Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§80「半島を出でよ」 村上龍, 2005.

2017-12-28 | Book Reviews
 英文法になぞらえると《未来形》。確実な将来を予定する"be going to~"ではなく、不確実な将来を予測する"will~"。

 方程式になぞらえると、境界条件は日本社会の閉塞感と朝鮮半島に関わる脅威。初期条件は日本社会からドロップアウトした少年達と北朝鮮体制下の屈強な兵士達。それぞれがそれぞれに導いた解は、決して交わることは無いものの、少年達は無意識に潜む「エス(ES)」の暗喩なのかも知れず、兵士達は意識を制御する「超自我」の暗喩のような気がします。

 フロイトの精神分析学の観点では、「超自我」と「エス(ES)」からの過度な要求を無意識的に防衛する心理的調整機能が「自我」。一方で、ユングの分析心理学の観点では、自らの無意識に潜む言葉に出来ないコンプレックスや自らが絶対に認めてはならないと意識されるイメージである「影」と意識的に対峙し、在るべき姿を追求し続ける行為が「自我」。

 それぞれの観点は違えども、限りなく現実に近い境界条件と限りなく究極に近い初期条件によって導かれた解は、それぞれの「自我」を描いているのかもしれません。

初稿 2017/12/18
校正 2020/10/25
写真 小説の舞台、シーホークホテル&リゾート
(現 ヒルトン福岡シーホーク)
撮影 2012/11/03(福岡・百道浜)


♪30「Season's Greeting 〜2017冬」

2017-12-25 | Season's Greeting
 常緑樹の雄々しい幹を星が導き、凛とした枝葉に飾りを纏う姿は観た人それぞれに色んな印象を与えてくれます。

 でも、どことなく安定感と安心感をもたらしてくれるような気がします。

初稿 2017/12/25
校正 2020/10/27
写真 アプローズタワー
撮影 2017/12/18(大阪・茶屋町)

§79「希望の国のエクソダス」 村上龍, 2000.

2017-12-22 | Book Reviews
 英文法になぞらえると、「愛と幻想のファシズム(→§76)」と同じ《仮定法過去》つまり、「もし、~であるのならば、~はず」であり、現在の事実と逆を示唆した在るべき姿なのかもしれません。

 そこで、方程式になぞらえると、境界条件は同じく日本の社会を覆う閉塞感。でも、初期条件が異なる13~15歳の中学生達が導いた解は、敵は存在するが、いじめられる者やいじめる者が存在しない「希望の国」。

 逆説的に言えば、今の日本には外敵を敢えて認識しないかわりに、いじめる者やいじめられる者が存在する社会であることも示唆しているような気がします。

 とは言え一方で、その「希望の国」の将来に一抹の不安を感じてしまうのは、《無意識》に潜む『影』との対峙であったり、性的衝動や死への渇望との葛藤といった、誰もが悩み苦しむプロセスが無いまま、在るべき姿のみを追究する《自我》を実験的に描いているような気がします。

初稿 2017/12/22
校正 2020/10/28
写真 未完成の観覧車
撮影 2016/05/01(大阪・吹田)

§78「ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界 Ⅱ」 村上龍, 1996.

2017-12-19 | Book Reviews
 戦慄かつ驚愕なシーンが連続する「五分後の世界(→§77)」の外伝。

 自我とは言わば、自らの在るべき姿、然るべき姿。そう成る為に、そう成らざるを得ない為に必須な危機意識とは何か?

 圧倒的な猛威を奮うウィルスの魔の手から、光を失った少年が唯ひとり生き延びたのは、光を失ったおかげで現実を想像せざるを得ない究極の危機意識が研ぎ澄まされたからに他ならないのかもしれません。その危機意識を持つためには、自らの深層心理に潜む『影』と如何に対峙するかを問うているような気がします。

 『影』とは、自らの深層心理に潜む言語化できないコンプレックス、自らが絶対に認めてはならないと意識されるイメージ(→§66「影の現象学」河合隼雄)。ひょっとして、瑞雲から降臨する天女の如く、自らの『影』に目を凝らし対峙するとき自我は漸く顕れるのかも知れません。

初稿 2017/12/19
校正 2020/10/29
写真 「天女(まごころ)」 佐藤玄々, 1960.
撮影 2012/10/15(東京・日本橋三越)


§77「五分後の世界」 村上龍, 1994.

2017-12-13 | Book Reviews
 英文法になぞらえると、「愛と幻想のファシズム」は《仮定法過去》。つまり、「もし、~であるのならば、~はず」

 もし、脈々と受け継がれた狩猟民族としての集合的無意識を覚醒させるのであるのならば、日本を覆う閉塞感を打破することができるはず。言わば、現在の事実と逆を示唆し、在るべき姿を問うているのかもしれません。

 一方で、「五分後の世界」は《仮定法過去完了》。つまり、「もし、~であったならば、~はず」

 もし、日本が太平洋戦争で降伏していなかったのであれば、存亡の危機的状況が比類なき技術革新をもたらし、世界を凌駕するはず。言わば、過去の事実と逆を示唆し、在るべき姿を問うているのかもしれません。

 でも、このふたつの作品は、日本の在るべき姿としての世界観を描いているのではなく、個人の在るべき姿としての自我の形成プロセスを示唆しているような気がします。

初稿 2017/12/13
校正 2020/10/30
写真 暗闇を見上げる平和の像
撮影 2014/02/02(大阪・なんば)