Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§72「1973年のピンボール」 村上春樹, 1980.

2017-06-13 | Book Reviews
 「僕」と「鼠」について、旧友である彼がなぜ、「鼠」と呼ばれるのか?「僕」とは異なる視点で社会との距離感を認知し、「僕」とも距離感をもった存在。ひょっとしたら、彼≒「鼠」は、夏目漱石の「吾が輩は猫である」にて登場する名も無き猫の暗喩のような気がします。

 「208」と「209」について、「僕」と共同生活を営む双子の姉妹。「僕」が姉と妹をそれぞれに認識するすべは、着ているTシャツにプリントされた番号のみ。でも、そのTシャツを入れ替えれば、どちらが姉でどちらが妹かは認識するすべも無い。ひょっとしたら、「僕」にとって彼女達は、識別が不要な存在であるかも知れず、認識は常識にあらずして、あくまでも個人に依存していることの暗喩なのかもしれません。

 「ピンボールを探すこと」について、彼女の死という事実は認識しているものの、その原因を解き明かすことができない「僕」。当時、夢中だったピンボールを探すことを通じて、当時夢中だった彼女との記憶を呼び起こして、その原因を解き明かそうとしたのかもしれません。

 因果関係が見当たらない事実に直面したとき、ひとは何らかの意識的な行動によってのみ、乗り越えることができるのかもしれません。

初稿 2017/06/13
校正 2020/11/12
写真「蒼天の塔」安藤泉, 1993.
撮影 2016/02/17(神戸・ハーバーランド)

§71「風の歌を聴け」 村上春樹, 1979.

2017-06-05 | Book Reviews
 最近、河合隼雄の著作を通じて感じたことは、環境への適応や成長・発達に関するプロセスには4つの段階があるような気がします。

 1つめ。認知とは、解釈を伴わず五感によってのみ知覚した純粋経験。言わば、其処に何かが在るという事実。

 2つめ。認識とは、認知した事実の特徴や状態を言語化する行為。言わば、其れは何であるかという事実。

 3つめ。意識とは、認識した幾多の様々な事実や経験の中から、意義や意味、因果関係を見出だす行為なのかもしれません。

 4つめ。自我とは、結果に憂うこと無く、自らがどう在りたいか?その為に何を成すべきか?自らに問いかけ続け、実践し続けることかもしれません。

 村上春樹が描く「風の歌を聴け」は、「僕」という一人称の「認識」に基づくモノローグ。でも、彼女の死という事実は認識しているもの、引き起こした原因も解き明かすことができず、意味や因果関係も見出すこともできないとき、「僕」がどう受けとめてどう在るべきか?

 1970年代初頭の社会的背景や流行であったり、受け止めがたい事実や経験それらそのものが何の因果関係を持たないように見えていても、自らの成長に役に立たぬものは無いということを示唆しているのかもしれません。

 風は気圧の傾きにより発生する自然現象に過ぎぬもの、風そのものの流れや力、風に靡く樹木のそよぎ吹く風が織り成す現象のすべてに五感を研ぎ澄まし、どのような歌を口ずさむのか?ということを問うているような気がします。

初稿 2017/06/05
校正 2020/11/13
写真 翼を持つ麒麟
撮影 2012/10/15(東京・日本橋)