前回(→こちら)の続き。
小説や映画の感想を「間違っている」「的外れ」と言われても、昔と違って全然気にならなくなったのは、
「独自的で、おもしろく間違っている人」
の話を聞く方が、圧倒的に楽しいからだ。
岡田斗司夫さん言うところの「トシオの妄想」というやつだ。
映画や小説には「正しい解釈」というか、それに近いものというのはたしかに存在する。
「ゲーリー・クーパーとグレース・ケリーの『真昼の決闘』は、監督のフレッド・ジンネマンがハリウッドに蔓延する《赤狩り》を批判したもの」
といったことは、評論家による解説や、監督のインタビューなどで語られてて、こういう
「製作者の意図」
「映画史における作品のポジション」
「無意識に出てしまった監督の思想や欲望」
などなどが、きっと定義的には「正解」となるのであろう。
しかしまあ、こういうのはプロにまかせておけばいいのではないか。
たとえば、中島らもさんはチャーリー・チャップリンの名作『モダンタイムズ』を見て、怒りを覚えたという。
激おこのシーンは、かの有名な、チャップリンが歯車の中で弁当を使うシーン。
そこでチャーリーは機械によって、スープを顔にぶっかけられたり、トウモロコシで歯みがきをさせられたりするわけで、この場面の「正解」はもちろんのこと、
「機械に支配されるかもしれない、ディストピア的未来を喜劇的手法で表現している」
ということだろうが、らもさんは子供のころ、ここを観ながら、
「チャーリー! おまえ、オレよりええもん食うてるやんけ!」
機械に支配されてもいいから、あんな豪華なランチを食べたいんやと。
これには文明批判のつもりのチャーリーも、スココーン! とズッコケることであろう。
似たようなところで、『アパートの鍵貸します』でも、ジャック・レモンが冷凍食品の弁当で夕食をすますシーンがあって、もちろんこれも、
「独身男のわびしい晩餐」
を表しているのだが、和田誠さんと三谷幸喜さんは対談でこの映画を取り上げ、
「みじめさを表現してるんでしょうけど、チキンとかあって、おいしそうなんですよね」
これらの感想など、思いっきり制作サイドの思惑と逆を行っている「間違った」ものだけど、私としては「たしかに」と納得いくものであったし、
「『貧しかった昭和日本』の経済や食事情」
を理解させてくれるところもある。
東野圭吾『容疑者Xの献身』は本格推理というより、
「モテない男の純愛小説」
と読み解く作家の本田透さんや、ラジオで映画『プリティ・ウーマン』を、
「主人公が男前じゃなかったら、とんでもなくゲスいストーリーや! その証拠にリチャード・ギアをサモ・ハン・キンポーに入れ替えたら、女性陣だれも観ませんよ!」
そう喝破した、竹内義和アニキ。
映画評論家の町山智浩さんなど、『ポセイドン・アドベンチャー』のことを、「WOWOW映画塾」ではダンテの『神曲』をベースにメチャクチャ格調高く語ってたのに、『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』では、
「太ももだよ! この映画は若いオネーチャンがホットパンツから健康的な太ももを見せるのところがポイントなんだよ! リメイク版でそれを入れなかったのは万死に値する!」
いやもう、これには「ダンテはどこ行ってん!」と爆笑しながらも、大いに共感してしまったもの。
私も友人ナニワ君と映画『アベンジャーズ』を一緒に見たとき、
「スカーレット・ヨハンソンの尻がサイコーや!」
しか言わなくて、昼下がりのファミレスで、周囲の家族連れや女子高生にイヤな顔をされたもの。
いや、『アベンジャーズ』の魅力はそこ(だけ)ちゃう!
でも、いいんである。
そう考えると、私がこうした「そことちゃう!」な話が好きなのも、だれかと映画の話をするときは、その映画がどうとかよりも、
「その映画を見て、目の前の人がどう思ったか。自分とは違う、どんな独自の世界観を見せてくれるのか」
これを期待しているのだ。
いわば人を見ているのであって、作品はその「触媒」のようなものかもしれない。
その化学反応こそが興味深く、きっとそれは作品自体の生の魅力とは別個のもの。
その両方があってこそ、「映画談義」は豊かなものになり、「正解」よりも主観にかたよっていればいるほど、おもしろい。
だからそう、われわれは「正しい」に臆することなかれ。
間違うために、映画館に行こう!
(続く)
映画や小説は楽しく鑑賞するのが一番ですよね。