「僕」と「鼠」について、旧友である彼がなぜ、「鼠」と呼ばれるのか?「僕」とは異なる視点で社会との距離感を認知し、「僕」とも距離感をもった存在。ひょっとしたら、彼≒「鼠」は、夏目漱石の「吾が輩は猫である」にて登場する名も無き猫の暗喩のような気がします。
「208」と「209」について、「僕」と共同生活を営む双子の姉妹。「僕」が姉と妹をそれぞれに認識するすべは、着ているTシャツにプリントされた番号のみ。でも、そのTシャツを入れ替えれば、どちらが姉でどちらが妹かは認識するすべも無い。ひょっとしたら、「僕」にとって彼女達は、識別が不要な存在であるかも知れず、認識は常識にあらずして、あくまでも個人に依存していることの暗喩なのかもしれません。
「ピンボールを探すこと」について、彼女の死という事実は認識しているものの、その原因を解き明かすことができない「僕」。当時、夢中だったピンボールを探すことを通じて、当時夢中だった彼女との記憶を呼び起こして、その原因を解き明かそうとしたのかもしれません。
因果関係が見当たらない事実に直面したとき、ひとは何らかの意識的な行動によってのみ、乗り越えることができるのかもしれません。
初稿 2017/06/13
校正 2020/11/12
写真「蒼天の塔」安藤泉, 1993.
撮影 2016/02/17(神戸・ハーバーランド)
「208」と「209」について、「僕」と共同生活を営む双子の姉妹。「僕」が姉と妹をそれぞれに認識するすべは、着ているTシャツにプリントされた番号のみ。でも、そのTシャツを入れ替えれば、どちらが姉でどちらが妹かは認識するすべも無い。ひょっとしたら、「僕」にとって彼女達は、識別が不要な存在であるかも知れず、認識は常識にあらずして、あくまでも個人に依存していることの暗喩なのかもしれません。
「ピンボールを探すこと」について、彼女の死という事実は認識しているものの、その原因を解き明かすことができない「僕」。当時、夢中だったピンボールを探すことを通じて、当時夢中だった彼女との記憶を呼び起こして、その原因を解き明かそうとしたのかもしれません。
因果関係が見当たらない事実に直面したとき、ひとは何らかの意識的な行動によってのみ、乗り越えることができるのかもしれません。
初稿 2017/06/13
校正 2020/11/12
写真「蒼天の塔」安藤泉, 1993.
撮影 2016/02/17(神戸・ハーバーランド)