「人生を生きる意味はあるから、その答えを教えよう」。
そう少女に言ってみたくなったのは、ある休日の昼下がりだった。
きっかけは、駅前のカフェでお茶を飲んでいたときのこと。隣の席から、こんな声が聞こえてきたのだ。
「生きる意味って、ホンマにあるんかなあ」。
ちらと横目で見ると、そこにいたのは制服を着た女子高生2人組であった。
一人は背が高く細身な子で、もう一人は丸くて小さい。
思わず、アブラハムには7人の子♪ と歌い出したくなるようなコンビであったが、ボヤキの主はちっちゃい子の方のようである。
ミニマムなマムコちゃん(勝手に命名)は、アイスティーのストローを指先でいじりながらボソボソという。
曰く、自分の人生は冴えない。顔は地味だし、チビだし、成績も並。彼氏もいない。
部活に打ちこんでるわけでもなく、人に自慢できるような特技もないし、なにより自分にはやりたいことがない。
どうやらマムコちゃんにとって、自分が平凡であることに加えて、
「やりたいことが、なにもない」
このことがコンプレックスらしく、さかんにこれを繰り返し、もう17歳だというのに夢もなく茫洋と生きている自分が耐えられないというのだ。
なにを目標にして生きたらいいんだろう。こんなダラダラ時が流れていくだけの人生なんて、意味があるのかなあ。
青春の蹉跌である。まあ、こういってはなんだが、ありがちな悩みだ。
しかしである。ヤングの悩みは端から見れば陳腐でも、それはそれなりに、当時は本気で煩悶していたもの。
それを「ありがち」の一言で一蹴してしまうのは、なんとなくはばかられるところがある。
なにやら昔の自分から、
「はー、アンタもえらなったもんやのう」
冷たく皮肉られるような気もしてくるではないか。
だが、これは難問でもある。
人はなんのために生きるか。これまで、多くの文学者や哲学者が挑んできたが、いまだ決定版が出せていない問いだ。
人類の知性が何千年も考えて、いまだコレという回答がメジャーになっていないところを見ると、
「そんなもの、ないんでないかい?」
というのが結論かもしれないし、
「年とったら、まあどうでもよくなるよ」。
というのも事実ではあるけど、そこはそういってしまうとミもフタもないし、若気至って真っ最中のマムコちゃんも、そういう「大人の回答」には納得できないであろう。
そんなシンプルだが深遠な問いを、ぶつけられて困るのは相方の背の高いタカコちゃん(やはり勝手に命名)。悩める友の問いに、「うーん」と首をかしげながら、
「楽しむため」
「人類の種を残すため」
「誰かを幸せにするため」
「なにか生きてきた証を残すため」
などと、あれこれひねり出し、果ては、
「生きるために、生きるんじゃないかなあ」
などと、ちょっと逃げ気味の(でもたぶん間違いではない)答えなど提出してみるが、おそらくは眠れない夜にベッド中で、それくらいのことはとっくに検討済みなのだろうマムコちゃんも、
「でも、今楽しくないもん」
「子供とか、好きやないし」
「彼氏いてないの知ってるやん。家族とも最近、口きいてないし」
「そもそも、やりたいこともないのに、なにかを残せるわけないやん」
親切な友人に、容赦のないカウンターを連発。果ては、
「いろいろ言ってっけど、どれも全部、言いくるめるための屁理屈でしょ?」。
とりつく島もないというか、あつかいにくいお年ごろである。
これにはタカコちゃんも、困ってしまってワンワンワワンと吠えこそしないが、「そっか、むずかしいなー」と腕組みをして考えこんでいる。
ややこしい友人相手に、真剣なもんだ。人によってはブチ切れてる可能性もあるのにねえ。
私は横で『オール東宝怪獣大進撃』を読みながら(←女子のいるカフェでそんなもん読むんじゃない)、漏れ聞こえてくる内容に、ついつい笑みがこぼれるのを禁じ得なかった。
若気の至り爆発な話もさることながら、なんかこの二人がいいコンビというか、ふつうなら
「ウザ」
「アンタ、マジめんどい」
人によってはあっさり無視して、スマホでもいじりはじめそうなシチュエーションの中、あれこれと一緒に考えてくれるタカコちゃんが、もうとってもラブリーである。
私から見れば、そういう友を持てたことだけでもマムコちゃんは果報者というか、充分に
「生きる価値ある人生」
を歩んでいると思うけど、まあきっと、彼女が望んでいる答えはそういうものでもないのだろう。
では、やはり彼女のいう
「人生に生きる意味などないのではないか」
という問いに「正解」はあるのかといえば、実はこれがある。
そう断言してしまうと、「ホンマかいな」と笑われそうだが、これは断じてある。
私のような阿呆の言葉が信用できないなら、私よりも頭が良くて、人生経験も豊富で、多くの支持者を集めている著名人の言葉として紹介してもいい。
彼らも、はからずも私と同じことをいっているのだから。
だから、私は答えてあげたくなったのだ。
「意味はあるよ」と。
(続く→こちら)