前回(→こちら)の続き。
「正義の怒り」の快感に身をひたすことには気をつけろ、と言いたいのは、自分の中にもまたそういった
「自分が《悪》と認定したものをたたいて気持ちよくなりたい」
という危険な願望が、きっとゼロではないからだ。
そう感じたきっかけは、昔『M』という映画を観たから。
『M』は1931年、ナチス台頭直前のドイツで公開された作品。名匠フリッツ・ラングによるサイコスリラーの傑作だ。
「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれた殺人鬼ペーター・キュルテンをモデルにしたとされる主人公(ペーター・ローレが怪演)は、小さな女の子をねらって殺すシリアルキラー。
警察の必死の捜査にもかかわらず、なかなか正体を現さない犯人に業を煮やし、ベルリン暗黒街のギャングたちや、街の自警団も立ち上がることに。
エルジーという女の子が行方不明になったとき、盲目の男が、たまたまグリーグの『ペール・ギュント』の口笛を聴いたという証言から、徐々に犯人の正体が明らかになる。
目印として、背中に「M」(「Moerder」ドイツ語で「殺人者」の意)の文字をつけられた犯人は、次第に暴徒と化していく民衆に追い詰められ、ついには……。
……というのが、だいたいのストーリーで、もう今回は最後まで語っちゃいますが、私が気になったのがまさにラストのシーン。
街の人々によって地下室に連れこまれたペーター・ローレは、証拠を突きつけられ、罪を認めることを余儀なくされる。
このままでは殺されると恐怖したペーターは、自らの精神の不安定さを訴え
「警察に連れていけ」
「裁判を受けさせろ」
とさけぶが、市民たちは怒りの声と嘲笑しか彼にあたえない。
地下室の興奮がピークに達したとき、だれかが声をあげる。
「おまえの権利は死ぬことだけだ!」
「殺人者に慈悲などいらない!」
「怪物は殺せ!」
それを合図にしたようにタガが外れ、みながペーターに襲いかかろうとしたところで、警察が入ってくる。
手をあげる市民たち。警察はペーターの肩に手を置くと、
「法の名のもとに」
その後、審理のシーンが少し入って、被害者遺族の
「こんなことをしても、あの子は帰ってこない」
「だれもが子供の近くにいて見守らないといけないのです」
という言葉で幕となる。
この映画のラストは、説明セリフのようなものがないので、解釈も様々だ。
「人民裁判」のシーンを当時「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチスの正式名称)が力をつけつつあった、不安定なドイツの世相を表現しているという人もいれば、
「精神病者を法で裁けるのか」
といった、今でも解決されることのない問題を突きつけてくるという人もいる。
また、どんな犯罪者にも「法」を適用させる警察の態度から
「法治国家のあるべき姿」
を描いているという解釈もあり、それらはおそらくひとつだけでなく、多重的な層をなして映画の中に組みこまれているのだろう。
ただ、私の感想は違った。
いや、私も映画好きで、それなりに数も観てきたから、上記のような意見は理解できるつもりだし、おそらくそれは映画論的には「正しい」のだろう。
しかし、私はこの映画を最後まで見終えて感じたことはただひとつであり、それこそが、
「市民たちは警察が入ってくる前に、この鬼畜の殺人者をとっとと殺しておくべきだったのに」
という、「正義の怒り」なのである。
(続く→こちら)