42歳にして初めて、ドストエフスキーの作品を読んでみました。うまく表現しにくいのですが、サルトルの「嘔吐」(§35)の延長線のような印象。
相手を、侮ったり、見くびった時、もはや、必然的に支配しようとしてしまうのかもしれません。
・・・・
「あることの実行は時として、手慣れたもので巧妙過ぎるものだが、その行為を支配するものは様々な病的な印象に左右される」
・・・・(文中より抜粋)
ラスコーリニコフが降り下ろした斧は、本来ならば、薪を割る為の「物」であったはず。当然ながら、斧を降り下ろせば、結果として薪は割れるもの。
ある目的をもって存在する「物」は必然性。結果には必ず原因が存在するというのが因果性。つまり、必然的な存在として認知したとき、支配することによってもたらされる因果性について、果たして許されるのかということを問うている気がします。
罪とは自らが認知することに他ならず、罰とは自らが求めるべきものなのかもしれません。ラスコーリニコフが認知した罪と求めた罰。そして、彼を支えようとするソーニャ。罪を認知し、罰をあがない始めた時から、ひとは生まれ変わり始めることも示唆しているのかもしれません。
初稿 2015/06/16
校正 2020/12/30
写真「イヴ」 オーギュスト・ロダン, 1992.
撮影 2015/03/21(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
相手を、侮ったり、見くびった時、もはや、必然的に支配しようとしてしまうのかもしれません。
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「あることの実行は時として、手慣れたもので巧妙過ぎるものだが、その行為を支配するものは様々な病的な印象に左右される」
・・・・(文中より抜粋)
ラスコーリニコフが降り下ろした斧は、本来ならば、薪を割る為の「物」であったはず。当然ながら、斧を降り下ろせば、結果として薪は割れるもの。
ある目的をもって存在する「物」は必然性。結果には必ず原因が存在するというのが因果性。つまり、必然的な存在として認知したとき、支配することによってもたらされる因果性について、果たして許されるのかということを問うている気がします。
罪とは自らが認知することに他ならず、罰とは自らが求めるべきものなのかもしれません。ラスコーリニコフが認知した罪と求めた罰。そして、彼を支えようとするソーニャ。罪を認知し、罰をあがない始めた時から、ひとは生まれ変わり始めることも示唆しているのかもしれません。
初稿 2015/06/16
校正 2020/12/30
写真「イヴ」 オーギュスト・ロダン, 1992.
撮影 2015/03/21(大阪・御堂筋彫刻ストリート)