Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§173「白痴」ドストエフスキー, 1868.

2024-06-16 | Book Reviews
 邦訳の題名からは、なんらかを患っているような〈誰か〉への偏見や差別を含む印象を受けますが、読むにつれてそれがそうではないのではという印象に変わっていきました。

「自分が白痴だと言われていることを、私はちゃんと承知しているのですから、まさかそんな白痴はいないでしょうよ」(上巻p.138)

 分かりあえない、もしくは分かりあおうとしない〈誰か〉を、もはや〈わたし〉が分かりあおうとする必要はないような気がします。

 ところで、なぜそれがそうなのか?という問いそのものが成り立たないとき、眼前の世界は同じように観えてはいても、それぞれが観ている〈世界〉は異なっていて、それぞれの価値観や正しさとかも相容れないのかもしれません。

「その理由はただそうしたいからなので、そうしたいことは、つまり、そうしなければならぬことだからだ」(上巻 p.75)

 ひょっとしたら、〈誰か〉にそんな矢を射ようとするとき、実は〈誰か〉からその矢を射られようとしているのかもしれないことを、この小説は示唆しているのかもしれません。

初稿 2024/06/16
写真「弓を引くヘラクレス」1909.
撮影 2024/05/18(東京・国立西洋美術館)

§172「賭博者」ドストエフスキー, 1866.

2024-01-14 | Book Reviews
 ルーレットのように確率的にしか存在しない偶然の組み合わせをあたかも必然であるかのごとく思うとき、たしかにそれはそれで不思議な出来事だと思います。 

「実際、偶然のチャンスの流れの中に、一つの体系とこそ言わぬまでも、なにか一種の順序のようなものがあるのだ。もちろん、それは不思議なことである」(p.47)

 賭博であれなんであれ、たった一つの価値観しか持ち合わせていないと、考えることを見失い、もはやそれだけしか見えなくなることなのかもしれません。

「どこにいても僕の目に映ずるのはあなたの姿だけで、それ以外のものはどうだっていいんです」(p.66)

 ところで、外から見える生身の実体としての私もあれば、まわりからそう思われる私が存在する一方で、様々な条件や環境に依存し、そこで得られた様々な記憶や経験から語らしめる言葉によって存在する〈わたし〉もまた存在するのかもしれません。

 ひょっとしたら、この作品もまた、私が〈わたし〉であるということはどういうことなのかを問うているような気がします。

初稿 2024/01/14
写真 「Trans-Double Yana(Mirror)」名和晃平, 2012.
撮影 2023/12/17(東京・丸の内ストリートギャラリー)

§171「罪と罰」 ドストエフスキー, 1866.

2023-12-22 | Book Reviews
 言葉にはあらかじめ意味が在るからこそ、人が言葉を選んでいると思いがちですが、その人が置かれた環境や状況において、実は言葉がその人に語らせているのかもしれません。

「彼は何かしら奇妙な神秘的なものがあるような気がして、目に見えぬ何ものかの力と符号の存在を感じるのだった」(上巻 p.133)

 ところで、膨大な言葉の数々には"それがそうである"という意味もあれば、"それがそうではない"という意味もあり、ひょっとしたら、言葉が人に語らせているからこそ、正しいこととそうではないことが共存しているのかもしれません。

「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしよに宿っていられるのだ?」(下巻 p.83)

 空想であれ、観念であれ、理論であれ、そして天国であれ、地獄であっても、それらはすべて存在するのではなく、言葉によって生成されたものであると考えると、その言葉に従って行動した結果のひとつが「罪と罰」というテーマなのかもしれません。

初稿 2023/12/22
写真「地獄の門」オーギュスト・ロダン, 1930-1933.
撮影 2012/08/24(東京・国立西洋美術館)

§170「地下室の手記」ドストエフスキー, 1864.

2023-10-22 | Book Reviews
 「地下室」とは、誰しもの心のうちに潜むなにがしかの暗喩なのかもしれません。

「自分にさえ打ちあけるのを恐れるようなこともあり、しかも、そういうことは、どんなにきちんとした人の心にも、かなりの量、積もりたまっているものなのだ」(p.61)

 にもかかわらず、生成AIを万能であるかのように信じてしまい、効率性を享受していたつもりが、いつのまにか考えることを効率化してしまいそうな現代を予言しているような気がします。

「いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれない」(p.43)

 そういう世界観を持つ〈わたし〉が、それがそうであるということを分かるには、それがそうではないということを分かる必要があるのかもしれません。

 〈わたし〉が〈わたし〉であるということはどういうことなのか?その問いを手記という形で深く物語ろうとしたような気がします。

「ぼくの人生においてぎりぎりのところまでつきつめてみただけの話なのだ」(p.205)

初稿 2023/10/22
写真「---?」朝倉響子, ---.
撮影 2023/03/12

§169「虐げられた人々」ドストエフスキー, 1861.

2023-09-01 | Book Reviews
 小さな工場を経営していた老人・スミスの死、彼の孫・少女ネリーの死、そして浮かび上がるスミスの娘でありネリーの母でもあるザリツマンの死という〈世界〉の終わり。

 一方で、小さな農場を経営していた義理の父・イフメーネフと娘・ナターシャが和解した結果、彼女と共に人生を歩むことになった〈わたし〉ワーニャのもうひとつの〈世界〉の始まり。

 ところで、そのふたつの〈世界〉を結びつけたのは、彼女達をかどわかし、その親をも騙して資産を搾取したワルコフスキー公爵の存在に他ならぬものの、その罪と罰を敢えて問わぬのには、著者の意図があるような気がします。

 もしかしたら、〈世界〉は〈わたし〉と〈あなた〉と〈それ以外〉の三人称で構成されているのではと思うことがあります。〈わたし〉であれ、〈あなた〉であれ、〈それ以外〉の人々であれ、虐げた人々と虐げられた人々の〈世界〉が存在するのは何故か?を深く考えさせてくれるのかもしれません。

「なぜ期待できる以上なものを期待したのだろう」(p.254)

初稿 2023/09/01
写真 「女 Woman」朝倉響子, 1970. (cf. α32D)
撮影 2023/01/25(東京・平河町)