本日は小島剛一『トルコのもう一つの顔』という本を紹介したい。
トルコというのは、日本ではあまりなじみはないが、私のような旅行好きにはすこぶる評判の良い国である。
イスタンブールの街並みやカッパドキアの奇岩、古代の遺跡の数々、物価も比較的安価で食事も美味しい。
そしてなによりも親切でフレンドリーなトルコ人との出会いと、旅を楽しむのに必要な要素がこれでもかと(旅行者をねらったボッタクリ店や詐欺師をのぞけば)詰まった国なのだ。
だが、そんな旅行者のパラダイスとも言えるトルコに知られざるもう一つの、それも外からは絶対にうかがい知ることのできない、暗黒面ともいえる怖ろしい顔があることを著者は本書であばいてしまうのだ。
言語学者である小島剛一氏は、やはり私と同じくトルコとトルコ人の魅力に取りつかれ、毎年のように彼の地をおとずれ言語学的フィールドワークにはげんでいた。
綿密な調査を送る中、小島氏はトルコ政府の言語教育が極めて偏ったものであることに違和感を抱くようになる。
専門的な話は本を読んでもらうとして、ここでざっくりと説明すれば、トルコ政府の見解ではこうなっているという。
「トルコはトルコ人単一民族の国であり、言語もトルコ語しか存在しない」
これはおかしいと著者は言う。
彼の国の奥地まで潜入して調査している氏にとって、トルコにはトルコ語を母語としないラズ人、ザザ人といった少数民族が存在する。
そもそも世界情勢にうとい私だって、トルコには「クルド人問題」というのがあることくらいは知っている。にもかかわらず、
「トルコが単一民族、単一言語国家」
と押すのは無理があろうというのは、素人でもひっかかるところだ。
だが、トルコ政府の言うことには、
「あれはすべてトルコ人で、彼らが話す言葉はすべて《トルコ語の方言》にすぎない」
これに専門家である小島氏は「ちょっと待て」と。そのような乱暴なうえに手前勝手な理屈は我慢ならん。
そんな説などトルコ国内だけでしか通用しない、世界の言語学者がだれひとり認めていない妄想に過ぎないと大反論。
専門家の意地にかけて、あらゆる論理と実証からトルコ人を次々論破していく小島氏の迫力は読み所だが、一方のトルコ政府はそのような意見を一顧だにしない。
いや、できないといっていいだろう。というのも、トルコ政府は自国が「多民族国家」であることを認めると、少数民族のナショナリズムに火がつき(実際クルド人などは各地で激しい抵抗運動を行っている)国体維持が難しくなると怖れている。
さらにトルコには、今は零落したがかつての「オスマン帝国」のプライドがいまだ捨てられず、「とにかくトルコが偉い」という証拠を(仮にそれが妄想や捏造でも)ぜひとも探したい。
その「大トルコ主義」によれば中央アジアから果てはジンギスカンまでが「トルコ語をしゃべるトルコ人」ということになる。だからトルコは偉いのだ、と。
ここまでくれば小島氏ならずとも「んなアホな」であろうが、ちょっと鏡を見てみれば、我が国もさほど人のことも言えまい。
国や民族というのは自分たちのプライドを満たす(特に経営がうまくいってないときは)ためには、「嘘でもいいから偉いと言いたい」因果な存在なのだ。
日本やトルコだけじゃない。あの国も、この民族も、地球上すべての人間がそう。
世の歴史書を読めば、世界の国々が、いかに「自分たちに心地よい歴史」を語りたくて必死か、滑稽なほどによくわかるときがある。
問題はその「自分の心を守るための嘘」ために、そこに内包された欺瞞を(自ら望まずとも)暴いてしまう存在が、迫害されることがあることだ。
(続く→こちら)