Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§112「宿敵」(小西行長) 遠藤周作, 1985.

2021-03-27 | Book Reviews
 約四世紀前、豊臣秀吉が朝鮮半島へ侵攻した文禄・慶長の役を休戦に導いたキリシタン大名 小西行長と妻 糸の物語。

 戦国時代は下克上そのものであり、支配されていた者の無意識に潜む、あってはならぬ「影」という底知れぬ力が頭をもたげ、支配する者に対して、偽り・策略・謀略・殺戮の限りを尽くしたのかもしれません。

 秀吉はその底知れぬ力を抑制すべく、惣無事令による大名間の私闘禁止や刀狩りによる兵農分離を行う一方で、その巨大な力の捌け口を海外に求めたような気がします。

 また、朝鮮への橋頭堡となる九州への物流を堺の豪商 小西隆佐に担わせ、キリスト教に帰依した嫡男 行長を含むキリシタン大名を朝鮮侵攻の先遣隊として編成した秀吉の意図は、自らの王国に神の王国が在ってはならぬという信念もあったのかもしれません。

「この戦は戦うための戦とはお考えになるな。和を一日も早う結ぶための戦と思われることが何より大切でござるぞ」(上巻p230)

 伴天連追放令でさえも棄教しなかった高山右近の言葉。彼は続けて、秀吉を欺きたてまつり御逝去を待つことを行長へ説き、妻 糸は醍醐の花見で秀吉に毒を盛ります。

「我ら夫婦の敵は朝鮮にあらずして、太閤なり」(下巻p76)

 秀吉に忠実な加藤清正もまた、豊臣家滅亡後、肥後への帰途で謎の死を遂げます。

 命令には従うようにみせかけ、ひそかに愚かな戦から苦しむ人々を救うことは、自らの役割を宿命と捉え宿敵を倒すことに他ならず、覚悟が必要なのかもしれません。

 その覚悟をお互いが持つことで、糸もまた行長にとっての「永遠の随伴者」だったのかもしれません。

初稿 2021/03/27
校正 2021/05/02
写真 厄神龍王 龍壁
撮影 2021/03/21(兵庫・門戸厄神 東光寺)

α14「ルーヴル美術館展」 京都市美術館, 2015.

2021-03-20 | Exhibition Reviews
 西洋絵画において、往時の日常生活を伺い知ることができる絵画を風俗画(ジャンル画)と言うそうです。

 ジャンル(genre)とは、種族や血統を意味するフランス語に由来するそうですが、当時の絵画区分において、歴史画、肖像画、動物画、風景画、静物画の順に序列がなされ、その序列に属さない絵画をジャンル画と呼ぶようになったそうです。

 ところで、絵画の序列に君臨することになった歴史画は、その寓意的な構成によって描く物語のなかになんらかの宗教的価値観を示唆しているような気がします。

 初来日となったフェルメールの「天文学者」。深緑の和服を羽織る学者が手を広げた先の地球儀に観る者の焦点が絞り込まれます。

 ひょっとしたら、地球儀はテクノロジーの暗喩、深緑の和服は東洋への交易の暗喩かも知れず、世界的規模で広がる資本主義的価値観を示唆しているような気がします。

 真の芸術作品とは序列の枠に留まらず、観る者の想像力を掻き立てる存在なのかもしれません。

初稿 2021/03/20
校正 2022/02/10
写真 ルーヴル美術館展「日常を描く 風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄」図録~「天文学者」Johannes Vermeer, 1632~1675
期間 2015/06/16~2015/09/27
(京都・京都市美術館)

β8「Fukushima 50」 若松節朗, 2020.

2021-03-13 | Movie Reviews
 2011年3月11日、地震発生41分後に到来した巨大津波がもたらした福島第一原子力発電所の全電源消失。

 福島第一原発を「1F(イチエフ)」と呼ぶエンジニアにとっては、「1F」は自分を育ててくれた親代わりであるのと同様に、「1F」を我が子のように思い、なんとしてでも救おうとする気持ちを描いた視点はとても印象に残ります。

 ごく当たり前と思っていた存在や観念なるもの、それは故郷や家族の存在だったり、故郷に立地した原発が大都市へ電力供給することで生活は豊かになるはずという固定観念が、目の前から忽然と姿を消す喪失感と不安感は想像を絶するほどの青天の霹靂。

「間違えてたのは、自然をなめてたとことだ。慢心だった」(映画のなかの台詞より)

 事故から2年経った「1F」所長の追憶からは、核エネルギーそのものは理論的に制御できるものの、原発の立地条件や設計条件によっては、制御できるはずの核エネルギーは暴走しかねないことを想定すべきと示唆しているような気がします。

 地上波初放送のテロップは「事実に基づく物語」と記されていましたが、事実を受け入れた在るがままの自分が「真実に迫る物語」だと思います。

初稿 2021/03/11
校正 2022/02/09
写真 東日本大震災が引き起こした津波の爪痕
撮影 2012/05/26(宮城・南三陸町の防潮堤)

§111「男の一生」(前野長康) 遠藤周作, 1991.

2021-03-06 | Book Reviews
 遠藤周作が描いた「反逆」(→§108〜109)、「決戦の時」(→§110)、そして「男の一生」は、尾張・前野家に伝わる古文書「武功夜話」に着想を得た知られざる事実を通じて、無意識に潜む真実に迫った戦国三部作だと思います。

 前野家は木曽川の水運と傭兵を生業とした土豪であり、長康は若かりし頃より豊臣秀吉に仕えた最古参の武辺者として但馬守十一万石の大名にまで出世しました。

 武辺者とは郡や城を領する侍大将を意味し、長康もまた武辺者という「ペルソナ」としての元型を無意識によって追求していたのかもしれません。(ペルソナも自我のひとつなのかもしれません)

 一方、長康の心に去来する三人の女性、信長の側室・吉乃、その面影を宿す栄、信長の妹・市の存在は、集合的無意識に潜む在るべき女性像としての元型である「アニマ」を示唆しているのかもしれません。

 さらに、栄を斬らざるを得なかった長康は、深い憤りと後悔を通して集合的無意識に潜む「影」という元型とも向き合わざるを得なかったのかもしれません。

 ところで、集合的無意識は人類が進化する過程で蓄積された記憶やエネルギーの貯蔵庫、元型はその記憶やエネルギーを覚醒させるイメージと考えられており、その元型を受容することが、在るがままの自分としての自己に近づくのかもしれません。

 晩年を迎え、若かりし頃より仕えた秀吉は人が変わり、長年連れ添った妻・あゆも亡くした長康が宣教師と会って悟ったことは、

「かの世にて亡き女房とふたたび会える。まことの故郷はこの世にはござらぬ」(下巻p323) 

 心から頼りにする者がこの世に存在しないと感じるときであっても寄り添ってくれる「永遠の随伴者」を感じるとき、ひょっとしたら、在るがままの自分と出逢えるのかもしれません。

初稿 2021/03/06
校正 2021/05/02
写真「武辺者という『ペルソナ』」
撮影 2020/11/15(京都・亀岡)