け。
みなさんなら、どう指しますか?
堂々、▲25同飛と取る手があるではないか。
▲14の香がいるから、△同桂と取り返すことができない(玉を取られる)。
ただ、桂を一枚プレゼントしただけの利敵行為。
終盤の競り合いで、こんなことになっては勝てるはずもなく、以下、谷川が圧倒してスコアをタイに戻した。
それにしてもすごいウッカリだが、さらにおどろくのは、中原はこの手に25分を費やしていること。
つまりは秒に追われてのポカとかではなく、まさに腰を落として、じっくりと読みに読んで、このボーンヘッドなのだから信じられない(棋譜はこちら)。
まさに死角に入ったとしかいいようのない手だが、ついでにもうひとつビックリなのが、このシリーズは4勝2敗で、中原が名人を奪取していること。
こんな負け方をしても、そこから立て直せる中原のずぶとさもすごい。
それとも、こんな笑うしかないようなミスだと、案外と尾を引かないものなのだろうか。
なんにしても、強い人の精神構造というのは、すごいものであるなあ。
(羽生善治の「遠見の角」編に続く→こちら)