前回(→こちら)の続き。
「グランドスラム達成」を逃したチャンピオンにも、「おしかった」選手と「やろうな」と納得されてしまう選手に分かれる。
前者にはイワン・レンドルとステファン・エドバーグ、後者はボリス・ベッカーとマッツ・ビランデルであるが、中でも「やろうな」感バリバリなのはピート・サンプラスだ。
ウィンブルドン7回優勝を筆頭に、4大大会14度の優勝を誇るサンプラスだが、ついにローラン・ギャロスのカップだけは頭上に掲げることができなかった。
ビッグサーブを軸とした攻撃的プレーヤーであった彼は、スタイル的にクレーコートが苦手ではあったが、特にパリの赤土とは決定的に相性が悪かった。優勝どころか、決勝進出もままならず、時にはまともにシードも守れずに早期敗退をくり返す。
たとえば1995年の全仏では、1回戦で敗退している。
しかもその相手が、オーストリアのジルベール・シャラーという選手。こういっちゃあなんだが、「誰やねん」な相手であり、ファイナルセットまで引きずりこまれた末に敗れた。
私が初めて読んだ『テニスマガジン』がこの大会の特集だったから、よく覚えている。記者会見でガッカリしたピートの写真が掲載されていたものだ。
世界ランキング1位が見事な1コケ。
普通の大会なら、会場が騒然となるところだが、ことフレンチのサンプラスに限っては、むしろこれが「標準装備」という感じだ。「やろうな」と。
ベッカーもフレンチでは初戦敗退を食らっているが、このときの相手は若手バリバリのゴーラン・イバニセビッチだったから、まだ情状酌量の余地もある。
シャラーはあかんやろ、シャラーは。
96年は好調で準決勝まで進出したが、97年大会は、1回戦で「魔術師」ことファブリス・サントロを引くという(しかも地元選手だ)微妙に嫌なくじ運。
そこは突破し、2回戦もフランシスコ・クラベットに快勝するも、3回戦で売り出し中の若手で、3年後この大会で決勝に進出するマグヌス・ノーマンに敗れた。
98年は、1回戦でトッド・マーチンを引くというタフドロー。
ここはなんとかクリアするも、2回戦でパラグアイのラモン・デルガドに敗れる。
ラモンは最高ランキング52位という中堅選手。南米出身ということでクレーに強いのだろうが、それにしたってここで負けてはナンバーワンの名が泣く。
99年大会は1回戦で、コスタリカの中堅選手(最高ランキング55位)フアン・アントニオ・マリンにフルセットまで食いつかれ大消耗。
たしか試合後の記者会見では、
「ようこそパリへって試合だったね(苦笑)」
とヘロヘロの状態で語って、ちょっとした笑いを誘っていたが、なんとか冗談を言えたのもそこまでで、2回戦では準優勝するアンドレイ・メドベデフと当たってしまい沈没。
2000年大会は、いきなり「スカッド」ことマーク・フィリポーシスとぶつかってしまう。
マークもクレーは得意ではないが、グランドスラム2度準優勝の男と一発目に当たってしまうというのは、いかにもつらい。
ファイナルセット6-8の激戦の末、またも1コケ。
2001年は1回戦で、これまた無名のセドリック・カウフマンにファイナル8-6までねばられての辛勝。マッチポイントを3つもしのいでの、ギリギリの勝利だった。
すでに全盛期の力はないうえに、やっとこさ1回戦でトッドやマークじゃない楽な相手を引いたら、この有様ときては、もはや期待などしようもない。
予想通り、2回戦では過去ベスト8進出の実績もあるクレーのスペシャリスト、ガロ・ブランコにやられた。
最後のエントリーとなった2002年は相当に気合を入れて挑んだようだが、初戦でイタリアのアンドレア・ガウデンツィに完敗。
実力者ガウデンツィ相手に思うようなプレーができなかった彼は、いらだちをかくせず、ボールを観客席に打ちこむなどクールな王者のキャラクターからは考えられない醜態も披露。
夜の9時までかかったこの試合は最後観客もまばらで、なんともさみしい結末となってしまい、ここに彼のローラン・ギャロスへの挑戦は終わりを告げた。
こうして振り返ると、無敵の王者だったサンプラスも、ことローラン・ギャロスに関してはほぼノーチャンスだったと感じられる。
楽なドローを引けば、たいていファイナルセットまで引きずりこまれ、よしんば勝てても次の相手がノーシードの中での強敵でやられてしまう。
もしくは、そもそも「なんでやねん」といいたくなる、冗談みたいなタフな相手を引いて、そのままサヨナラ。
これじゃあ、上位進出など望めそうにない。つくづく「持ってない」としかいいようがない。
それともうひとつ、ピートのフレンチでの苦戦を振り返ってみると、コートとの相性やくじ運以外に、もうひとつ大きな要素があったと考えられる。
(続く→こちら)
☆おまけ シャラ―とサンプラスの戦いの一部はこちらから
「グランドスラム達成」を逃したチャンピオンにも、「おしかった」選手と「やろうな」と納得されてしまう選手に分かれる。
前者にはイワン・レンドルとステファン・エドバーグ、後者はボリス・ベッカーとマッツ・ビランデルであるが、中でも「やろうな」感バリバリなのはピート・サンプラスだ。
ウィンブルドン7回優勝を筆頭に、4大大会14度の優勝を誇るサンプラスだが、ついにローラン・ギャロスのカップだけは頭上に掲げることができなかった。
ビッグサーブを軸とした攻撃的プレーヤーであった彼は、スタイル的にクレーコートが苦手ではあったが、特にパリの赤土とは決定的に相性が悪かった。優勝どころか、決勝進出もままならず、時にはまともにシードも守れずに早期敗退をくり返す。
たとえば1995年の全仏では、1回戦で敗退している。
しかもその相手が、オーストリアのジルベール・シャラーという選手。こういっちゃあなんだが、「誰やねん」な相手であり、ファイナルセットまで引きずりこまれた末に敗れた。
私が初めて読んだ『テニスマガジン』がこの大会の特集だったから、よく覚えている。記者会見でガッカリしたピートの写真が掲載されていたものだ。
世界ランキング1位が見事な1コケ。
普通の大会なら、会場が騒然となるところだが、ことフレンチのサンプラスに限っては、むしろこれが「標準装備」という感じだ。「やろうな」と。
ベッカーもフレンチでは初戦敗退を食らっているが、このときの相手は若手バリバリのゴーラン・イバニセビッチだったから、まだ情状酌量の余地もある。
シャラーはあかんやろ、シャラーは。
96年は好調で準決勝まで進出したが、97年大会は、1回戦で「魔術師」ことファブリス・サントロを引くという(しかも地元選手だ)微妙に嫌なくじ運。
そこは突破し、2回戦もフランシスコ・クラベットに快勝するも、3回戦で売り出し中の若手で、3年後この大会で決勝に進出するマグヌス・ノーマンに敗れた。
98年は、1回戦でトッド・マーチンを引くというタフドロー。
ここはなんとかクリアするも、2回戦でパラグアイのラモン・デルガドに敗れる。
ラモンは最高ランキング52位という中堅選手。南米出身ということでクレーに強いのだろうが、それにしたってここで負けてはナンバーワンの名が泣く。
99年大会は1回戦で、コスタリカの中堅選手(最高ランキング55位)フアン・アントニオ・マリンにフルセットまで食いつかれ大消耗。
たしか試合後の記者会見では、
「ようこそパリへって試合だったね(苦笑)」
とヘロヘロの状態で語って、ちょっとした笑いを誘っていたが、なんとか冗談を言えたのもそこまでで、2回戦では準優勝するアンドレイ・メドベデフと当たってしまい沈没。
2000年大会は、いきなり「スカッド」ことマーク・フィリポーシスとぶつかってしまう。
マークもクレーは得意ではないが、グランドスラム2度準優勝の男と一発目に当たってしまうというのは、いかにもつらい。
ファイナルセット6-8の激戦の末、またも1コケ。
2001年は1回戦で、これまた無名のセドリック・カウフマンにファイナル8-6までねばられての辛勝。マッチポイントを3つもしのいでの、ギリギリの勝利だった。
すでに全盛期の力はないうえに、やっとこさ1回戦でトッドやマークじゃない楽な相手を引いたら、この有様ときては、もはや期待などしようもない。
予想通り、2回戦では過去ベスト8進出の実績もあるクレーのスペシャリスト、ガロ・ブランコにやられた。
最後のエントリーとなった2002年は相当に気合を入れて挑んだようだが、初戦でイタリアのアンドレア・ガウデンツィに完敗。
実力者ガウデンツィ相手に思うようなプレーができなかった彼は、いらだちをかくせず、ボールを観客席に打ちこむなどクールな王者のキャラクターからは考えられない醜態も披露。
夜の9時までかかったこの試合は最後観客もまばらで、なんともさみしい結末となってしまい、ここに彼のローラン・ギャロスへの挑戦は終わりを告げた。
こうして振り返ると、無敵の王者だったサンプラスも、ことローラン・ギャロスに関してはほぼノーチャンスだったと感じられる。
楽なドローを引けば、たいていファイナルセットまで引きずりこまれ、よしんば勝てても次の相手がノーシードの中での強敵でやられてしまう。
もしくは、そもそも「なんでやねん」といいたくなる、冗談みたいなタフな相手を引いて、そのままサヨナラ。
これじゃあ、上位進出など望めそうにない。つくづく「持ってない」としかいいようがない。
それともうひとつ、ピートのフレンチでの苦戦を振り返ってみると、コートとの相性やくじ運以外に、もうひとつ大きな要素があったと考えられる。
(続く→こちら)
☆おまけ シャラ―とサンプラスの戦いの一部はこちらから