「その映画の観方と解釈、間違ってますよ」。
なんて指摘を受けることが、たまにある。
本や映画が好きなので、おもしろい作品に出会うと、あれこれ語りたくなるのだが、それが相手の心にヒットしないなんてことはよくあるもの。
間違っている。
そう突きつけられると、若いころはビビったものだ。
映画や小説についてドヤ顔でテーマや見どころを披露したのに、時に冷笑するように、時に怒りや、あわれな人を見るような目で、ドカンと爆弾を落とされる。
根が小心者なので、そうなるとこちらは顔面蒼白。全身から冷や汗が噴き出し、や……やってもうた……と、言葉を失ってしまう。
とりあえずその場は、「あ、そうなんすかー」と笑ってごまかすとして、すぐさま本屋か図書館にダッシュ。
「映画」コーナーに行くと、そこにある
「世界名作講座」
「名画の鑑賞法」
「監督、自作を語る」
みたいな本を、かたっぱしから手に取って熟読。
上下左右、様々な角度から、徹底的に「テーマ」「構成の妙」「監督の演出意図」などなどを付け焼刃的に頭に放りこみ、理論武装に血道をあげることとなる。
でもって、そこで仕入れた知識を他の場所で、あたかも自分だけの解釈のように披露し、
「どうや、オレは映画にくわしいやろ! 教養もあるやろ! 難解なテーマも見逃せへんぜ!」
懸命に恥を雪ごうとしたものだ。
今思えば若かったというか、まあ映画や読書好きというのは一度はというか、星の数ほどこういうトホホな時代を経験し赤面することになる。
まあこれはこれで、「聞くは一時の恥」みたいに勉強にもなる面もあるわけで、あながち悪いことだけでも、ないかもしれなけど。
では、ナウなヤングでなくなった現在ではどうなのかといえば、これが「間違ってる」とか言われても、全然平気になってしまったなあ。
日常会話とか、あとこのブログでも、たまに映画や小説を取り上げると、
「それ違うよ」
「的外れな感想でガッカリしました」
なんてコメントをいただいてしまうこともあるけど、
「ま、それもまたよし」。
と思うくらいで、昔みたいに、あわてることもなくなってしまった。
その理由としては、まずそんな
「間違ってるかどうか」
なんて、どうでもいいやん、ということ。
映画でも小説でもお芝居でも、一番大事なのは
「自分にとっておもしろいかどうか」
であって、そんな
「この作品はどういうテーマで作られているのか」
「このシーンはどういう意味があるのか」
なんてことを発見するために見るわけでもない。
いや、もちろん「テーマ」や「意味」も大事だけど、それはわかったらいいし、わからなければ後で人に訊くとか評論家の本でも読めばいい。
でもそれは
「わかると、作品をより楽しむことができる」
からするものであって、別にそのことをドヤ顔で語って、頭のよさや映画知識の豊富さを競ったり、まして他者に優越感を感じたり、「正しい」のお墨付きをもらうためであるなら、
「まあ、それはどっちでもいいなあ」
という気になってしまうのだ。
たとえば、私は町山智浩さんのファンで、著作や『WOWOW映画塾』を楽しんでいるけど、町山さんの
「取材力」
「教養」
「洞察力」
といったものは大いに学んで、吸収させてもらっている一方で(名著『映画の見方がわかる本』は今もバイブルです)、ことこれが「解釈」になると意見が違ってても、なんとも思わない。
だって、映画や小説の解釈には「正解」があって、それ以外の鑑賞法や感想を「ダメ」というのなら、そんなものテストでも受けさせられているようなもんで、楽しくもなんともない。
そんなことに、1800円と2時間という時を払いたくないよなあ、と。
もちろん、若いときはそれが「教養」に結びつくし、知識を競い合うオタク的会話も基本的には大好きだけど、それよりなにより、心から笑ったり泣いたり心震わせたりして、
「ええもん見たなあ」
と満腹するのが、あえてこの言葉を使えば「正しい」鑑賞法だろう。
そこで感じたことを「間違い」と言われたら、「そっすかね、恥かきましたか」とか頭をかきながら、でも心の中では、
「ま、でもそれはそれで、ネ」
としかならないのだ。今となっては。
さらにいえば、これは個人的嗜好かもしれないけど、これまで映画や小説の話をしてきた経験上「正しい解釈」を語る人よりも、
「おもしろく間違っている人」
この話を聞く方が、圧倒的におもしろいということに、気づいたからでもあるのだ。
(続く→こちら)