『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を読む。
作家の池澤夏樹氏と、ヘブライ語の研究者である秋吉輝雄氏が、聖書というものを軸に宗教について語るというもの。
旧約聖書やユダヤ教といった、世界史的にメジャーなのにもかかわらず、なんとなくなじみのない宗教について、言及されているところが興味深い。
ヘレニズムの影響を受けて、外へ拡大したキリスト教とちがって、バビロン捕囚から、ユダヤ教はどこまでも身内だけでループした。
それゆえユダヤ教は世界宗教になれなかったが、その分原理主義的に結束が強くなったといった指摘など、歴史理解に非常にためになる話が満載。
日本人が宗教にピンとこなかったり、偏見があったりというのはよく言われることだが、これが歴史的に密なつながりのないユダヤ教となると、さらにわからないことだらけだ。
その際たるは宗教的戒律。
曰く「豚を食うな」とか、「安息日は休め」とか、断食とか、乳製品と肉は一緒に食べるなとか、魚は鱗のついているものはダメとか。
なんで、ウロコのついていない魚はダメなのか。ウナギの蒲焼き、おいしいよ。
乳製品と肉がダメとなれば、池澤氏が指摘するように親子丼は食べられないということで、宗教素人には「じゃあピザもダメなのか」と、たいそう残念な気分になってしまう。
あれこれと厳しい戒律があり、ユダヤ教徒は息苦しくないのかといえば、秋吉さんによると、ひそかな抜け穴というのはあるらしい。
たとえば、ユダヤ教は金曜の夜から土曜日が安息日。
その日は、一切の労働を禁じられている。
というと、
「わーい、仕事しなくてよくてラッキー」
などと安易に考えてしまいがちだが、ユダヤの安息日をなめてはいけない。
ユダヤ教では土曜日には、エレベータのボタンを押すのも禁止なのである。それは「労働」にあたるという。
ちゃんと休めよ。
その神からの命令によって、エレベータのボタンも押せない。
こういったことを聞くにつれ、
「宗教って、めんどくせーなー」
と思うわけだが、それは当のユダヤ教徒でも思うようなのだ。
神、めんどくさ、と。
なので、きびしい戒律にもスキマを見つけて、あれこれとしのぐそうな。
「安息日には、エレベータのボタンも押してはいけない」
という規則には、こんなルールが適応される。
「たまたま身体が、ボタンにぶつかったのならOK」。
たまたまならOK。
そんな、アバウトでいいのか。
というか、そういう抜け道でもないと、たしかに高層マンションに住んでいる人とか、えらいことになる。
お年寄りとか、エレベータなしで、どう生活すればいいのか。そこに「たまたまならOK」。
きっと週末には、世界中の高層ビルやマンションが、「たまたま」ボタンにぶつかってしまったユダヤ人で、あふれるのであろう。
他にも、旅行をするのに、前もって歩行のゆるされる場所まで荷物を持っていって、安息日にそれを拾っていくとか、ヒゲを剃ってはいけないけど、
「電気カミソリはいけないとは聖書に書いてない」
だから、電気カミソリでヒゲを剃るのはあり。
すごい理屈だ。というか、それいっちゃったら、けっこう多くの「労働」がゆるされてしまうのでは?
スマホでエロ動画検索も、聖書の記述にないからアリとか、ありがたい話だ。
安息日は、煙草を吸うのも禁止だが、どうしても吸いたければ、前日からロウソクをつけておいて、その火で煙草に火をつけ、
「マッチをするのは安息日にはしてはならないけど(「労働」だから)、このロウソクは前日につけていたからセーフ」。
池澤氏いうところの「スーパー屁理屈」というとか、ほとんど一休さんの世界であるが、それもありなのである。
ハシを渡ってはいけないから、真ん中を渡ってきたんですよ。
なんだか妙に人間くさいというか、こういう話を聞くと、ふだんはなじみのないユダヤ教というのが、ぐっと身近に感じられる。
ユダヤにしろイスラムにしろ、ともするとガチガチのお堅い人をイメージしてしまうが、案外とゆるく対応している人もいるようだ。
人生ゆるゆるがモットーの私としては、多いに参考にしたいところである。