Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§150「現象学」 木田元, 1970.

2022-05-28 | Book Reviews
 長男が薦めてくれた本をきっかけに、これまで見過ごしてきた「考えるということ」について、いろんな問いかけがなされてきたことを少しだけ知ったような気がします。

 「それは、いったいどういうことなのか?それは、なぜそうなのか?」といった、名だたる哲学者達の問いかけが、思いもよらぬ巡り合わせを介して誰かの人生であったり社会や文化を含んだ世界へ影響を及ぼしていく物語を木田元は綴ろうとしたのかもしれません。

 ところで、近代化以降「世界」という言葉は、地球を国境で区切り、各国の立ち位置であったり対立や協調などをイメージされがちで、そういった世界にとって「人間というもの」は不安定な存在なのかもしれません。

 「現象学」とは、人間にとって「世界というもの」の意味を考えることであり、その世界が意味をもって成立するためには言語の働きが大切ということを示唆しているような気がします。

「つまりは『世界を見ることを学びなおすこと』にほかならないのである」(134頁)

初稿 2022/05/28
写真「ヘクテルとアンドロマケ」 ジョルジオ・デ・キリコ, 1994.
撮影 2016/05/22(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
発行 岩波新書(青版)763, 初刷 1970/09/21.

§149「なにもかも小林秀雄に教わった」 木田元, 2008.

2022-05-23 | Book Reviews
 ここ半年ほど、長男が薦めてくれた池田晶子の本を読むようになり、その考え方に影響を及ぼした人々との繋がりを知ろうと思うようになりました。

 日本を代表する哲学者の一人、木田元は小林秀雄の影響を受け、池田晶子にも影響を与えた一人とも言われるそうです。

 この本は自伝というよりは読書遍歴ですが、「それは、いったいどういうことなのか?それは、なぜそうなのか?」といった自分だけの秘密の問いかけが、学びの第一歩であることを伝えてくれるような気がします。

 そして、自分だけの問いかけだったはずの言葉が、思いもよらぬ巡り合わせを介して、自分以外の誰かも同じように問いかけていたことを知るとき、誰しもその言葉の力や働きに驚きや共感を隠さずにはいられないのかもしれません。

「読み手の方にも本との出会いの運命というものがあるのかもしれない。私はやはり小林秀雄を中心に、その中心の人たちに教えられて読み始めるしかなかったのであろう」(p.237)

初稿 2022/05/23
写真「鈴木信太郎 記念館」, 1928.
撮影 2022/04/03(東京・東池袋)
余話 小林秀雄ら後進を育てた東大仏文科教授の旧宅・書斎を撮影

§148「無常という事」 小林秀雄, 1946.

2022-05-14 | Book Reviews
 先の大戦下において、小林秀雄が著した批評文や語った講演内容について、終戦から約半年後に綴った短編集です。

 無常という言葉には、思いのままに権勢を奮い続けることは叶わぬ歴史は繰り返されるといった、常なるものは無いという響きがあります。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(「平家物語」, p.38)

 言葉には、その響きや印象、時代などによって、その意味が固定観念として定着するのかもしれず、歴史という言葉もまたそうかもしれません。

「人間の歴史は、必然的な発展だが、発展は進歩の方向を目指しているから安心だと言うのですか」(p.39)

 歴史とは何か?ただ、事実と事実の間に因果関係だけを見出すことは、本当に知っていることにはならないのかもしれません。

「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」(p.62)

 歴史を知ることは、たとえば、戦地に赴いた子供たちを待ちわびる母の言葉を介して、母の気持ちを自らの意識に再構築することもひとつなのかもしれず、それが「思い出す」ということのような気がします。

 「無常ということ」は、他人事であっても自分事として「思い出す」ことができる言葉の持つ力を見失いかけた現代への警鐘なのかもしれません。

「無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」(p.63)

初稿 2022/05/14
写真 遊就館前に佇む「母の像」宮本隆, 1974.
撮影 2021/09/11(東京・九段下)

§147「新・考えるヒント」 池田晶子, 2004.

2022-05-06 | Book Reviews
 小林秀雄の「考えるヒント」(§146)に倣って各章のタイトルや文章も引用しつつ、考えるということはなにかを記した作品。

 経済成長に伴う物質的な豊かさや表現の自由を謳歌しているかのように見える現代社会。でも目に見える物事に重きを置きすぎることで言葉を軽んじているのではないかという問いかけから始まります。

「この悪循環の中で忘れられていくのは、言葉は交換価値ではなく、言葉それ自体が価値なのだという、当たり前の事実である」(45頁)

 言葉が、世論や流行、自らの主張や周りからの評価などに使われる手段に過ぎない場合は、考えているつもりであっても考えていることにはならないのかもしれません。

 一方で、読み継がれる本に記された言葉には、時代の洗礼を受けて共感や感動をもたらす力が潜んでいるのかもしれません。

「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだと気がつく瞬間というのは、人間にとって、少なからぬ驚きである」(49頁)

 ひょっとして、その驚きの積み重ねが考えるということに他ならず、生きるということのような気がします。

初稿 2022/05/06
写真「考える人」オーギュスト・ロダン, 1926.
撮影 2018/11/03(東京・国立西洋美術館)