Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

α37E「ラケル」朝倉響子, 1995.

2023-07-28 | Exhibition Reviews
 「ラケル」とは聖書に登場する女性の名前のひとつ、その意味は「雌の羊」だそうで、なにも飾らない無垢な無邪気さを示唆しているのかもしれません。

 でも、眼前の「ラケル」は、その語感や意味からもたらされる印象とは微妙に異なっていて、どこかになにかしらの不安感や疲労感をのぞかせているような気もします。

 一方で、視点を変えると、なにかをやりきったような解放感や爽快感をものぞかせているような気もします。

 ひょっとして、その存在は、〈わたし〉がなにも飾らない無垢な無邪気さで観ることで、〈わたし〉にとってありのままの出来事を物語らせようとしているのかもしれません。

「この世界は、物ではなく出来事でできている」※

初稿 2023/07/29
写真「ラケル」朝倉響子, 1995.
撮影 2023/05/26(名古屋・栄公園)
注釈※ 「時間は存在しない」p.96, カルロ・ロヴェッリ, 2019.

α36E「ジル」朝倉響子, 1993.

2023-07-22 | Exhibition Reviews
「あっ、大阪の御堂筋で見た『ジル』だ!」※1

 ちょうど一年程前に東京・日本橋で偶然めぐり逢ったその姿が、約八年前に大阪・御堂筋でめぐり逢ったあの姿をなぜかしら思い出させます。

 朝倉響子の作品には同じ名をつけたものが幾つかありますが、この二つの「ジル」は、つま先を立てて椅子に腰掛けてはいるものの、両手の指の絡ませ方や表情からはそれぞれに違う印象を与えてくれます。

 ところで、〈時間〉は過去から現在、そして未来へと連続的に過ぎ去るものであると疑わなければ、作成時期や設置場所が違えば、同じ名でありながらも違う姿は別々の人がモデルであると、あたりまえに思うのかもしれません。

 でも、ひよっとしたら、その人の成長やその過程の出来事として、〈わたし〉が物語るとき、そういった〈世界〉固有の〈時間〉が存在するような気がします。

「そこにその人が存在しちゃうみたいな存在感に興味があるんです」※2

初稿 2023/07/22
写真「ジル」朝倉響子, 1993.
撮影 2015/03/21(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
注釈
※1)α16A「ジル」 朝倉響子, 1988.
※2)「光と波とー朝倉響子彫塑集」p.90, 1980.

♪59「分かちあう世界」

2023-07-14 | Season's Greeting
 引越しの三日後に入院した父がようやく退院して、先月から在宅介護が始まりました。

 献身的に父を介護してくれる妻、初めての転校に戸惑う次女、遠く離れた土地で一人暮らしをする大学生の長女と長男、リモートワークが定着してきたとはいえ単身赴任の私、それぞれがそれぞれに心配や不安を抱えていると思います。

 「弱くてもいいんだよ。解き放ったほうがいいよ。それが、〈あなた〉らしさだし、あるがままの〈あなた〉なんだと思うよ」

 そんな妻の言葉は、一人ひとりがそれぞれの〈世界〉をほんの少しであっても分かちあうことができれば、〈わたし〉が〈わたし〉であるということはどういうことなのかを気づかせてくれました。

初稿 2023/07/15
写真 蒼空と湖水を分かちあう天山の峰々
撮影 2023/04/02(佐賀・巨勢川調整池)

§168「死の家の記録」ドストエフスキー, 1860.

2023-07-08 | Book Reviews
 ドストエフスキーが実際に経験した四年に亘る流刑生活を、もうひとりの人物が遺した手記の形式を通じて蘇らせる作品です。

「これまでに知られなかったぜんぜん新しい世界、ある種の事実の奇怪さ、亡びた人々に関するニ、三の特殊な観察、これらは強くわたしの心をひきつけたので、〜まず試みにニ、三の章を選び出してみよう。是非の判断は読者にお任せするとして・・・」(p.9)

 後の作品群で登場する人物が群像として迫って来る印象。誰が人として、つまり〈わたし〉として在るべき姿であるのか、在りのままの姿であるのか、それがそうであることとそうではないことを考えることを通じて、〈わたし〉という存在はいかなることかを問いかけているような気がします。

「わたしはまだ憎むべきものの間に喜ばしいものが潜んでいることを察しなかったのである」(p.68)

初稿 2023/07/08
写真 塔を仰ぐ群像※
注釈※)「雲」朝倉文夫, 1974.
撮影 2023/01/12(東京・浅草寺)

α35D「少女」朝倉響子, 1980.

2023-07-01 | Exhibition Reviews
 真っ直ぐに伸びた両脚と緩やかな弧を描いた両腕、そして、片方の靴を携える右手を左手で添えながらしっかりと前を向いた姿は、凛として咲く花のようです。

 その表情からは、なぜかしら塞ぎ込んでいたあの頃※1から、暖かい陽の光に誘われて※2、緊張を解きほぐしながら※3、ゆっくりと立ちあがり※4、再び歩み始めようとする現在までを物語ろうとしているような気がします。

 ところで、"なぜ、〈わたし〉がそう思うのか?"

時間は過去から未来へ一方向に流れると思いがちですが、〈わたし〉が現在という一瞬に、限りある記憶という過去と限りない選択肢という未来を収束させているような気がします。

 片方の靴しか履いていないのは、いまだに少しだけ躊躇しているわけではなく、ひょっとしたら、ありとしあらゆる事象に向き合おうとする心構えとほどよい緊張感を示唆しているのかもしれません。

初稿 2023/07/01
写真「少女」朝倉響子, 1980.
撮影 2023/03/11(神奈川・秦野)
注釈
※1)α31D「女」朝倉響子, --?.
※2)α32D「女 Woman」朝倉響子, 1970.
※3)α33D「Woman」朝倉響子, 1973.
※4)α34D「WOMAN」朝倉響子, 1978.