Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

♪55「秋は来にけり」

2022-11-26 | Season's Greeting
 小林秀雄は「実朝」のなかで約八百年前に生きた鎌倉右大臣についてこう記しています。

「あたかも短命を予知したような一瞬言い難い彼の歌の調に耳を澄ましていれば、実は事たりるのだから」(p.104)

 そして、数ある歌のなかから幾つかを挙げたなかの一句。

「吹く風の 涼しくもあるか おのづから 山の蝉鳴きて 秋は来にけり」(p.112)

 瞳に映る光景や肌で感じる涼しさなど、それらはそこに在るとはいえ、それらがなんであるのかと問いかけようとする瞬間、言葉によって選ばれるべき「意味」があらかじめそこに在るのかもしれません。

 歌は、語る人にとっては限り無い言葉のなかから"自ずから"分かれた言葉で物語る「世界」の在りようのひとつかもしれず、時を超えて読む人自らにとってもまたそうなのかもしれません。
  
 ひょっとしたら、"おのづから"とは、"自ずから"を意味し、限り無い言葉のなかから"自ずから"分かれた「世界」を、語る人と読む人に物語るのかもしれません。

初稿 2022/11/26
出典 小林秀雄, 1954.『無常ということ』新潮文庫, pp.87-115.
写真 自ずから秋は来にけり
撮影 2022/11/19(東京・高尾山)

§163「残酷人生論」 池田晶子, 1998.

2022-11-13 | Book Reviews
 とかく、店頭に並べられる「人生論」と称される本の多くは、"いかに生きるべきか"という、言わば「正解」なるものを説いているような気がします。

 たしかに、効率化や成果が求められる世界であればこそ、その「正解」なるものを疑い考えることなく、期待する方が楽なのかもしれません。

「人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである」(p.10)

 ところで、きちんと疑い考えるためには言葉を選び、"それがそうであること"と"それがそうではないこと"とをわかる必要があると気付くとき、そもそも"なぜそんなことができるのか?"という新たな問いかけが始まるような気がします。

「それは、言葉によって選ばれるべき『意味』が先にそこに在るからにほかならない。先にそこに在る意味がわかっているからこそ、人は言葉を選ぶことができるのである」(p.127)

 効率化や成果が求められる世界なるものに背を向ける人もいれば、睥睨する人もいるかもしれません。でも、自らがその世界なるものを疑い考えることによって、自ずからその世界なるものの意味がわかるのかもしれません。

「人は自分を『自分』と言う。漢字でそれを『自ずから分かれる』と書く。どこから自ずから分かれてきたのか、言葉はどこから分かれてきたのか、現代の魂はその出自を忘れているだけである」(p.129)

初稿 2022/11/13
出典「残酷人生論 あるいは新世紀オラクル」 池田晶子, 1998.
写真 "世界なるものに背を向ける姿と睥睨する姿"
撮影 2022/04/23(東京・朝倉彫塑館)

§162「睥睨するヘーゲル」 池田晶子, 1997.

2022-11-03 | Book Reviews
 ごくあたりまえに、"それはそうである"と思っていることについて、あえて、"それはなぜそうなのか"と問うことはしないような気がします。

「問題は、わからないものをわからないとしておくことができずに、自分のわかるようにわかって、わかった気になっている、このことである」(p.41)

 ドイツの思想家 ヘーゲルが説いた弁証法なるものは、"それがそうであること"と"それがそうではないこと"といった対立した事象から、なんらかの意味や価値を見いだす考え方だそうです。

 ふと、眼下に拡がる世界をじっくりと見つめてみれば、効率化や成果が求められる世界であくせくする自分が属するその世界なるものは、蒼空に抱かれた大自然からみれば特異的な事象かもしれず、ありのままの自分にとってあるべき世界なるものとは限らないのかもしれません。

「わからないことをわからないと曖昧に眼をそらすのではなく、『わからない!』とさらに眼を開いて凝視する」(p.42)

 「睥睨するヘーゲル」というタイトルは、現状に流されることなく凝視して、それがありのままの自分にとって、あるべき世界なるものかどうか問い続けることの大切さを示唆しているような気がします。

初稿 2022/11/03
出典「睥睨するヘーゲル」 池田晶子, 1997.
写真 "世界なるものを凝視する姿"
撮影 2022/04/23(東京・朝倉彫塑館)