「自らは誰であるか?」という根源的な問いかけ。言わば三島文学のモチーフ。自らが生まれた瞬間の光景が在り有りと記憶して描写できるのは、自らが生まれる前に潜むもうひとりの自分の暗喩。
ひょっとしたら、もうひとりの自分とは、分析心理学においてユングが提唱した集合的無意識に潜む『影』なのかもしれません。『影』とは、自らの深層心理に潜む言語化できないコンプレックス。自らが絶対に認めてはならないイメージ。(→§66「影の現象学」河合隼雄)(→§78「ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界Ⅱ」村上龍)
『影』に向き合って、在るべき自分の追究が自我を形成し、「自らは誰であるか?」という根源的な問いかけに何らかの答えを見出だした状態が自己同一性(アイデンティティ)なのかも知れません。
一方で、『影』に眼を奪われてしまえば、もはや自らが誰である必要もなく、『影』を纏う仮面が自らを支配してしまうような気がします。
初稿 2018/02/27
校正 2020/10/19
写真「少年と少女」リン・チャドウィック, 1996.
撮影 2016/05/22(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
ひょっとしたら、もうひとりの自分とは、分析心理学においてユングが提唱した集合的無意識に潜む『影』なのかもしれません。『影』とは、自らの深層心理に潜む言語化できないコンプレックス。自らが絶対に認めてはならないイメージ。(→§66「影の現象学」河合隼雄)(→§78「ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界Ⅱ」村上龍)
『影』に向き合って、在るべき自分の追究が自我を形成し、「自らは誰であるか?」という根源的な問いかけに何らかの答えを見出だした状態が自己同一性(アイデンティティ)なのかも知れません。
一方で、『影』に眼を奪われてしまえば、もはや自らが誰である必要もなく、『影』を纏う仮面が自らを支配してしまうような気がします。
初稿 2018/02/27
校正 2020/10/19
写真「少年と少女」リン・チャドウィック, 1996.
撮影 2016/05/22(大阪・御堂筋彫刻ストリート)