前回(→こちら)の続き。
『マヨブラジオ』という番組で、映画『フランケンシュタイン』を見て、
「ただ姿が醜いというだけで、みなから石を持って追われるフランケンはオレと同じなんや!」。
そう熱く思いのたけをぶつける、ブラックマヨネーズの吉田さん。
だが、相方である小杉さんは、それを聞くと、「そうか」と同調するかと思いきや、腹をかかえて爆笑したのだ。
軽くおどろいて、
「え? 今の話の、なにが笑うところあるん?」
そうたずねる吉田さんに小杉さんは、
「あんなバケモンに感情移入して泣いてるヤツ、世界でお前だけやぞ!」
バシッと、そうツッコミを入れておられ、共演していたアナウンサーの林マオさんも、「そうですよ」とうなずいていた。
これには、ポカンとする吉田さんの顔に、テレビの前で笑ってしまったもの。
そう、このおふたりが笑ったのは、おそらく映画自体を観ていなかったからと、あと吉田さんの熱弁を「ボケ」と解釈したからであろうけど、それ以上に両者が、いわゆる「リア充」系の人ということもあるのだろう。
たしかに『フランケンシュタイン』という映画の根底には
「醜いゆえ、理不尽にしいたげられた者の悲しみ」
が存在するが、そういう目にあったことのない人には、なんのこっちゃかもしれない。
その意味では『フランケンシュタイン』の話を聞いて笑う小杉さんと林アナは「幸せ」といえるかもしれないけど、自らを「虐げられたもの」の立場に置く吉田さんとは、同じ作品を見ても感想が真逆になるのだ。
それゆえの「あれはオレ」「そんなんお前だけや」のすれ違い。仲のよさそうなブラマヨの2人にして、このわかりあえなさ。
本当に、物事は見る角度によって、解釈などいくらでも変わるのだ。『ベニスの商人』のシャイロックとか、シェイクスピアの意図はふつうに「ユダヤ人悪役にしたれ」だろうけど、私が読んだときは、
「このアントーニオとかいうヤツは、商才はないしバカっぽいし、金が要るときはおがみ倒して借金するくせに、自分の失敗で金が返せなかったら『そんなに金が欲しいか! この守銭奴! ユダヤの豚め!』とか逆ギレする最悪のクソ野郎やな」
と思ったものだ。ポーシャの言い分は一休さんレベルの「とんち」だし、かといってシャイロックが「悲劇の人」っていう解釈も善人ぶりっこというか、
「こういう捉え方、新しいでしょ? 情感にうったえかけるでしょ?」
っていう「ドーダ」感がイヤな感じだし、読み終わっても全然スッキリせえへん!
ということで、「シェイクスピアの代表的恋愛喜劇」という教科書の記述を見ると、「どこがや!」と、いつもつっこんでしまうのだ。
こういうことって、よくあるよなあ。
他にも、よくマンガ好きだったり、学生時代運動部だったりした友人が、
「『タッチ』の南ちゃんみたいな子、あこがれるよなあ」
なんて言うのを聞いても、
「あんな、男に『甲子園につれてって』とかいうてる女なんて、主体性もなくて、話してもつまんないやろ。だいたい、部内に彼氏(正確にはそうではないけど)がおるマネージャーって、逆に士気下がらへんか?」
なんて思ってしまって、
「えー、なんでやねん」
「かわいいマネージャーに応援される方が、燃えるやん」
とイマイチ賛同されない。
うーん、南ちゃんにかぎらず、私は少年マンガに出てくる
「男の汚れ物洗ってくれそうなマネージャーキャラ」
が、まったく魅力的に思えないのだ。
つきあっても、絶対おもしろくなさそうだものなあ。まあ、私の
「一番好みの二次元キャラは、『あたしんち』のしみちゃん」
という意見も、全然賛同されませんけど。
プロインタビュアーの吉田豪さんや、漫画家の山田玲司さんは、話す相手のことを知ろうとするとき「好きな映画」をたずねるそうだけど、たしかにそれは趣味嗜好というより、
「その人が、自分をどの視点に置いて世界を見ているか」
を探るのに有効そうで、相手を知るにおいて理にかなった質問なのかもしれない。
『マヨブラジオ』という番組で、映画『フランケンシュタイン』を見て、
「ただ姿が醜いというだけで、みなから石を持って追われるフランケンはオレと同じなんや!」。
そう熱く思いのたけをぶつける、ブラックマヨネーズの吉田さん。
だが、相方である小杉さんは、それを聞くと、「そうか」と同調するかと思いきや、腹をかかえて爆笑したのだ。
軽くおどろいて、
「え? 今の話の、なにが笑うところあるん?」
そうたずねる吉田さんに小杉さんは、
「あんなバケモンに感情移入して泣いてるヤツ、世界でお前だけやぞ!」
バシッと、そうツッコミを入れておられ、共演していたアナウンサーの林マオさんも、「そうですよ」とうなずいていた。
これには、ポカンとする吉田さんの顔に、テレビの前で笑ってしまったもの。
そう、このおふたりが笑ったのは、おそらく映画自体を観ていなかったからと、あと吉田さんの熱弁を「ボケ」と解釈したからであろうけど、それ以上に両者が、いわゆる「リア充」系の人ということもあるのだろう。
たしかに『フランケンシュタイン』という映画の根底には
「醜いゆえ、理不尽にしいたげられた者の悲しみ」
が存在するが、そういう目にあったことのない人には、なんのこっちゃかもしれない。
その意味では『フランケンシュタイン』の話を聞いて笑う小杉さんと林アナは「幸せ」といえるかもしれないけど、自らを「虐げられたもの」の立場に置く吉田さんとは、同じ作品を見ても感想が真逆になるのだ。
それゆえの「あれはオレ」「そんなんお前だけや」のすれ違い。仲のよさそうなブラマヨの2人にして、このわかりあえなさ。
本当に、物事は見る角度によって、解釈などいくらでも変わるのだ。『ベニスの商人』のシャイロックとか、シェイクスピアの意図はふつうに「ユダヤ人悪役にしたれ」だろうけど、私が読んだときは、
「このアントーニオとかいうヤツは、商才はないしバカっぽいし、金が要るときはおがみ倒して借金するくせに、自分の失敗で金が返せなかったら『そんなに金が欲しいか! この守銭奴! ユダヤの豚め!』とか逆ギレする最悪のクソ野郎やな」
と思ったものだ。ポーシャの言い分は一休さんレベルの「とんち」だし、かといってシャイロックが「悲劇の人」っていう解釈も善人ぶりっこというか、
「こういう捉え方、新しいでしょ? 情感にうったえかけるでしょ?」
っていう「ドーダ」感がイヤな感じだし、読み終わっても全然スッキリせえへん!
ということで、「シェイクスピアの代表的恋愛喜劇」という教科書の記述を見ると、「どこがや!」と、いつもつっこんでしまうのだ。
こういうことって、よくあるよなあ。
他にも、よくマンガ好きだったり、学生時代運動部だったりした友人が、
「『タッチ』の南ちゃんみたいな子、あこがれるよなあ」
なんて言うのを聞いても、
「あんな、男に『甲子園につれてって』とかいうてる女なんて、主体性もなくて、話してもつまんないやろ。だいたい、部内に彼氏(正確にはそうではないけど)がおるマネージャーって、逆に士気下がらへんか?」
なんて思ってしまって、
「えー、なんでやねん」
「かわいいマネージャーに応援される方が、燃えるやん」
とイマイチ賛同されない。
うーん、南ちゃんにかぎらず、私は少年マンガに出てくる
「男の汚れ物洗ってくれそうなマネージャーキャラ」
が、まったく魅力的に思えないのだ。
つきあっても、絶対おもしろくなさそうだものなあ。まあ、私の
「一番好みの二次元キャラは、『あたしんち』のしみちゃん」
という意見も、全然賛同されませんけど。
プロインタビュアーの吉田豪さんや、漫画家の山田玲司さんは、話す相手のことを知ろうとするとき「好きな映画」をたずねるそうだけど、たしかにそれは趣味嗜好というより、
「その人が、自分をどの視点に置いて世界を見ているか」
を探るのに有効そうで、相手を知るにおいて理にかなった質問なのかもしれない。