Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§30「意識と本質」 井筒俊彦, 1983.

2014-10-30 | Book Reviews
 「こころ」というものは、表層的な意識としての自我と深層的な無意識としての本質とに分けられるのではと考えられるそうです。

 ひょっとしたら、自我は、自らの願望や希望を叶えるために、いかに、まわりへ働きかける機能なのかもしれません。

 とはいえ、まわりとの働きかけに絶え間なく機能し続けると、つい条件反射的に反応してしまいがちですが、そんなとき自我の機能し続ける動きのなかに、一瞬でも、一呼吸でも間をおくことを心がけましょう。

 無意識に潜む網膜や嗅覚、感覚に刻まれた純粋経験の数々、対話やメディアから得られる間接経験の数々、発見や喪失、成功や失敗といった体験の数々、民族的に受け継がれた資質やイメージの数々、それらを離散的に量子化された情報として関係性や意味を見出だすことで、大局観を得ることに繋がるような気がします。

 眼を疑うほどの装飾の美しさは、眼を凝らして見れば縦横の糸を規則的に紡いだ機織りのようなものかも知れません。

初稿 2014/10/30
校正 2021/01/11
写真 端午の節句にて
撮影 2014/10/25(兵庫・西宮神社)

§29「子供の宇宙」 河合隼雄, 1987.

2014-10-03 | Book Reviews
 「所詮、こんなものである」と語ってしまうとき、成長は期待できないことが多いような気がします。

 決して冒してはならない領域であったり、秘密や畏怖の念が無意識裡にあるとき、ひとは謙虚になり、相手の気持ちを汲むのかも知れません。

 相手の気持ちを汲もうとするがゆえに、予測が難しいからこそ偶然性や因果律に囚われることのない実存を了解せざるを得ないような気がします。

 とはいえ、夢のなかで鯉と出逢うとき、それは成長や幸運の暗示であったり、その纏う色や大きさ、群れ具合によって示唆する意味も様々だそうです。

 ひょっとしたら、経験の多さだけが成長につながるとは限らず、なんらかの兆しを察知する感受性でもって然るべき時に成すべきことを果たそうとするときが成長の兆しなのかもしれません。

初稿 2014/10/03
校正 2021/01/21
写真 纏う色に染まる光景
撮影 2010/05/02(岡山・後楽園)

§28「日本の思想」 丸山真男, 1961.

2014-10-01 | Book Reviews
 「~である」と語るとき。それは解があらかじめ用意されており、もはや思考が停止するとき。つまり必然性や因果律といった(本質)存在に支配されることなのかもしれません。

 「~がある」と語るとき。それは解く以前の状態であり、思考する直前の状態。つまり偶然性や因果律に支配されない現(実存)在を認識することなのかもしれません。

 「~すること」と語るとき。それはそういった実存を認識することに加え、目的をもって自らが働きかけることなのかもしれず、むしろ用意された解を導くというよりは価値や意義をもたらすような気がします。

 「本質は実存に先立たず」とは、決して完璧で完全なる完成したものは存在し得ぬもの。ただ諦めずに前に進み続けることが大切なのかもしれません。

初稿 2014/10/01
校正 2020/06/26
写真 村雨の廊下
撮影 2017/04/08 (京都・仁和寺)